9月19日(土)、山口県防府市で、ソウルで一緒に勉強したKさんと28年ぶりに再会しました。15時に約束して日付が変わった明け方3時まで一緒にいて、ホテルに戻り6時間ほど寝まして、その日は10時に再び会って21時まで、1日半の間に約24時間一緒にいたことになります。その間、当時の想い出、また、28年という長い歳月の間にお互いにいろんなことがありましたので、話題は尽きず、一時も会話が途切れることはありませんでした。
Kさんは私がソウルに1年いて日本に帰国した後も韓国に残り、ソウルの大学に進学、卒業⇒韓国で就職⇒日本へ帰国し仕事⇒再びソウルに戻り大学院へ進学、結婚、そして日本に帰国と、足掛け9年間韓国で暮らした「勇者」です。大学院生の時から、通訳・翻訳者として活躍し、特に芸能関係の通訳の仕事を通じて経験された話は私にとって何もかもが驚きの連続でした。Kさんは今、ご家族で営む事業に打ち込んでおられますが、その一方でずっと韓国と日本の架け橋として「人と人とを結びつける活動」に取り組んで来られました。その経験は「真実は小説よりも奇なり」。いずれ映画やテレビで多くの人に知られる日が来るのではないかと思うくらいです。私は、Kさんの唯一無二の経験にスポットが当たるように、実現の可能性を模索したいと思っています。
ところで「人と人との結びつきを邪魔するもの」とはなんでしょうか。私は、人と人との間には、家と家とを隔てる「境界線」のように、普段は意識していないけれど、確実にそこに存在しているようなものがあると思っています。そして、私たちの周囲には実に多くの「境界線」が張り巡らされていることが分かります。年齢や職業、収入や学歴、地縁等々。それらによって「不自由」を感じている人もいるでしょうし、特に問題意識も持たずにあっさりと受け入れてしまっている人もいるでしょう。「境界線」は、自分が何者であるかを自覚する上で必要なものとも考えられますが、本来ひとつになれるはずの他者と自分とを分離する負の面を持っていることは見逃せません。
また、「境界線」は私たちが望んでできたものではなく、誰かが別の目的で作ったことが多いことにも注意が必要です。私たちは自分の意志とは裏腹に「境界線」を意識して考え、判断し、発言し、行動することを求められます。そして、そのシンボリックな例が、日本と韓国の関係です。一方、私たちの身近なところにもたくさんの「境界線」があります。本ブログでも度々取り上げた「生きづらさ(排他性)」を生むのも突き詰めれば人と人との間に存在する「境界線」だと思います。
Kさんの話しを聞いていて、彼はこの「境界線」をあまり意識していないこと。むしろ「境界線」を楽しみ、それをまたいで回遊する「自由」を体現しているように感じました。そこで、「生きづらさ」から解放されたい私たちが、彼の生き方からどんなヒントを得ることができるか考えてみました。
Kさんが「境界線」をまたいで回遊するエピソードとして通訳・翻訳の仕事をしていた時の経験があります。求められる役割を果たしたにもかかわらず、さらに自腹を切るようなことがあっても、ほとんど報酬を受け取れなかったことが度々あったそうです。その時は嫌だったけれど、それがきっかけで後から良い仕事が舞い込むようになったので、結果的に仕事を受けるのを止めなくてよかったとのことでした。「損して得取れ」の典型例です。
また、通訳者として日本人と韓国人の間に入り、両者が対立するような場面があり、韓国語から日本語、日本語から韓国語を伝える際に言葉のニュアンスを変えて、両者の関係がうまくいくように取り持ったりもしたそうです。これは統計的に唯一の「正解」を導くよう仕組まれたAIには到底出来ないことです。良い人間関係の構築を目的に、臨機応変に最適解を出すのは人間でなければ出来ないことです。加えて、Kさんには両者の関係を良い状態にしたいという強い動機があったと思います。
