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違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学⑤)

1991年4月、ソウルでの留学生活が始まりました。韓国語学堂の授業の特徴は、韓国語以外の言語を一切使わず、先生が、韓国語で韓国語を教えることです。カリキュラムは、文章と読解、会話、リスニング、ハングル文字の学習に分かれていて、計4時間の授業を受講することで体系的に韓国語をマスターしていきます。そのメソッドは素晴らしいものでした。そして、毎日、新しく学んだ構文を使って、5つ以上の例文をつくるという宿題が出されました。伝えたいことを表現するためには、新しい単語を調べなければならず、辞書とにらめっこしなければなりません。そうやって語彙も少しずつ増えていきました。

語学は3の倍数で上達する、と聞いたことがあります。私の実感でも、最初の3週間でぐっと伸びて一旦停滞。3ヶ月でぐっと伸びてまた停滞。そして、6ヶ月目に上達を実感する。これを繰り返しながら、徐々にいろいろな言葉が理解できるようになっていきました。「分かる」ことは喜びにもなりますが、反面、分かったことで生じる戸惑いもあり、喜びと戸惑いが、ほぼ同時に増えていくような感覚を味わっていたと思います。

日々の上達のスピードは非常にゆっくりなため変化を感じることはほとんどなかったのですが、留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、バスの車内から外を眺めていて、次々に視界に入っては離れていく店舗や道路標識、看板等に書かれているハングル文字を瞬時に読み取っている自分に、何の前触れもなく気付いきました。学ぶことは「自分が変わること」だと初めて実感した瞬間でした。

地下鉄に乗っていると、駅名や乗り換えの案内以外にもいろいろな車内放送が耳に入ってきました。そして、バスには、新聞やガムを売りに乗ってくる子供たちが次々と乗ってきて、大きな声で何かを訴えていました。何を言っているのか皆目見当がつきませんでしたが、この子供たちは一つか二つの停留所の区間だけ乗っては下車していきます。そうやって恐らくソウル中のバスの乗り降りを繰り返していたのでしょう。運転手はそんな子供たちからは乗車賃は取りませんでした。そして、前述と同じく留学開始から3ヶ月ほど経ったある日、今まで全く聞き取れなかった言葉の意味が突然理解できました。

地下鉄の車内放送は、政府機関からの通達で「怪しい人物(北朝鮮のスパイ)を見つけたら連絡をしてください」などと繰り返し放送していることが分かりました。また、バスの車内で新聞やガムを売る子供たちは、乗客に挨拶をして、自分の身の上を語り、(新聞等を)買ってくださいと懇願していることが分かってきました。意味が分かり始めると、それまで傍観者でいた自分の中にいろいろな感情が湧きあがってきました。

韓国と北朝鮮は休戦中で、いつ戦争が始まるかもしれないという緊張感。当時のソウルには多くの孤児がいて、悪い大人たちに操られて物売りをさせられていたりすることも分かり心が揺れました。他にも、ソウルで生活している以上、知らなかったでは済まされないことが次々と分かってきて、それら一つ一つの情報を一旦は受け入れ、次に自分なりに解釈した上で整理するのに精一杯だったことを覚えています。

しかし、留学生活の始まり時期における出来事で、けた違いにインパクトが大きかったのは「学生によるデモ」でした。

今振り返ると1991年という年は、日本にとっても韓国にとっても、また世界史的な意味でも、従来の秩序が変わるターニングポイントの時期だったと思います。

日本では、同年2月に、みんなをお金儲けに血眼にしたバブル経済が終わりを迎えました。

バブル景気(バブルけいき、英: bubble boom)は、好景気の通称で景気動向指数(CI)上は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間に、日本で起こった資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった社会現象とされる。情勢自体はバブル経済と同一であり、バブル経済期(バブルけいざいき)または、バブル期(バブルき)や平成景気(へいせいけいき)、平成バブル(へいせいバブル)とも呼ばれる。日本国政府の公式見解では数値上、第11循環(内閣府の景気基準日付)という通称で指標を示している。(Wikipediaより)

また、12月には、ソビエト連邦が解体され東西冷戦が事実上幕を閉じました。

ソ連崩壊(ソれんほうかい、露: Распад CCCP)とは、1991年12月のソビエト連邦共産党解散を受けた全ての連邦構成共和国の主権国家としての独立、ならびに同年12月25日のソビエト連邦(ソ連)大統領ミハイル・ゴルバチョフの辞任に伴い、ソビエト連邦が解体された出来事である。(Wikipediaより)

そして、韓国では、80年代半ばから始まった国民的な運動(軍事独裁政権から民主政権への移行の要望)が最高潮に高まり、大詰めの時期を迎えていました。そのような中、4月にソウルのミョンチ(明知)大学の1年生の学生が、デモの最中に機動隊(別名:戦闘警察)により殴打され死亡するという事件が起きました。もともと私が通っていた延世大学はデモのメッカだったのですが、この事件をきっかけに学生の怒りに火がついて一気に激しいデモへ発展しました。東京大学東洋文化研究所の真鍋祐子教授が、当時のことをシンポジウムで語られていますので以下引用します。

私は韓国の民主化運動についてずっと研究をして参りました。それで1987年から88年にかけて、一年間ソウルに留学をして、1991年から93年にかけて2年間、大邸(テグ)にある大学で日本語教員をやっておりまして、その間、民主化運動はまだまだ激しい時期でした。ちょうど大邱にいた時分に民主化運動の現場で抗議の焼身自殺というのが一ヶ月で11件も続いた、そういう時期を過ごしました。それは1991年のことです。4月にソウルにある明知大学の一年生がデモのさなかに機動隊に殴り殺された事件をきっかけに、抗議の焼身自殺が全国に広がったのです。私がいた大邸というところは、保守的な土地柄で、あまり学生運動が盛んなところではないのですが、在職していた大学のエントランスホールには、どこかで抗議の焼身自殺者が出る度に焼香台が設置されて、その台の上に亡くなった学生なり労働者なりの遺影と、ときには黒焦げの遺体の写真、あるいは燃えているさなかの写真が飾られていて、お焼香ができるように線香が立ててある。これが4月から5月にかけて約ひと月、10人以上も亡くなっているので、非常に私にとってもハードな経験でした。(2018年6月2日(土)東京シンポジウムでの講演「死者への追悼と社会変革―韓国民主化闘争を振り返る」より)

真鍋教授は、このシンポジウムの講演の中で、後追いで焼身自殺するというショッキングな行動の原因について、韓国人が持つ独特な精神の中にある「死者への弔い」がそうさせていると述べておられます。このことについて私は何かを語る知識を持ち合わせていませんので言及はしませんが、延世大学の学生会館にも、自死した学生の遺影と焼香台が増えていくのを見ましたし、日本から飛行機でわずか2時間程しか離れていない距離にあるところで起きていることとは、にわかには信じ難いと思った記憶があります。

学校の構内では喪章をつけた学生を多く見かけるようになり、至るところで集会が開かれていてリーダーらしき学生が拡声器で何かを叫んでいる姿が目立ち始めました。大学の正門では、亡くなった学生への弔いと、民主政権実現を実力行使で訴えようと、シンチョン(新村)の街に今にも押し出そうとする学生の一団と、道路の反対側でその動きをけん制する機動隊のにらみ合いが何日間も続きました。私はその様子を横目で見ながら下宿と学校を往復しました。当時、韓国でもデモは認められていたようですが、事前の届け出が必要なことと、実施場所は学校等の敷地内に限定されていたようです。よって、敷地から一歩外に出ると違法行為となるため、国家権力は暴力的な手段を用いてでも徹底的に排除を試みました。韓国には徴兵制(1991年当時は2年半)がありますが、機動隊も徴兵で集められた若者で構成されていて、真偽は定かではありませんが、デモで捕まった学生が徴兵されると真っ先に機動隊に回され、昨日まで一緒にデモをしていた仲間たちを鎮圧する役割を担わされたと聞いたことがあります。

そして、我慢の限界を超えた学生たちは、ついに大学の正門を突破し機動隊と乱闘になりました。

私は正門から大学構内に入ることが出来なくなり、隣のイファ(梨花)女子大学の方へ遠回りをして通学しました。そのような中、恐らく、あちこちの大学から学生が集まってきたのでしょう。小競り合いだった程度だったデモの規模がどんどん大きくなって、シンチョン(新村)の街中で衝突するようになり、機動隊は装甲車を出動させて道路を封鎖し、催涙弾を発射して町中が白煙に包まれることもありました。催涙弾は暴動鎮圧のために各国で使われていますが、当時の韓国では特に大量に使われたのではないかと思います。これも真偽は定かではありませんが、最も強力なフィリピン製を使っていると聞いたことがあります。

そんなある日の夕方、シンチョン(新村)の街の中にある食堂で一人食事をしていた私は、意図せずデモに巻き込まれてしまいました。

食事の最中停電になり店内は真っ暗になりました。警察か市政府電力の判断かは分かりませんが、デモ鎮圧のため一時的に電力供給を止めたのです。そのようなことは以前にもあったため驚きませんでした。食堂のアジュマ(おばさん)は、何も言わずろうそくに火をつけ皿に乗せ、各テーブルに置き始めました。私の目の前にもろうそくが置かれて、真っ暗な店内がゆらゆらとしたろうそく明りに照らされました。その光景はデモの真っただ中とはいえ、幻想的で美しく、今でも脳裏に焼き付いています。食事を終え会計を済ませて外に出ようとした時、アジュマ(おばさん)が「まだ、危ないからここで待っていたほうがいいよ」と諭してくれました。しかし、早く下宿に帰りたかったのでお礼をして店を出ました。

店の外に出ると、左手の坂の下の方から大きな音が聞こえてきました。そちらに目を向けると、大勢の学生が機動隊に追われて逃げてくる様子が目に飛び込んできました。その勢いに圧倒された私は、あれよあれよという間に学生の一団に巻き込まれてしまいました。そして、一緒に走り始めました。機動隊は後ろから迫ってきているはずだし、足元は暗くて良く見えないし、もし捕まったりしたらこん棒で殴られ、留置所へ入られ、日本に帰されるかもしれないなどと、いろんなことが頭に浮かびました。但し、方向感覚だけはしっかりしていて、この道を走り通せば逃げ切れるはずだということもはっきり分かっていました。そして5分ほど走ったでしょうか。イファ(梨花)女子大学の方角へと続く坂を一気に上り切り、後ろを振り返ると既に学生たちは散り散りになったようで姿がありませんでした。また、機動隊の姿も見えませんでした。ほっとしました。

