人事担当者として、これまで多くの職場で「ハラスメント問題」に対応してきました。いわゆる、セクハラ、パワハラ、モラハラのことです。ハラスメントとは、一般的に、上司・上位にある者が、その職務権限・権力を悪用し、部下を精神的に追い詰めること、と定義されています。そんな、本来起きてはいけないはずのハラスメント問題が、年々増えているという印象を受けます。
ずっと前から職場のハラスメント問題はありましたが、私の経験では、発生後の対応が、以前と今とでは全く異なると思います。かつての職場は、メールやチャット等の文字よりも会話による情報交換を重視していたため、自ずと職場内はガラス張りとなり、メンバーは、今起きていることを共有していました。問題を見掛ければ誰から指示されるまでもなく、理解ある先輩や隣の部門の管理職等が声を掛け合って原因を探り、会社としてとるべき対応への橋渡しをしていました。つまり、組織内部には、問題の深刻化を防ぐ「自浄作用」が働いていたと思います。私は「自浄作用」を働かせる根本動機は「仲間意識」だったのではないかと思っています。
大学院の仲間と定期的に行っている勉強会で、ハラスメント問題のことが話題にのぼりました。
ハラスメント問題の解決に取り組んでいるNさんのコメントは「最近気になっていることは、企業の職場に、人に冷たく全く関心がないような雰囲気が漂っていて、そのような職場ではハラスメント問題が起こりやすく」また「職場で起きる問題の原因は、組織ではなく、個人によるものと解釈されてしまうことが多いため、なかなか根本解決に至らず、次々と問題が発生してしまう」とのことでした。
また、Kさんによると、Kさんがかつて勤務した職場でもハラスメントはあったものの個人が追い詰められることはなかった、と。そして、ハラスメントは、仕事のIT化が進み、従業員が孤独になることが余儀なくされ、集団、権限からのパワーを個人がダイレクトに受けてしまうことが原因ではないか、とのことでした。
私は、お二人の意見に完全に同意します。そして、これほどまでに人に無関心な職場が増えてしまった理由と仲間意識が希薄になってしまった原因を考えてみることにしました。
ひとつの原因として考えられるのは、以前と比べて職場の環境そのものが、仲間意識を育みにくくなったということで、それはきっと雇用形態の多様化が影響しているはずです。平成の30年間で職場には、雇用形態が異なる従業員が増え続け、現在は以下のようになっています。
・正社員(期間の定めのない労働契約 正社員・限定正社員)
・契約社員(期間の定めのある労働契約)
・嘱託社員(主に定年退職後再雇用 現在は65歳まで70歳まで法制化される可能性有)
・派遣社員(登録型、常用型、紹介予定)
・パート
・アルバイト
・業務委託(場内・場外)
私が社会に出た平成が始まる頃は、正社員が、総合職と一般職の二系統で、補助的業務はパート社員にお願いするくらいの非常にシンプルなものでした。それが現在のように、同じ職場に様々な形態、異なる処遇で雇用された従業員がいて、派遣社員のよう指揮命令権外の従業員もいます。そして近年では、多様化した雇用形態への不公平感の高まりから、政府は雇用形態間に生じた処遇差に合理的根拠を持たせる「同一労働同一賃金」を講ずるよう企業に求め始めました。政策で生じたことに対して、誰もが納得する意味を後付けしなければならない非常に難しい仕事です。その担当は当然「人事」です。
一方、多様化した雇用形態の下では、一致協力して職場問題を解決することを求めるのは難しいでしょう。そもそも、雇用形態が異なれば働く目的、会社への要望が異なるのは当たり前だからです。その表れとして、労働組合の組織率は低下の一途を辿っています。(1989年25.9%、2019年16.7% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)
では、雇用形態が多様化した背景には何があったのでしょうか。所説あると思うのですが、私の考えは、右肩上がりの経済成長が終焉し、企業には事業継続のリスク回避策として人件費抑制と雇用流動性担保(解雇手段の確保)の必要性が高まり、それを国が政策面で後押ししたことがあったと思います。そのシンボリックな例として非正規雇用が全雇用者の38.2%(2019年男性22.8% 女性56.0% 出典:独立行政法人労働政策研究・研修機構)を占めるまで増えました。安倍首相は新たに400万人の雇用を生みだしたと胸を張りましたがそのほとんどは非正規雇用です。そして、目下コロナ禍で起きている解雇、雇止めの対象は非正規雇用であり、かつてないほど全雇用者に占める割合が拡大した中で起きていることから、自ずと社会の隅々に様々な影響を及ぼすでしょう。今後の動向を注視する必要があります。