いま、私たちは、いつでも、どんな時でも「正解」を求められます。繰り返し「やって意味があるのか」「メリットがあるのか」と質問され続けると癖になり、誰かに言われなくても自ずと意識するようになります。でも、得すること、メリットがあることだけをやれば本当に成功するのでしょうか。また、そんな世の中は楽しいでしょうか。私はそう思いませんし、仮に、計画的に成功がもたらされるのであれば、世の中は成功者だらけになってしまいます。でも、現実にはそうなってはいません。成功を強く求められて挑戦しづらくなった現在において、むしろ成功者は減っているのかもしれません。
Kさんのように、自分と他人とを隔てる「境界線」や、「成功」と「失敗」とを分ける「境界線」、また国籍とかジェンダーとか、金持ちだとか貧乏だとか、そういった誰かが決めた「境界線」を鵜呑みにせず、内側からの興味とワクワク感で面白がってやってみる。自らの「思い」をごまかさず、無理と分かっていても飛び込んでいく感覚は今の時代だからこそとても貴重です。実はこの感覚は、Kさんに限らず、あの時ソウルで一緒に勉強した仲間の中には、多かれ少なかれ共有されていたと思います。なぜ、私たちは、はたから見れば危なっかしいこと、今振り返るとちょっと恥ずかしいことでも、思いっきりやることが出来たのでしょうか。
当時、私たちが通っていた語学堂には、アジア各国、欧米諸国から韓国語を学びに来る多くの人が在籍していました。短大や大学のように2年とか4年間のサイクルではなくて、1学期は10週間程でしたので、出会いと別れが数週間おきにやってくるような世界でした。ほとんどの学生は多感な青春時代真っ只中の若者でしたので、当然、恋に落ちます。それが遠く離れたところから来た2人であればあるほど、二度と会えないかもしれないという感傷的な気持ちから恋愛が盛り上がるのです。そして、限られた時間の中で普段ではとてもできないようなストレートな告白(共通語が韓国語なので少ない語彙で懸命に思いを伝える)をしたり、ドラマチックな愛情へ急進展したりしました。インターネットや携帯電話が普及するずっと前でしたので連絡手段は固定電話の呼び出しか手紙しかなく、リアルタイムにお互いが何をしているのか、どこにいるのか知ることもできず、その間は想像の世界で悶々として、次に会う時迄、期待と不安が交互に襲ってきます。そういう制約条件の下でお互いの気持ちをパンパンに膨らませて、いまにも破裂しそうな人たちがたくさんいました。そして、残念なことに、結局はなかなか結ばれない運命(因縁)が多かったように思います。
あの時、あの場所で出会い、あふれ出る「思い」から乗り越えることが出来た2人の間にある「境界線」は、実は、ソウルを離れた途端、乗り越えることが困難な、受け入れざるを得ないものであることを認めることになるのです。やがて、寝ても覚めても消えない感傷的な気分や憧れといった感情が時間の経過と共に記憶の奥深くにゆっくりと沈殿して鍵付きの小さな箱に収まります。そして、その箱は長年開けられることがなく、ひっそりと保管されています。そして、ある時、ある瞬間に、当時の歌や、映像が鍵の役割をして蓋が空いて、当時のほろ苦い思いと共に鮮明な記憶が一気にあふれ出すのです。私たちがソウルで経験したことは、そのようにして、あの時間を共有した仲間、一人一人の記憶の奥底にしっかりと保管されているはずです。
結局、Kさんは、多くの学生が最終的には受け入れざるを得なかった「境界線」に負けませんでした。足掛け9年間という長い韓国生活で身につけた「常識を鵜呑みにしない力」がそれを可能にしたのかもしれません。日本に帰国後、様々な困難に直面しながらも、終始一貫、徹頭徹尾、「境界線」をまたぎ続ける半生を歩んでこられました。そして、その行動は周囲の人々に伝わり、人と人とが結びつき、縁を紡ぎ出す「触媒」の役割を果たしてこられたのだと、私は再認識しました。きっと、これからもKさんは「境界線」をもろともせず、ぶれない人生を歩んでいかれるでしょう。
Kさんとの28年ぶりの再会という幸運に恵まれた私はとても刺激を受けました。記憶の奥底に保管していたソウルで学んだスピリットも久しぶりに味わうことが出来ました。この得難い機会をきっかけに、これからは、こだわりや先入観のない、愉快で、豪快な人生を歩んでいきたいと思います。