しばらくじっとして呼吸が整うのを待ちました。そして、どうやって下宿に戻ろうかと考えました。その場所から見ると下宿は、先程までいた食堂の正反対にあり、まっすぐ行くとデモのまっただ中を突破しなければなりません。さすがに無理だと考えた私は、地下鉄2号線の真上を走る大通りに出て地下鉄で移動できないか試してみることにしました。イデ(梨大)駅の階段を駅の構内に向けて降りて行くと学生がたくさんいて騒然としていました。駅員が何やら拡声器で叫んでいる声が耳に入ってきて、はっきりとは聞き取れませんでしたが「シンチョン(新村)駅は通過して隣のホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅まで停車しない」と言っているようでした。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅とは、ホンイク(弘益)大学がある駅で、その頭文字をとって普通はホンデ(弘大)と呼ばれています。今では、活気あふれる若者文化の創造、発信基地ですが、当時は、駅を降りると大通り沿いに台所用品の問屋さんとか、ボイラーの代理店などしかなかった記憶があります。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅から下宿までは歩いて20分程の距離ですし、シンチョン(新村)駅があるロータリー近辺は機動隊と学生が激突して、催涙弾がまかれているのでとても近付けないと考えた私は、地下鉄で移動することにしました。

地下鉄に乗ると、ソウルの中心部で働く帰宅途中の会社員が大勢乗っていて、不安(不満?)そうな顔をしていたことを覚えています。そして、電車は真っ暗なシンチョン(新村)駅のホームを通過していきました。通り過ぎる地下鉄の車内から見えた駅のホームには、座り込む学生が大勢いたように記憶しています。機動隊から逃れてきたのかもしれません。ホンデイㇷ゚ク(弘大入口)駅で地下鉄を下りた私は階段で地上に出ました。坂を上り、次にやや下って左折し路地に入り、坂を上って銭湯の前を通過して急な坂を下っていくと遠くに下宿が見えてきました。この辺りはシンチョン(新村)の街を見下ろす高台でしたので、そのあたりまで来たら灯りが消えた真っ暗な街が見えてきて、白くもやがかかっているようでした。

下宿も停電で真っ暗でした。玄関に入り「タニョワッスㇺニダ(ただいま帰りました)」と言うと、アジュマ(おばさん)、続いてアジョシ(おじさん)が出てきて、泣きそうな顔で「今までどこにいたんだ?本当に心配したよ。でも無事でよかった」と言いました。他の下宿生も皆戻ってきていました。

さっきまでは下宿に戻ることだけに集中していたので気付かなかったのですが、靴を脱いで居間に入ると、顔がひりひり、目がしょぼしょぼして涙が出ることに気付きました。そのことをアジョシ(おじさん)に言うと、それは催涙ガスを浴びたんだと教えられました。そして「今晩、どんどんヒリヒリして痛くなるけど、決して水で濡らしてはいけないよ。ガスの成分は水と反応して皮膚が炎症するんだ」と言われました。それから翌朝迄の数時間は本当にきつかったです。顔や腕がヒリヒリして涙は出るし、むせるように息苦しく自室の布団の中でじっと我慢しました。

学生デモはその後も規模が拡大して、場所もシンチョン(新村)などの学生街からミョンドン(明洞)や市庁舎前、チョンノ(鐘路)といったソウル中心のオフィス街、繁華街へ飛び火していきました。別の日にロッテデパートにいた時にも、ミョンドン(明洞)の道路が封鎖されるくらい大きなデモがあり半日ほどその場にとどまったことがありました。そんな活発なデモは7月頃まで続いたのではないかと思います。

ちょうどその時、日本で知り合った韓国人(新聞奨学生)の二人の内の一人で、ソウルに帰って来たばかりのコ・ミョンチョルさんから

「友人の家にホームステイしないか?日本語を教える代わりに下宿代は安くしてくれるそうだよ」

と誘われました。デモに少しうんざりしていましたし、学校と図書館と下宿の往復の生活にも少し飽きてきていた私は、よく考えた末に最初の下宿を離れ、韓国人の家にホームステイをすることに決めました。

ホームステイ先の住所は、クァンアクグ(冠岳区)シンリムドン(新林洞)。シンチョン(新村)からみると、ハンガン(漢江)の反対側に位置していて、地下鉄2号線のシンリム(新林)駅で下車し、バスで南部循環道路を西に向かい、左折してナンゴクノ(路)にはいり、ナンゴクシジャン(市場)というバス停で降りたところ。クァンアクサン(冠岳山)のふもとの小さな家に、ホストファミリー(チョン(鄭)さん、奥さん、小さな女の子の赤ちゃんの3人)が暮らしていました。私にあてがわれた4畳半くらいの小さな部屋で暮らした期間は1991年7月から12月末までの6ヶ月間。その間、バスと地下鉄を乗り継いで、片道1時間半の道のりを通学しました。今振り返ると、この6ヶ月間に、留学生同士の付き合いだけでは到底分からなかった、韓国人のものの考え方や生活習慣に直接触れることが出来たと思います。日本とは全く違うので戸惑うことがほとんどでしたが勉強になりました。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学④)

9月19日(土)、山口県防府市で、ソウルで一緒に勉強したKさんと28年ぶりに再会しました。15時に約束して日付が変わった明け方3時まで一緒にいて、ホテルに戻り6時間ほど寝まして、その日は10時に再び会って21時まで、1日半の間に約24時間一緒にいたことになります。その間、当時の想い出、また、28年という長い歳月の間にお互いにいろんなことがありましたので、話題は尽きず、一時も会話が途切れることはありませんでした。

Kさんは私がソウルに1年いて日本に帰国した後も韓国に残り、ソウルの大学に進学、卒業⇒韓国で就職⇒日本へ帰国し仕事⇒再びソウルに戻り大学院へ進学、結婚、そして日本に帰国と、足掛け9年間韓国で暮らした「勇者」です。大学院生の時から、通訳・翻訳者として活躍し、特に芸能関係の通訳の仕事を通じて経験された話は私にとって何もかもが驚きの連続でした。Kさんは今、ご家族で営む事業に打ち込んでおられますが、その一方でずっと韓国と日本の架け橋として「人と人とを結びつける活動」に取り組んで来られました。その経験は「真実は小説よりも奇なり」。いずれ映画やテレビで多くの人に知られる日が来るのではないかと思うくらいです。私は、Kさんの唯一無二の経験にスポットが当たるように、実現の可能性を模索したいと思っています。

ところで「人と人との結びつきを邪魔するもの」とはなんでしょうか。私は、人と人との間には、家と家とを隔てる「境界線」のように、普段は意識していないけれど、確実にそこに存在しているようなものがあると思っています。そして、私たちの周囲には実に多くの「境界線」が張り巡らされていることが分かります。年齢や職業、収入や学歴、地縁等々。それらによって「不自由」を感じている人もいるでしょうし、特に問題意識も持たずにあっさりと受け入れてしまっている人もいるでしょう。「境界線」は、自分が何者であるかを自覚する上で必要なものとも考えられますが、本来ひとつになれるはずの他者と自分とを分離する負の面を持っていることは見逃せません。

また、「境界線」は私たちが望んでできたものではなく、誰かが別の目的で作ったことが多いことにも注意が必要です。私たちは自分の意志とは裏腹に「境界線」を意識して考え、判断し、発言し、行動することを求められます。そして、そのシンボリックな例が、日本と韓国の関係です。一方、私たちの身近なところにもたくさんの「境界線」があります。本ブログでも度々取り上げた「生きづらさ(排他性)」を生むのも突き詰めれば人と人との間に存在する「境界線」だと思います。

Kさんの話しを聞いていて、彼はこの「境界線」をあまり意識していないこと。むしろ「境界線」を楽しみ、それをまたいで回遊する「自由」を体現しているように感じました。そこで、「生きづらさ」から解放されたい私たちが、彼の生き方からどんなヒントを得ることができるか考えてみました。

Kさんが「境界線」をまたいで回遊するエピソードとして通訳・翻訳の仕事をしていた時の経験があります。求められる役割を果たしたにもかかわらず、さらに自腹を切るようなことがあっても、ほとんど報酬を受け取れなかったことが度々あったそうです。その時は嫌だったけれど、それがきっかけで後から良い仕事が舞い込むようになったので、結果的に仕事を受けるのを止めなくてよかったとのことでした。「損して得取れ」の典型例です。

また、通訳者として日本人と韓国人の間に入り、両者が対立するような場面があり、韓国語から日本語、日本語から韓国語を伝える際に言葉のニュアンスを変えて、両者の関係がうまくいくように取り持ったりもしたそうです。これは統計的に唯一の「正解」を導くよう仕組まれたAIには到底出来ないことです。良い人間関係の構築を目的に、臨機応変に最適解を出すのは人間でなければ出来ないことです。加えて、Kさんには両者の関係を良い状態にしたいという強い動機があったと思います。

いま、私たちは、いつでも、どんな時でも「正解」を求められます。繰り返し「やって意味があるのか」「メリットがあるのか」と質問され続けると癖になり、誰かに言われなくても自ずと意識するようになります。でも、得すること、メリットがあることだけをやれば本当に成功するのでしょうか。また、そんな世の中は楽しいでしょうか。私はそう思いませんし、仮に、計画的に成功がもたらされるのであれば、世の中は成功者だらけになってしまいます。でも、現実にはそうなってはいません。成功を強く求められて挑戦しづらくなった現在において、むしろ成功者は減っているのかもしれません。

Kさんのように、自分と他人とを隔てる「境界線」や、「成功」と「失敗」とを分ける「境界線」、また国籍とかジェンダーとか、金持ちだとか貧乏だとか、そういった誰かが決めた「境界線」を鵜呑みにせず、内側からの興味とワクワク感で面白がってやってみる。自らの「思い」をごまかさず、無理と分かっていても飛び込んでいく感覚は今の時代だからこそとても貴重です。実はこの感覚は、Kさんに限らず、あの時ソウルで一緒に勉強した仲間の中には、多かれ少なかれ共有されていたと思います。なぜ、私たちは、はたから見れば危なっかしいこと、今振り返るとちょっと恥ずかしいことでも、思いっきりやることが出来たのでしょうか。

当時、私たちが通っていた語学堂には、アジア各国、欧米諸国から韓国語を学びに来る多くの人が在籍していました。短大や大学のように2年とか4年間のサイクルではなくて、1学期は10週間程でしたので、出会いと別れが数週間おきにやってくるような世界でした。ほとんどの学生は多感な青春時代真っ只中の若者でしたので、当然、恋に落ちます。それが遠く離れたところから来た2人であればあるほど、二度と会えないかもしれないという感傷的な気持ちから恋愛が盛り上がるのです。そして、限られた時間の中で普段ではとてもできないようなストレートな告白(共通語が韓国語なので少ない語彙で懸命に思いを伝える)をしたり、ドラマチックな愛情へ急進展したりしました。インターネットや携帯電話が普及するずっと前でしたので連絡手段は固定電話の呼び出しか手紙しかなく、リアルタイムにお互いが何をしているのか、どこにいるのか知ることもできず、その間は想像の世界で悶々として、次に会う時迄、期待と不安が交互に襲ってきます。そういう制約条件の下でお互いの気持ちをパンパンに膨らませて、いまにも破裂しそうな人たちがたくさんいました。そして、残念なことに、結局はなかなか結ばれない運命(因縁)が多かったように思います。