このように経済と政治判断によって生じた問題を現場の個人レベルで解決することは非常に難しく、常に無力感を覚えつつの努力でした。振り返ると、私が向き合ってきたのは、そういった職場に広がる「生きづらさ」の問題をどうやって解決するのかということで、前述したようなハラスメントなど「情」による問題解決を試みましたが限定した範囲内での解決にとどまり根本解決が出来ませんでした。それは、職場問題のほとんどは、組織風土や文化に起因する部分が大きく、時間をかけて複雑に絡み合っている為その扱いは一筋縄ではいかないからです。
そこで、組織の原理原則を学ぶため社会人大学院に通ってアカデミックな領域から知見を得て「理」に基づく問題解決を試みましたが、知識面の充実という面では役に立ったものの、依然として実践的な解決策を導き出すまでには至りませんでした。
考えが行き詰りましたのでちょっと視点を変えたいと思います。
以前ブログにも書きましたが、いま私は聖書を読み進めています。聖書から得られる人間の労苦、つまり「生きづらさ」に関する知見とはなんでしょうか。
旧約聖書では繰り返し、いばらの道、荒野を歩むことが宿命づけられている人間の姿が描かれます。そして、その苦しみから逃れることは出来ないことを諭しています。つまり「生きづらさ」は、たとえ一つ解決してもまた別の問題が現れ、死ぬまでそれが尽きることはない、ということなのです。
人間が、苦しみから逃れようと悪戦苦闘して神の世界に渡ろうと実践した4つの努力とその結末は以下の通りです。
1、知恵を用いる
コリント人への手紙1 1章21節
人間側から神に渡る努力は知恵 しかし結局は到達できなかった
2、義・善行をする
テドスの手紙 3章5節
神のあわれみによる聖霊により我々は救われた 人の義・善行といった努力、施しによるものではなかった
3、法を守る
ローマ人への手紙 3章20節
安息日など十戒を守ろうとしてもすべてを守れる人間は一人もいないばず ひとつでも破れば罪の意識にさいなまれる
4、宗教儀式を行う
コリント人への手紙1 1章17節
イエス・キリストは、バプテスマ(洗礼)を授けるためではなく福音を伝えるために現れた
そして、イエスの登場によって、新約聖書で神の世に至る橋が示されます。
ヨハネの福音書 14章6節
神の存在を信じ、イエス・キリストの言葉(福音)に従えば、神へと至る橋(十字架)を渡り、罪の意識と苦しみから解放され永遠の命が得られる
これが、キリスト教信仰のよりどころになっています。他の多くの宗教でも、大いなるものの存在を信じることで現世における苦しみから解放されると教えているようです。
では、国民の半数が無宗教(49.4%)で、信仰対象として最も多い仏教(34.0%)でさえも、葬式仏教と呼ばれる形式的な仏教しか持たない大多数の、私たち日本人が救われる道はあるのでしょうか。信仰心はあっても、特定の信仰を持たない、言葉を換えれば「神なき国」のユートピアはどこにあるのでしょうか。(参考:NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査(宗教)2008」より)
日本では、厳しくも豊かな自然の中で、人と人、人と自然とを調和させる「知恵」が育まれ、その「知恵」によって、緩やかな信仰心に満たされた風土が醸成されていったのではないでしょうか。そして、この「知恵」は私たちにとっては空気のように当たり前のものなので、普段はその価値を見過ごしがちで、加えて長年かけて自然に獲得したものなので一旦壊れると修復が難しいという特徴があると思います。前述のように、人に無関心で仲間意識が希薄な職場が増えていることは間違いなさそうですので、いまこそ、意図的に「知恵」を生かして人と人を調和して関係性を修復する必要性が高まっているはずです。では、空気のように見る事も触ることもできない「知恵」の存在をどうやって把握することが出来るのか、という課題が残ります。私は、その知見を「音楽」から得ることが出来ると考えています。
