違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学①)

「人事担当者が扱うテーマとは何か」を考えています。

教科書的には、経営者と従業員のニーズにマッチした制度をつくったり、運用したりすること。また、勤怠管理や給与計算といった事務仕事を正確に、スピーディにこなすこと、となるでしょう。それらは確かに重要ですが、より重要なことは、

「人事とは人間学そのものである」

ということではないかと思います。

人間学とは、文字通り「人間に関する学問」です。そして、その中心的なテーマは、職場に限らずあらゆる人間の集まりにおいて発生する「対立」を「回避」することではないかと考えています。大きくは国家間、民族の対立。身近なところでは友人間、家族内で生ずる不和等があります。

人には本来、人とつながりたい、良い関係を築き保ちたいという本能がありますが、一方では、自分(達)と人との違いを見つけて線を引いたり、無視したり、時には排除までしてしまうものだということを理解しておく必要があります。

私が人事担当者としてずっと向き合ってきたのは、職場内で連鎖的に発生する人間関係のトラブルと、その原因である排他的な感情でした。私の目標は、そういったネガティブな感情に支配さされずに、人との「分裂」や「分断」を嫌い、憎み、自制して、意識的に良い行いが出来るようになることです。

そこで、私は、他者との境界線をはっきり意識できるような、ややもすると対立が生じやすい環境に身をおくことを選びました。そして、自分と他者とを隔てる境界線をまたいで「異質なもの」と向き合い、乗り越えようと苦心することに生き甲斐を感じるようになっていきました。

「違う環境に身を置き、異質なものと向き合った」中でも、特に思い出深いのは、韓国ソウルで過ごした1年間(1991年4月~翌3月)でした。

これまで私はソウルでの思い出を、どこか封印してきたのかもしれません。留学を終えて帰国した時、友人から、

「韓国に行って意味なんてあったの?」

と質問されました。その時とっさに出た言葉は、

「知らずに済むのなら知らない方がよいこともあるよ」

でした。たった1年間の短い時間でしたが、そこで過ごした濃密な時間は、人に話してもなかなか理解してもらえる内容ではないですし、それだったら敢えて話さないと決めていたのかもしれません。

当時の韓国は軍事政権から民主化への大きなうねりの中にあり、人々が新しい社会と秩序を模索していた時期でした。デモの鎮圧で街が機動隊に占拠され、学生と見れば機動隊に追いかけられ、捕まると輸送車に押し込まれて留置所に連れていかれるような日常が、バブル最盛期の浮かれた日本からやってきた私の目にはどのように映ったのか、30年前の記憶を辿ります。

日本にとって最も近い外国であり、両国の歴史認識の違いから時に対立し、時に近づいたりする韓国。同じ民族でありながら政治体制の異なる南北国家に分断され、統一への気運が高まったり冷めたりを繰り返す、日本と切っても切れない国、韓国への思いを「人間学」の視点から書きたいと思います。

1.韓国人との初めての出会い

1年浪人して大学に入学したものの勉強に身が入るわけでもなく、バイトと社会人吹奏楽団での楽器演奏に明け暮れて、何となく1年半を過ごした1989年12月のこと。横浜の実家の隣で新聞販売店を経営していた大叔父(祖母の弟)から

「お店でクリスマスパーティーをやるんだけど、かっちゃん(私のあだ名)来ない?実は、お店に韓国の若者2人が奨学生として住み込みで新聞配達をしながら日本語学校に通っていてね。日本に来て1年も経つのに日本人の友達が出来ないと寂しがっているんだよ。だから、一緒にお酒を飲んであげてくれないかな」

と誘われました。私は、彼らが1年間日本にいるのに日本人の友達がいないということにとても驚き、可哀そうになりました。少しでも役に立つのならと考えて

「喜んで行きます」

と返事をしました。大叔父がもし私を誘っていなかったとしたら。クリスマスイブに別の用事があって大叔父の誘いを断っていたとしたら。。。私のその後の人生、就職先も結婚も、すべてが書き換わっていたと思います。私に訪れた最初の人生の分岐点でした。

