違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学③)

外国生活の始まりに、まず乗り越えなければならないことは「食べ物の匂い」ではないでしょうか。その国に着いて飛行機を降りると、まず感じるのは、この匂いは一体何だろうという感覚です。私の場合、住んだことがある国、韓国ではニンニク、シンガポールではスパイシーな香辛料、台湾ではハッカク、中国では豆板醤、ベトナムではハーブとヌクマム(魚醬)の匂いを感じました。逆に、日本を訪れる外国人は、空港で醤油や味噌の匂いを感じると聞いたことがあります。私が下宿生活を始めるにあたって、まずは「匂い」の洗礼を受けなければなりませんでした。

下宿が決まった私は、チャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)をチェックアウトしました。受付のハルモニ(おばあさん)は、なかなか先輩と連絡が取れない私を心配してくれて差し入れもしてくれました。頂いた恩というのは何年経っても忘れないものです。いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

スーツケースを転がしてしばらく歩くと延世大学の正門からシンチョン(新村)駅があるロータリーへとまっすぐ延びる通りがあり、両側には学生街らしく洋服屋さん、ファストフード店、飲み屋さん、タバン(カフェ)等が軒を連ねていました。当時はコンビニが無かったので、その代わりに食品から洗剤、歯ブラシまで何でもそろう「クモンカゲ」と呼ばれるお店があちこちにありました。

通りを渡って路地に入りしばらく行くとチャンチョン(滄川)国民学校(日本の小学校)があり、その脇の坂をずっと登っていって登りきったところを左折してしばらく歩くとクモンカゲがあり、その手前、左手に私が入居する下宿がありました。チャイムを押すと中から笑顔でアジュマ(おばさん)が出てきて「よく来たね」と。玄関で靴を脱いで入ると居間があり、奥には台所。ちょっと強面のアジョシ(ご主人)が私のことを待っていました。お二人から下宿生活のルールについて説明を受けました。

下宿代25万ウォンは月末に前払い。朝食は月曜日から土曜日の7:30から。台所にはインスタントラーメンが置いてあるから勝手に食べて良い。日曜日は教会へ礼拝に行くので、その前にお金を渡すので昼食は中華料理屋(韓国式)からジャジャンメンの出前を取ること。トイレとシャワーは共用なので綺麗に使って長時間占有はしない事。玄関の鍵を渡すので門限はないが遅く帰ってきたら静かに入ること。洗濯物は部屋にまとめておくこと。洗濯して乾かした服は畳んで机の上に置いておく、等々。「よろしくお願いします」と挨拶をして2階の自室に上がりました。2階には部屋が3つありました。私の部屋は右側の奥、6畳程の部屋の窓側には机と椅子がおかれていて、それ以外は何もなくがらんとしていました。窓を開けて下を見ると先程入ってきた玄関の真上だということが分かりました。ここで新しい生活が始まるんだなと少し感傷的な気持ちになりました。

下宿生は私を入れて4人。一人目は軍務免除されたロッテデパートの社員。韓国では会社員でも学生と一緒に下宿生をしている人が多かったです。韓国では3世代一人息子が続くと三大特赦といって軍務が免除される仕組みがありそれに該当した温厚な人でした。二人目は軍務を終えて戻って来たばかりの大学院生で怒りっぽい人でした。この二人はハッㇷ゚パンとよばれる相部屋でした。三人目は日本の中学校を退職してソウルの大学院で韓国の児童文学の研究をしている40代のやさしいおじさん。この方は日本へ帰国後、韓国児童文学の研究者として活躍されたようです。そして私。