あの時、あの場所で出会い、あふれ出る「思い」から乗り越えることが出来た2人の間にある「境界線」は、実は、ソウルを離れた途端、乗り越えることが困難な、受け入れざるを得ないものであることを認めることになるのです。やがて、寝ても覚めても消えない感傷的な気分や憧れといった感情が時間の経過と共に記憶の奥深くにゆっくりと沈殿して鍵付きの小さな箱に収まります。そして、その箱は長年開けられることがなく、ひっそりと保管されています。そして、ある時、ある瞬間に、当時の歌や、映像が鍵の役割をして蓋が空いて、当時のほろ苦い思いと共に鮮明な記憶が一気にあふれ出すのです。私たちがソウルで経験したことは、そのようにして、あの時間を共有した仲間、一人一人の記憶の奥底にしっかりと保管されているはずです。

結局、Kさんは、多くの学生が最終的には受け入れざるを得なかった「境界線」に負けませんでした。足掛け9年間という長い韓国生活で身につけた「常識を鵜呑みにしない力」がそれを可能にしたのかもしれません。日本に帰国後、様々な困難に直面しながらも、終始一貫、徹頭徹尾、「境界線」をまたぎ続ける半生を歩んでこられました。そして、その行動は周囲の人々に伝わり、人と人とが結びつき、縁を紡ぎ出す「触媒」の役割を果たしてこられたのだと、私は再認識しました。きっと、これからもKさんは「境界線」をもろともせず、ぶれない人生を歩んでいかれるでしょう。

Kさんとの28年ぶりの再会という幸運に恵まれた私はとても刺激を受けました。記憶の奥底に保管していたソウルで学んだスピリットも久しぶりに味わうことが出来ました。この得難い機会をきっかけに、これからは、こだわりや先入観のない、愉快で、豪快な人生を歩んでいきたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学③)

外国生活の始まりに、まず乗り越えなければならないことは「食べ物の匂い」ではないでしょうか。その国に着いて飛行機を降りると、まず感じるのは、この匂いは一体何だろうという感覚です。私の場合、住んだことがある国、韓国ではニンニク、シンガポールではスパイシーな香辛料、台湾ではハッカク、中国では豆板醤、ベトナムではハーブとヌクマム(魚醬)の匂いを感じました。逆に、日本を訪れる外国人は、空港で醤油や味噌の匂いを感じると聞いたことがあります。私が下宿生活を始めるにあたって、まずは「匂い」の洗礼を受けなければなりませんでした。

下宿が決まった私は、チャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)をチェックアウトしました。受付のハルモニ(おばあさん)は、なかなか先輩と連絡が取れない私を心配してくれて差し入れもしてくれました。頂いた恩というのは何年経っても忘れないものです。いまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

スーツケースを転がしてしばらく歩くと延世大学の正門からシンチョン(新村)駅があるロータリーへとまっすぐ延びる通りがあり、両側には学生街らしく洋服屋さん、ファストフード店、飲み屋さん、タバン(カフェ)等が軒を連ねていました。当時はコンビニが無かったので、その代わりに食品から洗剤、歯ブラシまで何でもそろう「クモンカゲ」と呼ばれるお店があちこちにありました。

通りを渡って路地に入りしばらく行くとチャンチョン(滄川)国民学校(日本の小学校)があり、その脇の坂をずっと登っていって登りきったところを左折してしばらく歩くとクモンカゲがあり、その手前、左手に私が入居する下宿がありました。チャイムを押すと中から笑顔でアジュマ(おばさん)が出てきて「よく来たね」と。玄関で靴を脱いで入ると居間があり、奥には台所。ちょっと強面のアジョシ(ご主人)が私のことを待っていました。お二人から下宿生活のルールについて説明を受けました。

下宿代25万ウォンは月末に前払い。朝食は月曜日から土曜日の7:30から。台所にはインスタントラーメンが置いてあるから勝手に食べて良い。日曜日は教会へ礼拝に行くので、その前にお金を渡すので昼食は中華料理屋(韓国式)からジャジャンメンの出前を取ること。トイレとシャワーは共用なので綺麗に使って長時間占有はしない事。玄関の鍵を渡すので門限はないが遅く帰ってきたら静かに入ること。洗濯物は部屋にまとめておくこと。洗濯して乾かした服は畳んで机の上に置いておく、等々。「よろしくお願いします」と挨拶をして2階の自室に上がりました。2階には部屋が3つありました。私の部屋は右側の奥、6畳程の部屋の窓側には机と椅子がおかれていて、それ以外は何もなくがらんとしていました。窓を開けて下を見ると先程入ってきた玄関の真上だということが分かりました。ここで新しい生活が始まるんだなと少し感傷的な気持ちになりました。

下宿生は私を入れて4人。一人目は軍務免除されたロッテデパートの社員。韓国では会社員でも学生と一緒に下宿生をしている人が多かったです。韓国では3世代一人息子が続くと三大特赦といって軍務が免除される仕組みがありそれに該当した温厚な人でした。二人目は軍務を終えて戻って来たばかりの大学院生で怒りっぽい人でした。この二人はハッㇷ゚パンとよばれる相部屋でした。三人目は日本の中学校を退職してソウルの大学院で韓国の児童文学の研究をしている40代のやさしいおじさん。この方は日本へ帰国後、韓国児童文学の研究者として活躍されたようです。そして私。

その日は彼らが下宿に戻ってくるのを待って、私の歓迎会がありました。アジュマ(おばさん)が作ってくれた料理を食べ、お酒を飲みました。韓国がまだまだウリ(我々)文化一色だったこの頃は、何をするのもみんなで一緒。一人で食事をすることなど考えられない時代でした。この下宿は小さかったのですぐ打ち解けましたが、大きな下宿だと地上4階建てで数十部屋というようなところもざらにあり、しょっちゅう下宿生が入れ替わるので月に何回も歓迎会をしているようなところがありました。私は1年間で2回引越ししたのですが、3番目の下宿では歓迎会をしてもらいました。シンチョン(新村)近辺の大学の1学年ばかりで私が一番年上でしたので、一緒に映画を観に行ったり、飲みに誘われて恋愛相談をされたりして、いろんな思い出があります。

下宿生活の2日目は、本を読んだりしてゆっくり過ごそうと思い、朝食後部屋でゴロゴロしていました。すると、1階の台所でアジュマ(おばさん)が料理を始めたようで、その直後に酸っぱいような、甘いような、辛いような、何とも言えない(私にとってはきつい)匂いが漂ってきました。それが何だったのか、ひょっとするとテンジャン(韓国味噌)料理をつくっていたのかもしれませんが、今でも何なのかはっきりしません。いずれにせよ私にとっては非常に耐え難いその匂いはどんどん強烈になっていって、窓を開けても締め切っても何故か部屋に充満しました。私は耐えられなくなってトイレで嘔吐しました。そして、すっかり食欲がなくなり、匂いから逃れるようにして外に出ました。

夕方まで街をぶらぶらして下宿に戻り部屋にいると、今度は夕食の準備が始まり、また同じ匂いが部屋に充満しました。私は再びトイレで嘔吐しました。すっかり参ってしまった私はじっとしているしかないと思い部屋で一人耐えました。夜中もその匂いのことが頭から離れず、思い出しては吐き気を催す始末。やがて、アジュマ(おばさん)が料理をしていないのにその匂いが下宿中至るところにて染みついているような気がして、寝ても覚めても吐き気に襲われました。そんな状態で過ごした3日目、翌日から学校が始まる日曜日の夜にアジュマ(おばさん)がいつものように料理を始めて「ああ、まただ」と思った瞬間、全く匂いが気にならなくなっている自分に気付きました。「あれ、全然気持ち悪くないぞ」と。それからというもの、韓国で、匂いが原因で気持ちが悪くなったことは一度もありません。匂いにも免疫のようなものがあるのかもしれません。

下宿生の中で一番年下だった私は、週末のラーメンづくりを任されました。児童文学研究者の日本人のおじさんから何かを指図されることはありませんでしたが、2人の韓国人下宿生はちょっと厳しかったです。韓国では誕生日がたとえ一日でも早いとヒョン(兄貴:弟から兄へ)と呼ばなければならず、どこにでもタテ社会が存在あります。そこで、一番年下の私はラーメン当番をやらされることになったのです。例の匂いで気持ちが悪い中、台所に立ち、いまでは日本でも有名になった辛ラーメンを3人分つくりました。鍋に水を入れて沸かして煮込んで出来上がり。鍋を卓袱台の真ん中において、各自それを箸で突っつくという韓国スタイルで食べたのですが、韓国人下宿生2人は口に入れるやいなや、

「マドプソ!(不味い)」

と言いました。日本のインスタントラーメンの感覚でつくったので水が多すぎてしまったのです。そして児童文学研究者の日本人のおじさんが、

「韓国では日本のインスタントラーメンをつくる時の半分くらいの量の水が適量なんだよ」

と教えてくれました。そして、麺を食べ終わると今度は白飯を入れて雑炊のようにして汁迄食べ切るのです。それ時以来今日までずっと、辛ラーメンづくりは妻にも任せません。2人の韓国人下宿生の「マドプソ(不味い)」という言葉が聞こえてくるような気がして、水加減には注意してつくっています。

いよいよ登校初日です。授業は9時始まりで、下宿から学校までは30分程の距離でしたが、少し早めに下宿を出ました。

下宿を出て右に曲がり両側にレンガ造りの一軒家(ほとんどが「下宿」と張り紙がされていました)が連なる道をずっと歩いていきます。その道の突き当りのところが3~4メール程の急な下り坂になっていて、下りきって左折すると鉄道の線路があり、そのトンネルをくぐってすぐ右側の階段を上がると目の前に延世大学の正門が見えました。後から分かったのですがこの数メートルの急な下り坂は異常低温と言われ氷点下18度まで気温が下がったその年の冬、雪が降って凍結した時には、手すりがないので下りることも上ることもできず、目の前の、3番目に住んだ下宿に非常に遠回りをして戻った記憶があります。

延世大学の正門を大通りの向こう側に見ながら緩やかな坂を下っていくと、右側にキオスク(売店)がありました。新聞や雑誌、ガムや飲み物、たばこ、テレフォンカード、市内バスのトークン、座席バスの切符等々、何でも売っていました。日本と違うのは、たばこを1本ずつばら売りしていたことです。封を切った煙草が入ったケースが店番のアジュマ(おばさん)の目の前に置かれていて、次々に学生が来て「タンベ(タバコ)ハンキャピ(1本)ヂュセヨ(ください)」と言っては1本引き出し、上からひもでぶら下げたライターで火をつけ、プカーっと吹かして次々と立ち去っていくのです。その様子を見て「かっこいいな」と思った私は少し後から真似するようになりました。