クリスマスイブの夕方に新聞配達店に行きました。普段は折込チラシを新聞に挟む作業をする台の上に、たくさんの食事とお酒が用意されていて、配達員の皆さんと韓国人の2人(オク・ヨンハンさん、コ・ミョンチョルさん)が私を待っていました。乾杯して楽しく時間を過ごすうちにオクさん、コさん、私の3人で彼らの部屋で2次会をすることになりました。

オクさんは韓国のソガン(西江)大学在学中に軍務に就き、除隊して卒業後日本に来たこと。家族全員がクリスチャンで、下の名前のヨンハンというのは、使徒ヨハネからとったもの、とのことでした。

コさんは専門学校を卒業して軍務に就き、除隊して一旦就職したものの日本語をマスターしたいと退職し日本に来ました。

私はそれまで韓国人と会ったことも話したことも無く、彼らの言動一つ一つが日本人と違うので興味が湧きました。行動が速いこと、そして、大きな声でよくしゃべる。日本語はとても上手でした。あと、キムチの匂いの記憶が鮮明に残っています。まず、彼らは日本に来て1年経つのに、新聞配達と日本語学校の往復だけの生活で、加えてテレビもなく、日本社会のこと、日本人のことについて圧倒的に情報が不足しているようでした。彼らの目を通して見た日本理解の中には、一方的な思い込みの部分もあり、私は都度その説明と修正をしました。彼らとはとても気が合いましたので、これからもちょくちょく会いましょうということになりその場はお開きとなりました。

私は、横浜の磯子区で生まれて小学校1年生まで過ごしました。近所に自転車屋さんがあり、その息子と同級生でした。ある日、彼と一緒に遊んでいた時に、近所のおじいさんがやってきて、

「あの子とは遊ばないほうがいいよ」

と言われました。私は、仲の良い友達と遊んでいるだけなのに、どうしてその子とだけ遊んではいけないのか、さっぱり意味が分かりませんでした。

その後、市内の戸塚区に引っ越してしまいましたので、その記憶もすっかり薄れていたのですが、二人の韓国人との出会いがきっかけで、急に近所のおじいさんが発した言葉、

「遊んではいけない」

の背景に、

「差別」

があったことが分かってきました。

なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。なぜ、彼は私と違うというのか。疑問が次々と湧いてきました。そして、本屋に入り浸っては、朝鮮半島の古い歴史や近現代史について理解しようと本を読み漁りました。

近現代史については学校でも基礎的なことは学びますが圧倒的に知識が不足していることが分かってきました。日韓併合の経緯や統治の実態、また日本敗戦後の朝鮮戦争、そして在日韓国、朝鮮の人々がどのような立場で暮らしてきたか、徐々にその輪郭がはっきりとしてきました。

私の「韓国のことをもっと知りたい」という素朴な動機は、初めて知り合った韓国の2人との交流から始まったのでした。

2.初めての韓国旅行

年が明けて、その日も韓国人2人の部屋を訪れていろんな話をしていた時にコさんから、

「大西さん、今度旧正月で一時帰国するんだけどソウルに来ない」

と誘われました。私は、二人を通じて既に韓国に興味を持っていたので、迷わず、

「行きます」

と答えました。

当時、韓国入国には短期滞在ビザの事前発給が必要でした。航空券を予約して磯子の韓国領事館に出向きビザの申請をしました。パスポートを預けて3日後に発給されました。

コさんは先に帰国していましたので、単身、成田空港からソウル・キンポ(金浦)空港に飛びました。キンポ空港に到着して駐機場に飛行機が停まり、窓の外に整備や荷物を運ぶスタッフが次々に現れた時、そんなに多くの韓国人を見たことが無かったので、ちょっと緊張したことを覚えています。

飛行機を降りてターミナルビルに入ると、全体的に古びていて照明は薄暗く日本の地方都市の空港のようなイメージでした。入国審査官はぶっきらぼうで警察で取り調べを受けているような気持になりました。

荷物検査を終えて到着ロビーに入ると自動小銃をもった軍人二人が巡回しているのに驚きました。その時、韓国と北朝鮮は準戦時下の休戦状態にあるということを痛感しました。そして、出迎えに来てくれたコさんに会いました。