その日は彼らが下宿に戻ってくるのを待って、私の歓迎会がありました。アジュマ(おばさん)が作ってくれた料理を食べ、お酒を飲みました。韓国がまだまだウリ(我々)文化一色だったこの頃は、何をするのもみんなで一緒。一人で食事をすることなど考えられない時代でした。この下宿は小さかったのですぐ打ち解けましたが、大きな下宿だと地上4階建てで数十部屋というようなところもざらにあり、しょっちゅう下宿生が入れ替わるので月に何回も歓迎会をしているようなところがありました。私は1年間で2回引越ししたのですが、3番目の下宿では歓迎会をしてもらいました。シンチョン(新村)近辺の大学の1学年ばかりで私が一番年上でしたので、一緒に映画を観に行ったり、飲みに誘われて恋愛相談をされたりして、いろんな思い出があります。

下宿生活の2日目は、本を読んだりしてゆっくり過ごそうと思い、朝食後部屋でゴロゴロしていました。すると、1階の台所でアジュマ(おばさん)が料理を始めたようで、その直後に酸っぱいような、甘いような、辛いような、何とも言えない(私にとってはきつい)匂いが漂ってきました。それが何だったのか、ひょっとするとテンジャン(韓国味噌)料理をつくっていたのかもしれませんが、今でも何なのかはっきりしません。いずれにせよ私にとっては非常に耐え難いその匂いはどんどん強烈になっていって、窓を開けても締め切っても何故か部屋に充満しました。私は耐えられなくなってトイレで嘔吐しました。そして、すっかり食欲がなくなり、匂いから逃れるようにして外に出ました。

夕方まで街をぶらぶらして下宿に戻り部屋にいると、今度は夕食の準備が始まり、また同じ匂いが部屋に充満しました。私は再びトイレで嘔吐しました。すっかり参ってしまった私はじっとしているしかないと思い部屋で一人耐えました。夜中もその匂いのことが頭から離れず、思い出しては吐き気を催す始末。やがて、アジュマ(おばさん)が料理をしていないのにその匂いが下宿中至るところにて染みついているような気がして、寝ても覚めても吐き気に襲われました。そんな状態で過ごした3日目、翌日から学校が始まる日曜日の夜にアジュマ(おばさん)がいつものように料理を始めて「ああ、まただ」と思った瞬間、全く匂いが気にならなくなっている自分に気付きました。「あれ、全然気持ち悪くないぞ」と。それからというもの、韓国で、匂いが原因で気持ちが悪くなったことは一度もありません。匂いにも免疫のようなものがあるのかもしれません。

下宿生の中で一番年下だった私は、週末のラーメンづくりを任されました。児童文学研究者の日本人のおじさんから何かを指図されることはありませんでしたが、2人の韓国人下宿生はちょっと厳しかったです。韓国では誕生日がたとえ一日でも早いとヒョン(兄貴:弟から兄へ)と呼ばなければならず、どこにでもタテ社会が存在あります。そこで、一番年下の私はラーメン当番をやらされることになったのです。例の匂いで気持ちが悪い中、台所に立ち、いまでは日本でも有名になった辛ラーメンを3人分つくりました。鍋に水を入れて沸かして煮込んで出来上がり。鍋を卓袱台の真ん中において、各自それを箸で突っつくという韓国スタイルで食べたのですが、韓国人下宿生2人は口に入れるやいなや、

「マドプソ!(不味い)」

と言いました。日本のインスタントラーメンの感覚でつくったので水が多すぎてしまったのです。そして児童文学研究者の日本人のおじさんが、

「韓国では日本のインスタントラーメンをつくる時の半分くらいの量の水が適量なんだよ」

と教えてくれました。そして、麺を食べ終わると今度は白飯を入れて雑炊のようにして汁迄食べ切るのです。それ時以来今日までずっと、辛ラーメンづくりは妻にも任せません。2人の韓国人下宿生の「マドプソ(不味い)」という言葉が聞こえてくるような気がして、水加減には注意してつくっています。