売店(キオスク)の隣には靴磨き小屋。おじさんたちが黙々とお客さんの革靴を磨いています。当時、軍務を終えて戻ってきた男性は一目で見分けがつきました。まず、雰囲気が年齢不相応におじさんぽい。そして何故かスラックスと革靴をはき、革のバッグを持っていました。

売店と靴磨き小屋の前にはバス停がありました。次々とすごい勢いてバスが突進してきて、本来停車すべき位置とは離れた位置に急ブレーキで停車していきます。その度に人々が猛ダッシュしてバス前方の乗車口に殺到し、我先にと乗り込み始めます。バス停は、大きく市内バス(定額180ウォン)と座席バス(定額470ウォン)に分かれていて、バス停の掲示板には、それぞれ、すごい数のバスの番号、1桁から4桁までがびっしりと書き込まれていました。また、バスの車体側面には、始点から終点までの主要なバス停が書き込まれていて、当時ハングルがほとんど読めなかった私は、どこに行くバスなのか全く見当がつきませんでした。

しばらく歩くと大通りを潜り抜けて延世大学の正門に出る地下道がありました。地下道の階段を下りていくと薄暗い通路の中央には売店がありハルモニ(おばあさん)が店番(オーナー?)をしていました。私が店の中を覗くと、手前には商品が積まれていて、奥の小上がりの2畳ほどの狭い空間にはストーブに当たりながらテレビを視ているハルモニがいました。私は冷蔵庫から牛乳をひとつとって「イゴチュセヨ(これ下さい)」と言いました。当時も牛乳の種類は豊富で、ソウル牛乳、ヘッテ牛乳、そしてヨンデ牛乳(延世大学の牧場で飼育している乳牛の牛乳)があり、さらにコーヒー味、バナナ味、イチゴ味等々、様々なフレーバーがありました。ハルモニはテレビを視ていた眼をこちらに向けて、ちょっと変な顔をして日本語で、

「あんた日本人か?」

と尋ねてきました。

「はい、日本人です。横浜から来ました。」

と答えました。おばあさんは、それまでの険しい表情を急に緩めてニコッと笑い、

「そうか、よく来た。」

と言われました。お金を払おうとすると、大学生が売店に入ってきてパンを手に取り、ぶっきらぼうに、

「オルマエヨ?(いくら?)」

と尋ねました。ハルモニは再び険しい顔になって、ぶっきらぼうに値段を言いました。学生が出ていくとハルモニは再び笑顔になり日本語で、

「日本人は礼儀正しく優しいので好き、またおいで」

と言いました。そしてお金を受け取りませんでした。私はお礼をして店を出ました。このハルモニとの交流は結局1年間に渡って続きました。ハルモニから聞いた興味深い話は改めて書きたいと思います。私は地下道を通り抜けて正門から大学の構内に入りました。

延世大学の構内は中央に片側1車線の車道とそれに並行してポプラ並木と歩道がまっすぐ伸びています。道路の上には途切れることなく横断幕がかかっていて、ずらっと並んだハングルの最後には「!」や「!!」と書かれていたので、何やら学生への檄文のようでした。その時は全く意味が分かりませんでした。まっすぐ進むと左側に図書館、更に進むと右手に学生会館がありました。学生会館の1階には大食堂(ポックンパプ(チャーハン)等、800ウォン)、売店、銀行、2階は軽食と売店、カフェテリア、床屋、旅行会社、中央にコーヒーの自販機(50ウォン)、3階より上は怪しい雰囲気の、サークルか何かの部室があり近寄りがたい雰囲気を漂わせていました。

突き当り迄行くと、今も昔も多くの映画ドラマの撮影ロケに使われているアンダーウッド館(本館)があり、その右側には緩やかな坂が伸びていて森の中に入っていきます。延世大学の敷地の背面は小高い山があり、森に入る道の左手には登山道があり、お年寄りが次々と山から下りてきました。

韓国の人は今も昔の何故か山登りが大好きです。昨年、プサンに行ったときにその理由を質問したのですが、

「じっとしていられないから」

というのが回答でした。しかも、ただ登るのではなく、ヤクス(薬水)と呼ばれる湧水を汲みに行くので、小さめのポリタンクを抱えています。日本だと水汲みは沢など下に降りて行きますが、韓国では山に登るのです。お年寄りがこんなに重いものを平気で運ぶなんてすごいなと思いました。また、休みの日にはグループで食事とお酒をもって山に登り、山頂で唄い、踊ります。下宿のおじさんとおばさんも土曜日には朝早く出かけて山登りをして酔って帰ってくることがありました。転んだりしないのかなと心配でしたが全然平気な様子でした。

森の中の道を抜けると後門があり、その先の坂を下りて行くと左側に大きな校舎が現れます。目的地の「韓国語学堂」です。新しい校舎が完成して最初の学期だったので、まだピカピカでした。正面玄関から入ると受付があり、名前を名乗ると教室を教えてくれました。階段で2階に上がり教室に入りました。黒板を中心に、教室をぐるりと取り囲むように扇状に椅子と一体になった机が並んでいて、既に、何人かが到着していました。ぱっと見て日本から来た人、アジアのどこかの国から来た人、ちょっと見当がつかない人がちょっと緊張して椅子に座っていました。私は「ハロー」と言うべきか「アンニョンハセヨ」と言うべきか「おはようございます」と言うべきか迷って、結局黙っていました。

やがて、用意された椅子がすべて埋まって9時になり、先生が入ってきました。とてもきれいな(可愛い)若い女性です。彼女は元気よく「アンニョンハセヨ!」と言いました。私たちが黙っていると、もう一度「アンニョンハセヨ!」と返事を促しました。私たちも「アンニョンハセヨ!」と挨拶をしました。この一言から私たちの韓国語の勉強が始まりました。今でも忘れられない先生の名前は「ミン・ヂスクさん」。延世大学を卒業してチェイル(第一)銀行に勤めた後、退職して語学堂の先生になったと話されていたことを思い出しました。恐らく20歳代半ばくらいだったと思います。私と同じクラスで一緒に勉強を始めたKさん(語学堂卒業後、韓国の大学、大学院に進学し修了。足掛け9年間ソウルで暮らした勇者)と明後日、約30年ぶりに再会するのですが、Kさんの話しによるとミン先生は、まだ語学堂で韓国語を教えていらっしゃるとのこと。コロナウィルス感染が終息したら是非二人で先生に会いに行きたいねと彼と二人で盛り上がっています。楽しみがまた一つ増えました。

次回は韓国語の勉強と忘れられない人々について書きたいと思います。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学②)

今回は、留学前の準備期間に起きた出来事と留学直後の様子について書きたいと思います。

留学資金を貯めるため、私は新聞配達(朝刊)のアルバイトを始めました。1990年2月のある日、配達の初日は年に一回あるかないかの大雪でした。明け方の3時に起床して防寒具を着て外に出たところ、外は一面の銀世界、深夜から降り続いた雪が5センチほど積もっていました。よりによって新聞配達の初日に雪が降るとは。。。

配達の事前練習で、バイクの前後に山のように新聞を積むのでバランスを採るのが難しく、ちょっとしたことで転倒してしまうことは理解していたものの、降雪時での運転は経験がないので途端に不安になりました。配達店の人からは「チェーンはつけているけど転倒しないように、これ以上ゆっくりできないというくらい、ゆっくり走るように」と言われました。

私の配達先はマンションがほとんどで、しかも坂の上にあったため、配達店を出て走り始めてすぐに「あの坂登り切れるかな」と不安になってきました。順調に坂の下まで来て、いよいよ坂を上り始めました。横浜市戸塚区にお住まいの方はご存知でしょうが、雲林寺というお寺があり、そこを回りこむように延々と昇っていく坂があり、てっぺんにはバイパスが走っています。

最初、お寺の前まではそろりそろり順調に登ってきたのですが、左方向に向きを変えると坂の勾配がきつくなるのでアクセルをふかして一気に登り切ろうとした瞬間、バイクの前輪が地を離れて私もバイクも後方にひっくり返ってしまいました。前方のカゴからすべての新聞が飛び出し、ひもで荷台に括り付けていた新聞も一気に崩壊して道路に散乱しました。言葉を失って数秒間途方に暮れて「はっ」と我に返り、無我夢中で散乱した新聞を集めて路肩に積み上げました。そして、バイクを起こして路肩に移動しました。携帯電話がない時代ですのでSOSを出すこともできません。自分で解決しなければならないと焦りました。

路肩に積み上げた新聞を運んで再びバイクのカゴに収め、荷台にひもで括り付けました。エンジンをかけて先程よりもさらに慎重にゆっくりと坂を登り始めました。しかし、路面は凍結していたのでしょう。新聞の加重で車輪がスリップしてしまい、バイクが徐々に後ろずさりを始めました。そして2度目の転倒。今度は1回目よりも新聞が大きく散乱して回収が大変でした。半ばやけくそになってもう一度挑戦しましたが3度目の転倒。さすがにこれは無理だと思いました。

ふと頭をよぎったのは、どうしてこんなことになったのか。韓国に行くなどと決めなければこんなバイトをしなくて済んだわけだし。。。

「神様は韓国に行くことに反対なのかな」

などとブツブツ独り言を言いつつ、新聞を目立たない場所に仮置きして、配達店まで戻り既に配達を終えていた人に助けを求めました。

彼らの助けを得て、お客さんのクレームに発展することもなく何とか配達を終えることが出来ました。放心状態で帰宅した私をみて両親はびっくりしたと思います。「無理しなくても良いのでは」と言われましたが、結局1年間続けました。転倒はその時の一回限り。でも、1年の間には、今考えるとあれは幽霊だったんじゃないかというものを見て怖い思いをしました。一方で、親切なお客さんからは、クリスマスやバレンタインデーの時には「いつもご苦労様」と書かれた手紙とプレゼントが郵便受けに置かれていてありがたく頂戴したりしました。直接会ったことも、話したこともない人からの心づかいは深く私の心を揺さぶりました

4月になって大学の新年度が始まり、私は早速、教務課に留学の相談に行きました。韓国に行きたいと話したところ留学先としていくつかの選択肢があることが分かりました。私の通っていた大学もソウルに提携する大学があり、交換留学をしていて単位が認められるということでした。但し、事前に韓国語をマスターしておく必要があり、願書の提出に間に合わなさそうなので断念しました。そこで、改めて留学の目的として、

1.韓国語をマスターすること。
2.韓国の人と社会を理解すること。
3.大学で社会学の講義を聴講すること。

を掲げました。そして、教務課から勧められたのが、延世大学語学堂(言語研究教育院)でした。韓国のトップ私立大学である延世大学の付属機関で、もともと海外からの宣教師に対して韓国語を教えることを目的に設立され、現在は世界中から多様な人たちが学びに来ているとのことでした。私は直感で「ここで学びたい」と思いました。教務課の方は続いて、留学するには韓国人の保証人を決めて事前に就学ビザを申請する必要があること。国際学部のA教授に相談するように勧められました。A教授の電話番号をもらい、アポを取って研究室を訪問しました。