二人でバスに乗り市内に向かいました。後に下宿することになる、ヨンセ(延世)大学があるシンチョン(新村)に着き、旅館に荷物を置いてすぐに観光を始めました。ソウルの主要な観光地(キョンボックン、チャンドックン、チョンミョ、インサドン、ナンデムン、トンデムンなど)をほぼ巡りました。印象としては、高2の時に吹奏楽部の演奏旅行で訪問した中国北京の歴史的な文化施設の建築様式や朱色を基調とした色彩が似ていると感じました。コさんは学んだ日本語で目に入るもの、ことについて一生懸命に説明をしてくれました。

そして、ソウル駅から特急列車のセマウル号に乗って古都キョンジュ(慶州)へ。仏教建築と仏像は洗練されていて、日本の仏教の源流はここにあるのだと思うと目が釘付けになりました。

ソウルに戻り、次は一般の鉄道(ディーゼル機関車の列車)で38度線近くのイムジンガク(臨津閣)へ。パンムンジョム(板門店)ツアーは大韓旅行社という旅行会社が独占するツアーに申し込まなければならず、加えて韓国人は参加できない決まりだったため、鉄道で行ける休戦ライン(38度線)ギリギリのところへ行くことにしたのでした。

途中駅に停まると弁当やお菓子、お酒を売りに来ました。窓を開けてキンパㇷ゚(韓国海苔巻き)と焼酎、ゆで卵を買いました。ゆで卵をひたすら食べているコさんの姿が印象的でした。韓国人は外出すると必ずゆで卵を食べますが何故なんでしょう?イムジンガク(臨津閣)にある展望台からは緑ひとつない荒涼とした土地とイムジンガン(臨津江)、そしてその先に北朝鮮が見えました。

そんなことをしている内に旅行も終わりに近づき、ソウルでコさんの友人と3人と食事をしました。その時彼に言われたことがずっと忘れられませんでした。

「大西さん、韓国を見てどう思いましたか? 発展しているでしょ? 日本に負けてないでしょ?」

と。私は正直言って、当時のソウルが東京と同じかと言われるとそう思わなかったので答えに困りました。でも、当時の韓国人にとって日本は、いつも意識して目指すべき存在。いつか必ず追い越さなければならない目標でもあり、宿敵でもあるのだな、と。

さらに、韓国語はよくわかりませんでしたが、コさんはその友人からしきりに日本について質問をされているようでした。そして、コさんが少し困ったような顔で返事をしている姿が印象的でした。

その時思ったのは、韓国人の中にも日本のことを知っている人、知らない人がいる。でも、日本のことを知らない人も、何となく知った気持ちになっているのではないか。そして、間違った日本に関する情報が広がっていて、その脚色された情報の方がより刺激的で、地味な真実より韓国人の頭の中にすりこまれやすいのでは、と感じました。

終始同行してくれたコさんのおかげで、この旅行は私が韓国の今を知るとても充実したものとなりました。一方で、人との距離感が日本人よりも近い(知らない人に話しかけたり、話しかけられたり)ことや、男性の行動が強引で、ちょっと乱暴な感じがしたりして、ここで生活するのは私には無理だなと思って帰国しました。

しかし、時間が経つにつれて、どうしても気になってしまうのです。韓国のこと、韓国人のことをもっと知りたいという気持ちが次々湧いてきます。それがどうしてなのかよくわかりませんでした。理屈ではなく、引き寄せられる感じでした。

コさんが日本に戻ってきて、そのことを話したら「じゃあソウルに留学したら」と勧められました。それで、私の方向性は決まりました。

両親にそのことを話したら最初父は反対しました。留学するなら英語圏、若しくは台湾はどうだと。韓国は勧めないという言葉でした。なぜ父がそう言ったのか。韓国のことを知らない父には育ってきた過程でまだ偏見があったのだと思います。そんな父の韓国に対する印象は、私の留学が始まった後ソウルに遊びに来た時に「韓国は面白い」という見方にすっかり変わってしまいました。

しかし、当初、父は賛成ではなかったので、学費と休学にかかる費用は自分で工面することになり、バイト代が良いので新聞配達店で朝刊の配達をすることにしました。また、4年で復学するので、極力単位は取っておこうと考えてそれまでになく勉強しました。そして、留学先の学校と保証人探しを並行して行いました。

次回は、留学の準備と留学直後の出来事について書きたいと思います。

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