いよいよ登校初日です。授業は9時始まりで、下宿から学校までは30分程の距離でしたが、少し早めに下宿を出ました。

下宿を出て右に曲がり両側にレンガ造りの一軒家(ほとんどが「下宿」と張り紙がされていました)が連なる道をずっと歩いていきます。その道の突き当りのところが3~4メール程の急な下り坂になっていて、下りきって左折すると鉄道の線路があり、そのトンネルをくぐってすぐ右側の階段を上がると目の前に延世大学の正門が見えました。後から分かったのですがこの数メートルの急な下り坂は異常低温と言われ氷点下18度まで気温が下がったその年の冬、雪が降って凍結した時には、手すりがないので下りることも上ることもできず、目の前の、3番目に住んだ下宿に非常に遠回りをして戻った記憶があります。

延世大学の正門を大通りの向こう側に見ながら緩やかな坂を下っていくと、右側にキオスク(売店)がありました。新聞や雑誌、ガムや飲み物、たばこ、テレフォンカード、市内バスのトークン、座席バスの切符等々、何でも売っていました。日本と違うのは、たばこを1本ずつばら売りしていたことです。封を切った煙草が入ったケースが店番のアジュマ(おばさん)の目の前に置かれていて、次々に学生が来て「タンベ(タバコ)ハンキャピ(1本)ヂュセヨ(ください)」と言っては1本引き出し、上からひもでぶら下げたライターで火をつけ、プカーっと吹かして次々と立ち去っていくのです。その様子を見て「かっこいいな」と思った私は少し後から真似するようになりました。

売店(キオスク)の隣には靴磨き小屋。おじさんたちが黙々とお客さんの革靴を磨いています。当時、軍務を終えて戻ってきた男性は一目で見分けがつきました。まず、雰囲気が年齢不相応におじさんぽい。そして何故かスラックスと革靴をはき、革のバッグを持っていました。

売店と靴磨き小屋の前にはバス停がありました。次々とすごい勢いてバスが突進してきて、本来停車すべき位置とは離れた位置に急ブレーキで停車していきます。その度に人々が猛ダッシュしてバス前方の乗車口に殺到し、我先にと乗り込み始めます。バス停は、大きく市内バス(定額180ウォン)と座席バス(定額470ウォン)に分かれていて、バス停の掲示板には、それぞれ、すごい数のバスの番号、1桁から4桁までがびっしりと書き込まれていました。また、バスの車体側面には、始点から終点までの主要なバス停が書き込まれていて、当時ハングルがほとんど読めなかった私は、どこに行くバスなのか全く見当がつきませんでした。

しばらく歩くと大通りを潜り抜けて延世大学の正門に出る地下道がありました。地下道の階段を下りていくと薄暗い通路の中央には売店がありハルモニ(おばあさん)が店番(オーナー?)をしていました。私が店の中を覗くと、手前には商品が積まれていて、奥の小上がりの2畳ほどの狭い空間にはストーブに当たりながらテレビを視ているハルモニがいました。私は冷蔵庫から牛乳をひとつとって「イゴチュセヨ(これ下さい)」と言いました。当時も牛乳の種類は豊富で、ソウル牛乳、ヘッテ牛乳、そしてヨンデ牛乳(延世大学の牧場で飼育している乳牛の牛乳)があり、さらにコーヒー味、バナナ味、イチゴ味等々、様々なフレーバーがありました。ハルモニはテレビを視ていた眼をこちらに向けて、ちょっと変な顔をして日本語で、

「あんた日本人か?」

と尋ねてきました。

「はい、日本人です。横浜から来ました。」

と答えました。おばあさんは、それまでの険しい表情を急に緩めてニコッと笑い、

「そうか、よく来た。」

と言われました。お金を払おうとすると、大学生が売店に入ってきてパンを手に取り、ぶっきらぼうに、

「オルマエヨ?(いくら?)」

と尋ねました。ハルモニは再び険しい顔になって、ぶっきらぼうに値段を言いました。学生が出ていくとハルモニは再び笑顔になり日本語で、

「日本人は礼儀正しく優しいので好き、またおいで」

と言いました。そしてお金を受け取りませんでした。私はお礼をして店を出ました。このハルモニとの交流は結局1年間に渡って続きました。ハルモニから聞いた興味深い話は改めて書きたいと思います。私は地下道を通り抜けて正門から大学の構内に入りました。