A教授は韓国の政治経済の研究者で、当時40歳くらいだったと思います。穏やかな方で私が韓国に行きたくなった理由を説明したところ真剣に話しを聞いてくれました。そして、

「大西君は韓国で良い経験をすると思うし応援する。でも、時には嫌な思いもするかもしれないけど大丈夫かな。」

と言われました。私は数年前まで高校の吹奏楽部で相当しごかれていて多少のことなら耐えられる自信があったので、

「はい、大丈夫です。」

と答えました。

A教授は私に次の3つのことをしてくださいました。

1.A教授の友人で韓国人の方に保証人を頼んでくれた。
2.延世大学語学堂の入学に関する資料一式を提供してくれた。
3.ソウル到着後に下宿探し等の手助けしてくれる日本人留学生を紹介してくれた。

1と2はスムーズに進み入学が許可され、1991年3月の最終週にいよいよ出発することになりました。友人達は送別会を何度も開いてくれて、そのたびに、

「どうして韓国へ行くのか?」

と質問攻めに合いましたが、いくら説明しても彼らには全く理解できなかったと思います。

一方、友人のM君が、

「笑顔は世界の共通語。常に笑顔を絶やさず。」

という言葉を色紙に書いてくれました。この言葉はとても本質をついているし、貴重な言葉としていまでも大事にしています。

そして、成田空港を出発し金浦空港に到着。68番という市内へ向かう座席バス(470ウォン)に乗り、延世大学があるシンチョン(新村)で下車し、事前に日本人留学生から聞いていた旅館にチェックインしました。オンドルの床には花柄のせんべい布団が敷かれ、トイレとシャワーがついていました。この旅館はいわゆる日本のXXホテルで、名前をチャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)と言いました。延世大学のマ・クヮンス教授という人が著して出版した「カジャ チャンミヨグァン ウロ(行こう、薔薇旅館へ)」という本がベストセラーになり、そのタイトルとして50代以上の韓国人なら誰でもその名を知っている有名な旅館です。

馬 光洙(マ・クァンス、마 광수、1951年4月14日 – 2017年9月5日)は、韓国の小説家である。ソウル特別市の出身。1951年4月14日、ソウル生まれである。延世大学の国文科と同大学院修了。延世大学の国文科の教授を歴任した。1977年 『現代文学』に 「ヘソに」、「あぶれ者」などの6篇の詩が推薦され、登壇した。それから、詩集『狂馬の家』(1980)、『行こう、バラ館へ』(1989)などの作品を発表した。1992年には、小説『楽しいサラ』により筆禍事件となった。評論集としては、『尹東柱の研究』(1984)、『馬光洙の評論集』(1989)、『カラルシスとは何か』(1997)などがある。2017年9月5日、ソウルの自宅で首を吊って亡くなっているのが発見された。(Wikipediaより)

国際学部のA教授がつないでくれた「日本人留学生」というのは、私と同じ大学を卒業して延世大学の大学院に通っていた方で、当時25、26歳くらいの方だったと思います。この方は日本に帰国後、新聞記者になりました。私の到着日と到着予定時刻を前もって知らせていたので、すぐに連絡がつくと思っていましたが、なかなか電話に出てくれません。そして公衆電話と旅館の部屋を往復する羽目になりました。

ほぼ韓国語能力ゼロだった私は1日、2日と時間が経ち1週間後の入学式の日も近づいてきてだんだん不安になっていきました。食べ物の買い方も分からないし、いったいどうしたら良いのかと。私の両側の部屋には毎晩酔っ払ったカップルがやってきて騒がしいし、これは早速とんでもないことになったと。しかも、その旅館はまだボイラーではなく練炭を使っていて、後から知ったのですが、韓国では毎年冬になると一酸化炭素中毒で死ぬ人が大勢いると。日本語を少し話す受付のハルモニ(おばあさん)から「(一酸化炭素の充満を防ぐ為に)窓を5センチ程度空けて寝ること」また「(乾燥を和らげるために)水を入れたコップを床に置くこと」を教えてもらいました。

ソウルに着いて3日目の夜だったと思いますが、夜中にふと目を覚ますと、体が全く動かないことに気付きました。

「あれっ、これってもしかして???」

焦って目玉だけはぐるぐる動き、左斜め上の方を見上げると締め切った窓が見えました。

「まずい、このままだと死んじゃう。勉強も始める前に死んじゃうのか。どうしよう、どうしよう。。。

体は動かないのですが目玉と頭の中だけは異常に活発に動きました。しばらくして、足の指差に力を入れたところ少し動き、次に手の指先が動き、徐々に体がほぐれていきました。そして、なんとかはいつくばって動けるようになり、窓に手を伸ばし思い切って窓を開けた瞬間、外から冷気が「ざーっ」と部屋の中に流れ込んできました。ほっとしたのと、疲れとで一気に頭の中が真っ白になり、そのまま眠ってしまいました。

翌日も、その翌日も先輩と連絡がとれませんでした。その内、受付のハルモニ(おばあさん)が心配してくれて、パンや牛乳を差し入れてくれました。私もさすがにこんなことをしていてはいけないと街を散策することにしました。

ハングルもまともに読めな上に、当時のほとんどの店は外から店内が見えないように黒いフィルターのようなものがガラスに貼られていたのでさらに何の店か推測すらできませんでした。ただ、ビビンパやチゲなどの軽食を出す店だけは、道路に面して入り口を開放していて、アジュマ(おばさん)が赤いゴム手袋をつけて忙しく出入りしているので何の店かすぐに分かりました。

ある一軒に入り、ビビンパと書かれた壁に貼られた紙を指さし、イゴチュセヨ(これ下さい)と言いました。アジュマ(おばさん)は「ネー(はい)」と言って厨房に入り、しばらくしてたくさんのキムチと一緒にビビンパが出てきました。3.500ウォン、とても美味しかったことを覚えています。少し自信がついてきたので、延世大学へ行き校舎、学生会館、学食等を散策してチャンミヨグァン(薔薇旅館)に戻りました。

ソウルに到着して5日目の夜、先輩に電話をしたところ突然着信しました。相手からはおもむろに「ヨボセヨ(もしもし)」とやる気のない声が。私は自分を名乗り、約束していたことを伝えました。一瞬間があって、先輩は、

「ごめん、すっかり忘れていた。」

と。それから先輩は旅館に飛んでやってきて私に謝りました。その焦る姿を見て、

「この人、本当に忘れてたんだな。」

と分かりました。

翌日、先輩は再び旅館にやってきて、当時ポクトパンと呼ばれていた不動産屋に一緒に行ってくれました不動産屋のおじさんに下宿費の予算と条件を説明したところ候補として3軒案内してくれて、その中から一軒を選択しました。選んだ理由は、下宿のアジュマ(おばさん)がやさしそうだったからです。

ソウル特別市ソデムング(西門区)チャンチョンドン(滄川洞)が、私の最初の下宿先となりました。下宿代は一人部屋で一ヵ月25万ウォン(朝食・洗濯・掃除付)でした。先輩は、

「困ったことがあればいつでも相談してね。」

と一言残してシンチョン(新村)の街の中に消えていきました。結局、先輩とはその後一回も会うことはありませんでした。

次回は下宿生活と学校のことについて書きます。

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学①)

「人事担当者が扱うテーマとは何か」を考えています。

教科書的には、経営者と従業員のニーズにマッチした制度をつくったり、運用したりすること。また、勤怠管理や給与計算といった事務仕事を正確に、スピーディにこなすこと、となるでしょう。それらは確かに重要ですが、より重要なことは、

「人事とは人間学そのものである」

ということではないかと思います。

人間学とは、文字通り「人間に関する学問」です。そして、その中心的なテーマは、職場に限らずあらゆる人間の集まりにおいて発生する「対立」を「回避」することではないかと考えています。大きくは国家間、民族の対立。身近なところでは友人間、家族内で生ずる不和等があります。

人には本来、人とつながりたい、良い関係を築き保ちたいという本能がありますが、一方では、自分(達)と人との違いを見つけて線を引いたり、無視したり、時には排除までしてしまうものだということを理解しておく必要があります。

私が人事担当者としてずっと向き合ってきたのは、職場内で連鎖的に発生する人間関係のトラブルと、その原因である排他的な感情でした。私の目標は、そういったネガティブな感情に支配さされずに、人との「分裂」や「分断」を嫌い、憎み、自制して、意識的に良い行いが出来るようになることです。

そこで、私は、他者との境界線をはっきり意識できるような、ややもすると対立が生じやすい環境に身をおくことを選びました。そして、自分と他者とを隔てる境界線をまたいで「異質なもの」と向き合い、乗り越えようと苦心することに生き甲斐を感じるようになっていきました。

「違う環境に身を置き、異質なものと向き合った」中でも、特に思い出深いのは、韓国ソウルで過ごした1年間(1991年4月~翌3月)でした。

これまで私はソウルでの思い出を、どこか封印してきたのかもしれません。留学を終えて帰国した時、友人から、

「韓国に行って意味なんてあったの?」

と質問されました。その時とっさに出た言葉は、

「知らずに済むのなら知らない方がよいこともあるよ」

でした。たった1年間の短い時間でしたが、そこで過ごした濃密な時間は、人に話してもなかなか理解してもらえる内容ではないですし、それだったら敢えて話さないと決めていたのかもしれません。

当時の韓国は軍事政権から民主化への大きなうねりの中にあり、人々が新しい社会と秩序を模索していた時期でした。デモの鎮圧で街が機動隊に占拠され、学生と見れば機動隊に追いかけられ、捕まると輸送車に押し込まれて留置所に連れていかれるような日常が、バブル最盛期の浮かれた日本からやってきた私の目にはどのように映ったのか、30年前の記憶を辿ります。

日本にとって最も近い外国であり、両国の歴史認識の違いから時に対立し、時に近づいたりする韓国。同じ民族でありながら政治体制の異なる南北国家に分断され、統一への気運が高まったり冷めたりを繰り返す、日本と切っても切れない国、韓国への思いを「人間学」の視点から書きたいと思います。

1.韓国人との初めての出会い

1年浪人して大学に入学したものの勉強に身が入るわけでもなく、バイトと社会人吹奏楽団での楽器演奏に明け暮れて、何となく1年半を過ごした1989年12月のこと。横浜の実家の隣で新聞販売店を経営していた大叔父(祖母の弟)から

「お店でクリスマスパーティーをやるんだけど、かっちゃん(私のあだ名)来ない?実は、お店に韓国の若者2人が奨学生として住み込みで新聞配達をしながら日本語学校に通っていてね。日本に来て1年も経つのに日本人の友達が出来ないと寂しがっているんだよ。だから、一緒にお酒を飲んであげてくれないかな」