8月22日(土)22:00-22:50に、NHK BSで「オーケストラ明日へのアンサンブル」という番組が放映されました。この番組は、緊急事態宣言下で放映された「オーケストラ・孤独のアンサンブル」の続編で、たった一人、孤独の音楽を奏でた13名の演奏家が初めて集い、アンサンブルをするという内容でした。サブタイトルは「心がつながれば 明日は生まれる それを信じて」それにぴったりの内容でした。
仲間と一緒にいることが当たり前だった演奏家の皆さんは、私たちよりも一層仲間とのつながりが断たれたことを重く、深刻に受け留めたのではないかと思います。番組では、演奏家の感情や思いが語られ、それらが発露した演奏はとても感動的でした。
番組で演奏家が語った言葉です。
「1人ではやっぱりどうしてもできないことというのがあって みんなで音を出すことによって生まれるパワーを改めて実感してみたい」
「音楽の力ってみんな考えたと思う。ところで一般の人たちにとって音楽がどれくらい必要だったかを考えなかった音楽家はいなかったんじゃないか。音楽一曲よりもおにぎり一個の方が大事かも、と。とりあえず今を生きる、明日の方が、とかね。だって、4月、5月の時ってどうなるか分からなかった。これからどんどん大変なことになるかもしれないと。」
「未知のウィルスによって人が不安定になって、何かにあたりたくなる現象が起きていると思う。そういう気持ちが落ち込んでいるときに音楽によって何かが変わることがあるとしたらそれがうれしいし、やる(演奏する)価値があるんじゃないかなと思う。」
「そういう中で演奏することによって感じたことは「自分は一人じゃない」と。孤独のアンサンブルをやった時には孤立をさせられた時だった。そして今回みんなが集まって気付いたことは一人じゃない、世の中は誰かと助け合いながら生きているということをものすごく実感した。」
「今、難しいことを強いられていると言えばその通りなんだけど、でも、自分たちの中にある、こういう言い方をすると変かもしれないけど、ミュージックディスタンスみたいのがあるじゃん。人と人とをつなげ、魂と魂をつなげる。そういうものは距離を離れて演奏したとしても変わらないような気がする。」
「円になって演奏するのは簡単なことじゃないかもしれないけど、これだけの音楽家の方々が集まってお互いの呼吸とか気配とかを感じながら音楽を演奏してそれを伝えるということで、聴いて下さる皆さんに心が羽ばたく時期が来るに違いないと、そういうことを信じて自分たちのメッセージとして音楽を届けたいなという気持ちが強いですね。」
これらの言葉と演奏を聴きながら、音楽には本質的に人々に喜びをもたらす力がある。また、演奏家は仲間が集まってアンサンブルする中で、お互いに生かし、生かされつつ、一人では決して到達し得ない深い領域に入りこんでいくようです。音楽を奏でる場は「生きづらさ」とは対極の「理想の世界=ユートピア」なのかもしれないと思いました。
音楽と言えば、私も学生時代に「吹奏楽」に打ち込み、一時は大学院の修士論文のテーマにしたいと考えました。組織論、育成論の視点で、吹奏楽から企業組織の未来を切り拓く知見を得ることが出来ないかと考えたのです。実は、日本はアマチュア吹奏楽の活動が最も盛んな国のひとつで、その演奏レベルも世界最高水準です。吹奏楽は隠れた日本の宝なのです。
○吹奏楽団体数 14,057(2019年10月1日現在 全日本吹奏楽連盟加盟団体数)
○吹奏楽人口 500万人(*)
*朝日新聞デジタル:あの聖地「雲の上の存在」日本有数オケ奏者語る吹奏楽より
経験者も含めると1,000万人を超えるという説もある
では、アマチュア吹奏楽の現場ではどのような上質な場が生まれているのでしょうか。これをうまく著した一冊の本があります。以下、該当する箇所を抜粋しました。
(出典:金賞よりも大切なこと コンクール常勝校 市立柏高等学校吹奏楽部
強さの秘密 山崎正彦著)