延世大学の構内は中央に片側1車線の車道とそれに並行してポプラ並木と歩道がまっすぐ伸びています。道路の上には途切れることなく横断幕がかかっていて、ずらっと並んだハングルの最後には「!」や「!!」と書かれていたので、何やら学生への檄文のようでした。その時は全く意味が分かりませんでした。まっすぐ進むと左側に図書館、更に進むと右手に学生会館がありました。学生会館の1階には大食堂(ポックンパプ(チャーハン)等、800ウォン)、売店、銀行、2階は軽食と売店、カフェテリア、床屋、旅行会社、中央にコーヒーの自販機(50ウォン)、3階より上は怪しい雰囲気の、サークルか何かの部室があり近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

突き当り迄行くと、今も昔も多くの映画ドラマの撮影ロケに使われているアンダーウッド館(本館)があり、その右側には緩やかな坂が伸びていて森の中に入っていきます。延世大学の敷地の背面は小高い山があり、森に入る道の左手には登山道があり、お年寄りが次々と山から下りてきました。

韓国の人は今も昔の何故か山登りが大好きです。昨年、プサンに行ったときにその理由を質問したのですが、

「じっとしていられないから」

というのが回答でした。しかも、ただ登るのではなく、ヤクス(薬水)と呼ばれる湧水を汲みに行くので、小さめのポリタンクを抱えています。日本だと水汲みは沢など下に降りて行きますが、韓国では山に登るのです。お年寄りがこんなに重いものを平気で運ぶなんてすごいなと思いました。また、休みの日にはグループで食事とお酒をもって山に登り、山頂で唄い、踊ります。下宿のおじさんとおばさんも土曜日には朝早く出かけて山登りをして酔って帰ってくることがありました。転んだりしないのかなと心配でしたが全然平気な様子でした。

森の中の道を抜けると後門があり、その先の坂を下りて行くと左側に大きな校舎が現れます。目的地の「韓国語学堂」です。新しい校舎が完成して最初の学期だったので、まだピカピカでした。正面玄関から入ると受付があり、名前を名乗ると教室を教えてくれました。階段で2階に上がり教室に入りました。黒板を中心に、教室をぐるりと取り囲むように扇状に椅子と一体になった机が並んでいて、既に、何人かが到着していました。ぱっと見て日本から来た人、アジアのどこかの国から来た人、ちょっと見当がつかない人がちょっと緊張して椅子に座っていました。私は「ハロー」と言うべきか「アンニョンハセヨ」と言うべきか「おはようございます」と言うべきか迷って、結局黙っていました。

やがて、用意された椅子がすべて埋まって9時になり、先生が入ってきました。とてもきれいな(可愛い)若い女性です。彼女は元気よく「アンニョンハセヨ!」と言いました。私たちが黙っていると、もう一度「アンニョンハセヨ!」と返事を促しました。私たちも「アンニョンハセヨ!」と挨拶をしました。この一言から私たちの韓国語の勉強が始まりました。今でも忘れられない先生の名前は「ミン・ヂスクさん」。延世大学を卒業してチェイル(第一)銀行に勤めた後、退職して語学堂の先生になったと話されていたことを思い出しました。恐らく20歳代半ばくらいだったと思います。私と同じクラスで一緒に勉強を始めたKさん(語学堂卒業後、韓国の大学、大学院に進学し修了。足掛け9年間ソウルで暮らした勇者)と明後日、約30年ぶりに再会するのですが、Kさんの話しによるとミン先生は、まだ語学堂で韓国語を教えていらっしゃるとのこと。コロナウィルス感染が終息したら是非二人で先生に会いに行きたいねと彼と二人で盛り上がっています。楽しみがまた一つ増えました。

次回は韓国語の勉強と忘れられない人々について書きたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)