と誘われました。私は、彼らが1年間日本にいるのに日本人の友達がいないということにとても驚き、可哀そうになりました。少しでも役に立つのならと考えて

「喜んで行きます」

と返事をしました。大叔父がもし私を誘っていなかったとしたら。クリスマスイブに別の用事があって大叔父の誘いを断っていたとしたら。。。私のその後の人生、就職先も結婚も、すべてが書き換わっていたと思います。私に訪れた最初の人生の分岐点でした。

クリスマスイブの夕方に新聞配達店に行きました。普段は折込チラシを新聞に挟む作業をする台の上に、たくさんの食事とお酒が用意されていて、配達員の皆さんと韓国人の2人(オク・ヨンハンさん、コ・ミョンチョルさん)が私を待っていました。乾杯して楽しく時間を過ごすうちにオクさん、コさん、私の3人で彼らの部屋で2次会をすることになりました。

オクさんは韓国のソガン(西江)大学在学中に軍務に就き、除隊して卒業後日本に来たこと。家族全員がクリスチャンで、下の名前のヨンハンというのは、使徒ヨハネからとったもの、とのことでした。

コさんは専門学校を卒業して軍務に就き、除隊して一旦就職したものの日本語をマスターしたいと退職し日本に来ました。

私はそれまで韓国人と会ったことも話したことも無く、彼らの言動一つ一つが日本人と違うので興味が湧きました。行動が速いこと、そして、大きな声でよくしゃべる。日本語はとても上手でした。あと、キムチの匂いの記憶が鮮明に残っています。まず、彼らは日本に来て1年経つのに、新聞配達と日本語学校の往復だけの生活で、加えてテレビもなく、日本社会のこと、日本人のことについて圧倒的に情報が不足しているようでした。彼らの目を通して見た日本理解の中には、一方的な思い込みの部分もあり、私は都度その説明と修正をしました。彼らとはとても気が合いましたので、これからもちょくちょく会いましょうということになりその場はお開きとなりました。

私は、横浜の磯子区で生まれて小学校1年生まで過ごしました。近所に自転車屋さんがあり、その息子と同級生でした。ある日、彼と一緒に遊んでいた時に、近所のおじいさんがやってきて、

「あの子とは遊ばないほうがいいよ」

と言われました。私は、仲の良い友達と遊んでいるだけなのに、どうしてその子とだけ遊んではいけないのか、さっぱり意味が分かりませんでした。

その後、市内の戸塚区に引っ越してしまいましたので、その記憶もすっかり薄れていたのですが、二人の韓国人との出会いがきっかけで、急に近所のおじいさんが発した言葉、

「遊んではいけない」

の背景に、

「差別」

があったことが分かってきました。

なぜ、あの人はそんなことを言ったのか。なぜ、彼は私と違うというのか。疑問が次々と湧いてきました。そして、本屋に入り浸っては、朝鮮半島の古い歴史や近現代史について理解しようと本を読み漁りました。

近現代史については学校でも基礎的なことは学びますが圧倒的に知識が不足していることが分かってきました。日韓併合の経緯や統治の実態、また日本敗戦後の朝鮮戦争、そして在日韓国、朝鮮の人々がどのような立場で暮らしてきたか、徐々にその輪郭がはっきりとしてきました。

私の「韓国のことをもっと知りたい」という素朴な動機は、初めて知り合った韓国の2人との交流から始まったのでした。

2.初めての韓国旅行

年が明けて、その日も韓国人2人の部屋を訪れていろんな話をしていた時にコさんから、

「大西さん、今度旧正月で一時帰国するんだけどソウルに来ない」

と誘われました。私は、二人を通じて既に韓国に興味を持っていたので、迷わず、

「行きます」

と答えました。

当時、韓国入国には短期滞在ビザの事前発給が必要でした。航空券を予約して磯子の韓国領事館に出向きビザの申請をしました。パスポートを預けて3日後に発給されました。

コさんは先に帰国していましたので、単身、成田空港からソウル・キンポ(金浦)空港に飛びました。キンポ空港に到着して駐機場に飛行機が停まり、窓の外に整備や荷物を運ぶスタッフが次々に現れた時、そんなに多くの韓国人を見たことが無かったので、ちょっと緊張したことを覚えています。

飛行機を降りてターミナルビルに入ると、全体的に古びていて照明は薄暗く日本の地方都市の空港のようなイメージでした。入国審査官はぶっきらぼうで警察で取り調べを受けているような気持になりました。

荷物検査を終えて到着ロビーに入ると自動小銃をもった軍人二人が巡回しているのに驚きました。その時、韓国と北朝鮮は準戦時下の休戦状態にあるということを痛感しました。そして、出迎えに来てくれたコさんに会いました。

二人でバスに乗り市内に向かいました。後に下宿することになる、ヨンセ(延世)大学があるシンチョン(新村)に着き、旅館に荷物を置いてすぐに観光を始めました。ソウルの主要な観光地(キョンボックン、チャンドックン、チョンミョ、インサドン、ナンデムン、トンデムンなど)をほぼ巡りました。印象としては、高2の時に吹奏楽部の演奏旅行で訪問した中国北京の歴史的な文化施設の建築様式や朱色を基調とした色彩が似ていると感じました。コさんは学んだ日本語で目に入るもの、ことについて一生懸命に説明をしてくれました。

そして、ソウル駅から特急列車のセマウル号に乗って古都キョンジュ(慶州)へ。仏教建築と仏像は洗練されていて、日本の仏教の源流はここにあるのだと思うと目が釘付けになりました。

ソウルに戻り、次は一般の鉄道(ディーゼル機関車の列車)で38度線近くのイムジンガク(臨津閣)へ。パンムンジョム(板門店)ツアーは大韓旅行社という旅行会社が独占するツアーに申し込まなければならず、加えて韓国人は参加できない決まりだったため、鉄道で行ける休戦ライン(38度線)ギリギリのところへ行くことにしたのでした。

途中駅に停まると弁当やお菓子、お酒を売りに来ました。窓を開けてキンパㇷ゚(韓国海苔巻き)と焼酎、ゆで卵を買いました。ゆで卵をひたすら食べているコさんの姿が印象的でした。韓国人は外出すると必ずゆで卵を食べますが何故なんでしょう?イムジンガク(臨津閣)にある展望台からは緑ひとつない荒涼とした土地とイムジンガン(臨津江)、そしてその先に北朝鮮が見えました。

そんなことをしている内に旅行も終わりに近づき、ソウルでコさんの友人と3人と食事をしました。その時彼に言われたことがずっと忘れられませんでした。

「大西さん、韓国を見てどう思いましたか? 発展しているでしょ? 日本に負けてないでしょ?」

と。私は正直言って、当時のソウルが東京と同じかと言われるとそう思わなかったので答えに困りました。でも、当時の韓国人にとって日本は、いつも意識して目指すべき存在。いつか必ず追い越さなければならない目標でもあり、宿敵でもあるのだな、と。

さらに、韓国語はよくわかりませんでしたが、コさんはその友人からしきりに日本について質問をされているようでした。そして、コさんが少し困ったような顔で返事をしている姿が印象的でした。

その時思ったのは、韓国人の中にも日本のことを知っている人、知らない人がいる。でも、日本のことを知らない人も、何となく知った気持ちになっているのではないか。そして、間違った日本に関する情報が広がっていて、その脚色された情報の方がより刺激的で、地味な真実より韓国人の頭の中にすりこまれやすいのでは、と感じました。

終始同行してくれたコさんのおかげで、この旅行は私が韓国の今を知るとても充実したものとなりました。一方で、人との距離感が日本人よりも近い(知らない人に話しかけたり、話しかけられたり)ことや、男性の行動が強引で、ちょっと乱暴な感じがしたりして、ここで生活するのは私には無理だなと思って帰国しました。

しかし、時間が経つにつれて、どうしても気になってしまうのです。韓国のこと、韓国人のことをもっと知りたいという気持ちが次々湧いてきます。それがどうしてなのかよくわかりませんでした。理屈ではなく、引き寄せられる感じでした。

コさんが日本に戻ってきて、そのことを話したら「じゃあソウルに留学したら」と勧められました。それで、私の方向性は決まりました。

両親にそのことを話したら最初父は反対しました。留学するなら英語圏、若しくは台湾はどうだと。韓国は勧めないという言葉でした。なぜ父がそう言ったのか。韓国のことを知らない父には育ってきた過程でまだ偏見があったのだと思います。そんな父の韓国に対する印象は、私の留学が始まった後ソウルに遊びに来た時に「韓国は面白い」という見方にすっかり変わってしまいました。

しかし、当初、父は賛成ではなかったので、学費と休学にかかる費用は自分で工面することになり、バイト代が良いので新聞配達店で朝刊の配達をすることにしました。また、4年で復学するので、極力単位は取っておこうと考えてそれまでになく勉強しました。そして、留学先の学校と保証人探しを並行して行いました。

次回は、留学の準備と留学直後の出来事について書きたいと思います。

従来の「改善」を超える方法

前回のブログで、従業員の「仕事の煩雑さを解消してほしい」という要望から、社内の内線電話網を拡張することを思いつき、大きなコスト削減を実現したことを書きました。他にも同じように従業員の何気ない一言、また仕事ぶりの観察を起点にして実現した改善がありますので書き留めておくことにしました。

事例1:タクシーチケットの導入

台湾の現地法人で管理部門を主管しました。経理、資金繰りから人事総務、物流、輸出入等、全ての間接業務を担いました。その中で、業務が特に煩雑でスタッフの残業が最も多かったのが「経理」でした。その原因は、システム化の遅れにありました。今となっては信じられない話ですが、私の着任時には経理ソフトが未導入で、手書き伝票をひたすらExcelで仕分けして処理していました。その様子を横で見ていて、社員が継続的に増えて会社が大きくなることも見えていましたし、このまま業務のやり方を変えずにいると遠からずパンクすると考えました。そこで、現状の人員(2名)を増やさずに業務量の増加に耐えうる方法を講ずることにしました。

まず当面策として、伝票処理の大半を占める「駐在員のタクシー代」の立替精算にメスを入れました。駐在員には、自家用車やバイクでの移動を安全面から禁止していましたので、移動に際しては毎回タクシーを利用しなければなりませんでした。駐在員25名が、平均して一日に2回タクシーを利用したとすると、月稼働22日として乗車回数1,100回になります。すると毎月1,100枚の領収書が経理に回ってきて、一件ずつ伝票に起こし、現金で精算する必要が生じます。この作業を延々と続けていました。私は、タクシー会社に、当社が独自に作成したタクシーチケットの利用を認めるように交渉しました。市中のタクシー会社3社の内、2社がこの要求を受け入れました。駐在員にタクシーチケットの利用方法を説明して導入を開始しました。当初は、タクシー会社のドライバーに新ルールが浸透しておらず、降車時にトラブルになることがありましたが、1ヶ月ほどすると定着して経費処理の工数が劇的に削減できました。

続いて、経理ソフトを導入しました。従来のExcelによる仕分け作業をなくし、更に、各部門のアシスタントに経理ソフトの機能を一部開放して部門毎に経費伝票の起票を任せて経理スタッフは入力情報のチェックと承認だけをすることにしました。その結果、経理スタッフの業務は激減し、その空いた時間を決算作業や経費の分析に充てることが出来ました。

事例2:職場レイアウトの変更

ベトナムの現地法人で人事総務を主管しました。着任して自席に座り目の前に部下がずらっと座っている姿を見て、とっさに頭に浮かんだのは「この人たちを幸せに出来るかな」という言葉でした。日常の仕事は回っているし、まずは様子を観察して、急いで対処すべきことと、じっくりと取り組むべきことを把握しようと考えました。

まず気になったのは、私の目の前にずらっとならんだキャビネットでした。人の腰の高さくらいのものが右は総務、左は人事のスタッフを分断していました。どのような意図で職場を二つに分けたのか不明でしたが、真っ先に違和感を覚えました。しばらくすると、総務のスタッフがやってきて、人事のスタッフへの不満を訴えました。職場で対応しなければならないことがあっても、人事のスタッフは見て見ぬふりで協力的でないというのです。そこで、人事のスタッフにも話しを聞いてみました。彼女たちの言い分は、総務からいろいろ言われていることは知っているけれど、人事と総務とでは仕事の内容が違うし、私たちも遊んでいるわけではないのに協力的でないと言われても納得できない、というものでした。

さて、どうしようかなと思っていた時に、ふと目を上げると前述のキャビネットが目に留まりました。以前、心理学を学んだ時に、心理的な壁を物理的に解消できる、ということを知っていたので、ひょっとすると、人事と総務を隔ているこのキャビネットの存在が対立を生じているのではないかと考えました。最初、課長にその話しをしたところ、スタッフの仲が悪いのは性格が原因でキャビネットを取り払ったからといって解消するとは信じられない。キャビネットにはたくさんの書類が格納されていて、動かそうとすると大変な作業になるので出来れば避けたい、とのことでした。しかし、私はきっとうまくいくのでやってみようと説得し休日にそれまで職場の中央に陣取っていたキャビネットを左右に移動しました。

月曜日になって出社したスタッフたちは当初少し戸惑っている様子でしたが、翌日には違和感も薄まったようでした。私は、スタッフの動きを観察していました。すると、それまでキャビネットがあったため迂回しなければならなかった職場の導線が直線になり、スタッフがお互いの席のすぐ横を通り過ぎるようになりました。やがて、誰からとなくお互いに言葉を掛け合って会話もしている様子が目に留まるようになりました。明らかにスタッフの表情が変わり職場の雰囲気が和やかになったようでした。そして、1ヵ月程経って、人事と総務のスタッフに職場の雰囲気について質問したところ「以前のような不信感とか懸念がなくなったような気がする」という返事が返ってきました。

ただ単にキャビネットを動かしただけにもかかわらず、このような成果が出るとは私もびっくりしました。そして、その時私が感じたのは「人間は本来、人と仲良くしたいと思っている。しかし、それを何かの条件が邪魔しているのではないか。楽しむことに注目するのではなく、楽しめない原因に注目した方がうまくいく」ということでした。

以上の私の経験を振り返り、私たちに合った「改善の方法」について考えてみました。

まず「改善」と「改革」という似て非なる言葉の意味について調べてみました。(出典:Wikipedia)

改善: 誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にする事、行為。日本の製造業で生まれた工場の作業者が中心となって行う活動・戦略のことである。日本国外でも通用する言葉であり、本来の意味と区別するためにカイゼン、Kaizenとも表記される。

改革: ある対象を改め、変化させること。革命とは異なり、現時点での基本的な体制を保ちつつ、内部に変化を作ることをいう。変革とも呼ばれる。

また、私は、それぞれの実行の主体と目的を以下のように理解しています。

改善: 従業員によるボトムアップ。目的は業務の部分最適化。

改革: 経営によるトップダウン。目的は複数部門にまたがる全体最適化。

これをみると、私が考える「良い改善」とは、実行の主体は、従業員によるボトムアップで、目的は全体最適という、ちょうど「改善」と「改革」の中間に位置するイメージをもっています。適切な言葉を探しましたが、ベトナムの経済・社会思想政策「ドイモイ」の日本語訳「刷新」がぴったりします。

私が考える改善(刷新)のステップは以下の通りです。

1.上司(マネージャー)は、部下(従業員)の言葉をよく聴き、仕事の様子を観察して先入観抜きで「ありのまま」に受け入れる。そして、「自分だったらどう感じるか、どうするか」を自問自答する。

2.顕在化した問題の一段上の視点から問題発生の本質を把握する。顕在化した問題の解決と同時に本質的な問題にメスが入る方法を検討する。

3.社内外を見渡し、問題解決に有効な素材を見つけて、それらを組み合わせた打ち手を講ずる。

一段上のレベルで本質的な問題に気付くと、既存の問題はおのずと問題ではなくなります。例えば、人間関係がこじれた場合、当事者と同じレベルにいては良い解決策を導くことは難しいですが、一段上のレベルに立ちそこから俯瞰すると、実は人間関係は問題ではなく、人間関係がこじれた背景と真因、そして解決策が思い浮かぶことはよくあると思います。坂本龍馬が薩長同盟を成立するために、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩の双方がお互いに武器と米を融通し合うことを提案したという話は有名です。

このようなステップで問題を特定すると一般的な、誤りや欠陥、ミスを是正し、より良い状態にするという「改善」より一段上の、組織に変化をもたらす「改革」レベルに近づく解決が可能となります。

また、職場の人間関係に基づいた従業員起点の発想が有効な理由があります。

1.従業員の気持ちに配慮してあぶり出した問題解決の方が、理解と協力が得られやすく、結果的に早く成果を出せるため。

2.日本人は「関係構築」を重視するため。

1.は理解しやすいと思います。一方、2.については心理学者の河合隼雄さんの言葉が参考になります。

河合さんは日本の心理学の先駆けとしてアメリカとスイスで心理療法を学び、これを日本に導入しました。しかし、欧米で効果を発揮した手法が日本では必ずしもうまくいかないことに気付き、その原因を探索する中で、日本の文化の源流(神話や宗教)をたどり始めました。そして、箱庭療法など、日本的環境や日本的心性に合った心理療法を考案しました。そんな河合さんが、日本と欧米の違いを分かりやすい例で説明しています。

日本人と欧米人が大勢の聴衆を前にしてスピーチに臨むとき、二人は異なることをすると河合さんは指摘しました。

・欧米人はジョークで場を和ませる。

これは欧米人が「自我」を第一と考え、一人一人異なる「自我」もった人間の集まりにおいては、まず自分が何者であるかを伝える事。そして、また親近感をもってもらうためにジョークを多用する。

・日本人は、開口一番うやうやしく「一段高いところから失礼します」と挨拶する。

日本人はスピーチの役割を担うことによって、自分と聴衆との関係に変化が生じることを恐れます。そして「私はこれからスピーチをするけれども、だからといって皆さん(聴衆)と私の関係はこれまで通りですよ」というアピールをする。

私達日本人が自然に共有してきた「関係構築」重視の文化は、強みであると同時に、時として弱みになることもあります。それは、日本人が、自分の意志とは別に、与えられた共同体内の人間関係を大切にする反面、自分の自由意志で、他者とつながり関係性を広げることは苦手とするからです。

環境変化の少ない安定期にあっては、身近な人との「関係性を保つ」ことは有効でしょう。何故なら、現状を継続的にメンテナンスして部分最適(改善)することは、派手さはないものの、確実だからです。

一方、環境に激変が生ずると、部分最適(改善)活動では効果が限定されます。そこで、従来にはない発想で全体最適(改革)の実行が求められます。「改革」とはある意味、人(従業員)よりも、事(打ち手)をより重視する取り組みです。企業組織を優先して、これは表現が不適切かもしれませんが、従業員の納得感を得られなくても実行することを優先するものです。

では、環境の激変期に必要とされる全体最適とは、ボトムアップでは実現できないものなのでしょうか。そこに、私たちが乗り越えていくべき課題があると思います。

私は、従業員一人一人が求めている、漠然とした情報の中にこそ、組織が最優先で取り組むべき潜在的な問題を先取りするヒントが隠されていると思っています。

「細部に神は宿る」という言葉があります。見えないところこそ念入りに掃除をしろと上司から言われたとき、併せてこの言葉を教えて頂きました。小さいことを無視したら大きな方向性を見失うよ、と。

万物の最小単位である素粒子の誕生の謎はまだ解明されていないようです。素粒子には、まるでその一つ一つが精密にプログラミングされているように仕組みが備わっていて、それは神の手によってつくられたのではないかと考える研究者さえいるようです。

このことは、我々が重視すべき基本単位が、これ以上分割できない一人一人の人間だということを示唆しています。組織視点の「あるべき論」を従業員に押し付けるのではなく、一人一人の人間が、生きるために求めていること、感じていることを決して無視すべきではないのです。

「改善」の目的は部分最適に非ず。働く私たち一人一人がお互いに、生かし生かされつつ、共に手を携えてより良い人生を実現するという、究極の「全体最適」を目的に定めるべきではないかと私は考えます。

人事担当者の「現場主義」

「現場主義」という言葉があります。国連難民高等弁務官(1991年 – 2000年)等、国際機関の要職を務められた故緒方貞子さんは、生涯「現場主義」を貫き、解決不可能と思われる問題に対しても難民に寄り添い、その願いを実現する活動をされました。緒方さんにとっての「現場主義」とは、問題の当事者を起点として、その幸福の実現をただ一つの目標とした考え方と態度だったのではないかと思います。

人事の仕事も「現場主義」であれと言われます。しかし「現場」とは何を指すのか、誰にとっての幸福の実現なのか、どんな態度で、現場で起きる問題に向き合うべきなのか、明確に応えることが出来る人は少ないかもしれません。私も40代半ばくらいまでは、何が正しいことなのかが分からず、ずっと手探りでやって来たように記憶しています。そこで、今回は人事担当者にとっての「現場主義」について書きたいと思います。

私は、中学高校と吹奏楽部に所属して、トロンボーン、テューバ、サックスを担当しました。楽器を吹いていた記憶よりも、部活を運営していた、という記憶の方が鮮明です。というのも、中高を通じて部活の代表を任されていたので、どうすれば良い活動が出来るのかを常に考え、取り組んでいたからです。

私が大切にしていたことは、メンバー全員の願いを決してないがしろにしない、ということでした。吹奏楽部の場合、コンクールなど定員が決められている場合を除いて、全員がステージに上り、演奏をするメンバーですので、誰一人漏らすことなく、というのはそういう状況から浮かんだ思いでした。ですので、もめごとや、辞めたいという話しを聞いたら、当事者から話しを聞きました。そして、メンバーがそれぞれ部活に対して思っていること、望んでいることを把握して、それが実現するようにしました。中には、自分さえ良ければよいというエゴの話しも聞いたりして、そのようなときは部活が集団活動である以上、個人の勝手は認めないと戒め、それでも従わない人には辞めてもらいました。

私が中学3年生の時、例年のように大勢の新入生の入部希望者がやってきました。そして、毎年のことですが、人気がある楽器(フルートやサックス)に希望が集中してしまい予定の定員数を超えてしまいました。その時は、くじ引きをして、外れた人には次の希望の楽器を選んでもらうという方法を採ったのですが、ある女子生徒の保護者(母親)から夜、私の自宅に電話がかかってきまして、母から取り継いでもらったところ、この方の主張は「学校の部活なのにやりたい楽器をさせてもらえないというのは納得がいかない。あなたは部長でしょ。間違っていると思わないの」という内容でした。

私は、以下のようにきっぱりと返答しました。

私「部活には150人を超える大勢の部員がいます。それら一人一人の希望をかなえてあげたいですが、どうしても出来ないことがあります。それで、先輩から引き継がれている方法は、定員を超えた場合はくじ引きで担当楽器を決定することになっています。娘さんはそのルールでくじに外れて希望楽器を担当することは出来ませんでした。しかし、他にもたくさんの楽器があり、部活に参加することは出来ます。もし、このルールに従っていただけないならば、入部していただかなくてもいいです。」

保護者「たかが部活動で大人のようなことを言って。娘の希望を叶えてもらえないのは納得がいかないが、これ以上あなたと話しても解決できないので切ります。」

結局、その女子生徒が入部することはありませんでした。それよりも、私とその保護者との会話を横で聞いていた母が「自分の息子が大人に対してそこまできっぱり言うとはびっくりした」と言っていました。責任感というのは、年齢は関係ないと思います。与えられた役割を懸命に果たそうとするのは、大人も子供も変わりない、というのはその時の私の経験で学んだことです。

それから月日が流れて就職し、入社2年目に営業部の配属となり、九州の製造工場に1ヵ月程研修で派遣されることになりました。派遣にあたって上司である部長代理Hさんから出されたテーマは次のようなものでした。

工場と営業部の担当者同士の関係があまりよくない。工場の言い分として、営業部は身勝手に要求するだけで自分たちの都合に配慮が欠けている、と。一方、営業部も、重要なお客さんの要望にもかかわらず、工場の担当者は自分たちの都合ばかりで協力する姿勢が足りないと思う、ということだ。これを、研修期間の1ヵ月の内に解決して欲しい。よろしく頼むね、と言われました。

そこで、営業部の先輩社員から話しを聞いて、上司から聞いた話と不一致がないことを確認して九州に赴きました。私の研修先は、工場の生産管理部といって、工場全体の管理、特に生産工程と納期管理を担う部門でした。工場の全部門の見学と仕事の説明を受け、全体の輪郭がつかめてきたところで、生産管理部の担当者お一人お一人から話しを聞きました。質問は「営業部に言いたいことは何ですか?何を困っていますか?」というものでした。

担当者の方々は6人くらいだったと思うのですが、皆さん率直に話しをしてくれました。事前に上司から聞いていた通り、営業部の要望は時間も関係なくファックスで一方的に送られてきて、返答の納期もいつも「最速で」と言われる。どれも最速だと優先順位をつけることが出来ないし対応に困っている、という内容でした。私はヒアリングしたメモを読み返して、実際にどのように営業部から要望がファックスで届くのか実際の様子を観察しました。担当者が言うように、朝出勤すると前日に発信された何枚かの問い合わせが届いているのでそれに採番をして、関係部門に配布して回答までにかかる納期を確認することから一日が始まっていました。そして、勤務中にも不定期にファックスの着信音が職場内に響き、その度にファックスの所へ移動して受信を確認、採番し、再び関係部門に問い合わせをするという作業を繰り返していました。その時、ふと考えたのは、もし自分がこの担当者だったらどう思うだろうかということでした。きっと、他の仕事に集中して取り組めないし、一方的にやらされる仕事で嫌になるだろうなという共感でした。担当者のイライラと、その気持ちが営業部への電話の言葉の端々に表れていて、これでは本来、ビジネスの成功のために一致協力して取り組むべき関係には到底ならないなと思いました。

そこで私は、提案のレポートを作成しました。

1)営業部から生産管理部へ問い合わせのファックスを送る時刻を決める午前11時と午後3時の2回とする。但し、それを待てない場合は、まず電話をして事情を説明して、緊急のスタンプを押した要望書をファックスする。

2)生産管理部は問い合わせのファックスを受信したら、関係部門に回答納期を確認する。午前中受信分は当日中に営業部に納期を回答する。午後受信した分は翌営業日の午前中に納期を回答する。営業部として回答まで半日以上待てない場合は、その理由と回答希望時刻を電話で生産管理部の担当者に伝える。

3)最後に、以上のルールで運用して、もし問題が生じた場合はそれぞれの上長にその旨相談して、営業部と生産管理部、双方の上長が話し合いで解決する。

いま考えると、この問題の解決はそれほど難易度が高くなかったと思います。にもかかわらず、私の研修までの長い間放置されていたのは、本社(営業部)と工場(生産管理部)の立場の違い(力関係)によるものだったと思います。工場は従うもの、という暗黙の了解が双方にあり、担当者はその見えない制約に従わざるを得なかったのではないでしょうか。

私は、前述の改善案を上司の部長代理Hさんに送り反応を待ちました。そして、Hさんから返事がありました。

「大西君のレポートをコピーして営業部全員に配布したよ。そして、まだ新卒2年目の大西君だけど立派な解決策を考えてくれた。みんなも見習って欲しいと言ったんだ」と返事がありました。そして、その日から営業部と生産管理部間のやりとりが私の改善案通りとなり、まるで霧が晴れるように問題は解決しました。

この経験は私の原体験として深く心に刻まれました。それから後、この発想(従業員視点での問題解決)を行く先々の職場で応用しました。

赴任先の台湾の職場に、代理店から派遣されて当社と代理店の中継ぎをする担当者がいました。私の着任早々、その社員が私のところに来て「相談があります」と言われました。

彼女によると、私の前任者に再三要望していたのだけれどまったく対応してもらえなかったことがあって、それは多分私が代理店の社員だからだと思う。情報の中継ぎの仕事なので、日本から電話が来て、その内容を代理店に電話して伝えるのだが、毎回、毎回、電話を掛けるのがとても面倒で時間がかかる。そこで、短縮番号を登録すればいいじゃないかと、あなたの前任者から言われてしまったが、そもそも何故、内線電話が両社の間にはないのか。内線電話があれば非常に便利になるはずだ、という内容でした。私はまず、会社が要望に対応せず放置していたことを謝りました。そして、すこし時間が欲しいとお願いしました。

私はまず、会社の関係者に、内線の設置が何故できないのかを質問しました。その回答は、現地法人と代理店は別会社であること。また代理店は工業団地に登記された会社で、これと工業団地の外の会社を内線の専用回線でつなぐことは法律的に認められていない、というものでした。私は事実確認の為に弁護士に相談に行きました。そして、弁護士の回答は、従来はそのような規制があったが、現在は問題ないとの事でした。

あとは、内線の設置にかかるコストと費用対効果を試算をしました。

【現状コスト】

1.国際通話料金
日本(本社・各工場)⇔台湾(現地法人(市中))
日本(本社・各工場)⇔台湾(代理店(工業団地内))

2.台湾国内通話料金
現地法人(市中)⇔代理店(工業団地内)

*さらに、内線の専用回線には当時の最新技術でVOIP(Voice Over IP)というものがあり、これを使えば音声だけでなくデータの送受信も同時にできることが分かり、既存のデータ用専用回線の契約は無用になることが分かりました。

【新規コスト】

専用回線
日本(本社)⇔台湾(現地法人)⇔台湾(代理店(市中))

*日本国内の本社と工場間の専用回線は既存のものを引き続き使用するので追加費用はかかりませんでした。

【結論】

現状コストの過去1年間の実績から、今後のビジネスの拡大に応じた通信費の上昇を試算したところ、年間数千万円単位のコスト削減が実現することが分かりました。以上を本社に稟議回覧しすぐに承認が下りて、前述の代理店の担当者から相談を受けた2ヶ月後には専用回線が敷設され、内線通話が可能となりました。

さらに、この改善には次の副次的な効果がありました。

・従来、内線番号表(冊子)には、台湾現地法人と代理店の代表番号しか記載されておらず、日本側から見て、どのくらい規模感の人がいて、誰がどこで勤務しているのかを把握することができず、直接連絡が出来ないという状況が解消しました。

・受付からの電話の取り次ぎ、また、日本と台湾双方で外線番号をダイヤルする手間が省けて、その繰り返しに要している時間を削減することが出来ました。

・台湾側の従業員一人一人の名前が、内線表(冊子)に掲載された、グループへの帰属意識が醸成されました。

私は、いまでも相談してくれた代理店の担当者に感謝しています。そして、従業員の希望を尊重し、それに基づいた対応さえすれば、想像さえできなかったような大きな改善を実現することができることを経験しました。この他にも、現場の担当者起点で実現した改善は多々ありますが、この場では一旦筆を置きたいと思います。

私が考える「現場主義」というのは「一人一人に神が宿っている」という発想です。上から見下ろしているだけでは到底気付かない宝の山が現場には隠れています。それを見つける最も手堅い方法は、担当者から話しを聞き、その希望や願いをかなえてあげる事だと思います。

私はいまでも新しい職場で仕事を始める際、自己紹介で話すことがあります。それは、「私は皆さんを管理しに来たのではありません。私の役割は、皆さんの仕事がもっと楽になって、もっと楽しく出来るようにお手伝いすることです。この職場の主役は皆さん一人一人です」と。

最後に、マネージャーに頼らず、メンバー同士が、互いの声に耳を傾けて、その希望や願いの実現に、自然な気持ちから「何かの役に立ちたい」と協力し合える場が、私の理想とする職場です。そのような場づくりは、従来、人の個性や性格に大きく依存せざるを得ず、企業によって、また組織によって、どうしても出来不出来の差異が生じていました。しかし、人間は本来人の役に立ちたい、人と良い関係を保ちたいと心から願うものだと信じます。この、もともと備わっている本能のようなものを、何らかの手段で表出する方法を見つけたいのです。そして、この方法をあらゆる組織に応用して、組織間の出来不出来の差異を薄めることが出来たとしたら。それは私にとって最高の喜びとなるでしょう。