「彼ら(吹奏楽部員)は自己に与えられた役割を果たせるように必死に頑張る。この自らに与えられた役割を果たすことについて生徒にインタビューしてみると彼らの言葉から浮き彫りになってくるのは「自分ができないことで皆に迷惑を掛けたくない」とする外に向けての意識と「できないと言って済ましてしまう自分でありたくない」という内向けの意識の2つである。なくてはならないものとして自分が認識されてしまう合奏。実に不思議な営みだ。「君は必要だよ」と声高に叫ばなくても演奏に参加している誰もが必要であることが自明となっていて、あるときは自分が誰かの音を頼り、あるときは誰かの音に自分が生かされ、自分も誰かの音を生かす。だから、その生かし合いの場で自分が役割を果たせないことがどんなに他者をがっかりさせ自分自身も傷つけるか。人との協同の営みのなかで自分の役割を果たせないことがどんなに空しいか。彼らは経験のなかから、あるいは本能的にこれらのことを知っているのだ。自分のためだけでなく誰かのため皆のために頑張ろうとするような生き方を必然のなかで身につけていかざるをえない吹奏楽。それは協同表現であって、人に何かを与え、人から何かを与えられることにより、また互いが生かし合うことによって成立していく。その意味では実に社会的な営みでもあり、吹奏楽部は、あたかも小社会のようなものといえるだろう。そうなるとつまりは、吹奏楽部の活動では、高い精度でバランスを保っている音楽という小宇宙の中に一人ひとりが音となってうまく溶け込み、そこで生み出されてゆく音楽に生気を与えるような力とならなければならず、それと同時に、小社会の中に交錯する互いの呼吸や意思のようなものも見過ごすことなく察して、音楽という絶え間なく流れてゆく時間の刻みのなかの自分のあり方を瞬時に決してゆかなければならないのである。教師が多くを語らなくても良い。吹奏楽というものが自ずと持っている教育的な力を見失わないだけで良い。」
吹奏楽経験者であれば、ここで書かれている「場」を、市立柏高校のような高レベルの演奏をする団体に所属していないとしても、簡単に理解できると思います。経験者にしか分からない共通言語だと思います。
私の恩師は、この「場」を「良い人だまり」と名付けました。私にとって実現したい「理想の世界=ユートピア」とは、恩師が求めた「良い人だまり」のことだったのです。そして私は、社会に出てからも、ずっと「良い人だまり」を求めて理想と現実とのギャップに悩みました。
以前、恩師に「良い人だまり」について質問した時のやりとりです。
Q(質問)は私
A(回答)は恩師
Q: 吹奏楽活動の目的とは?
A: 社会教育の一環として人と人とが良い状態(良い人だまり)をつくることにある。
「良い演奏をする」ことを目的化するとうまくいかない。「良い人だまり」が形成された結果「良い演奏」が実現する。良い人だまりに参加すると人生が楽しくなる。音楽をレッスンすることやコンクールに出場することなど、目に見えることは、「良い人だまり」をつくるための手段である。
Q: 「良い人だまり」の必要条件とは?
A: 上質な場を形成するには、その団体を率いる団長が人望や人徳を備え、リーダーシップを発揮し、団員に安心感、満足感を与える必要がある。指揮者(指導者)と団員(奏者)は対等である。従って、きちんと役割分担をするためには団員がひとつにまとまっていなければならない。
Q: 人望、人徳の育て方
A: 人望や人徳は教育できない。頭で理解しても身につかないからだ。実践の場、修羅場体験が人を育てる。人望、人徳があれば、厳しいことを言っても人に受け入れられる。良い叱り方は、その場で判断する。学ぶことではなく本能で分かることだ。
Q: 「良い人だまり」の効用
A: 音楽が好きであると言い合える上質な場となる。一般吹奏楽団体でやりたいことは、当然「音楽」なのだが、その音楽に打ち込む為には、団員が安心感で満たされる「良い人だまり」が不可欠だ。
Q: 今目指していること
A: 持続可能な組織となる。一過性ではなく、人が入れ替わっても組織そのものが変わらない継続する仕組みをつくりたい。
私が理解している「良い人だまり」の条件は以下の通りです。
・人望人徳を備えたリーダーの存在
人に与えることを喜びとし見返りを求めないGive & Giveの人
その存在感がメンバーに伝播して安心安全な場が醸成されていく
・参加メンバーのふるまい
自分さえよければ良いというエゴを慎む
お互いに自分が持っているものを惜しみ無く出し合う
お互いにかけがえのない存在であると認め合う
特定の誰かに依存しない基本的にフラットな人間関係を尊重する
人が入れ替わっても変わらないものを次世代へ引き継いでいく
恩師は、良い演奏やコンクールの成績を目的にするとメンバー間の関係がぎくしゃくしてうまくいかなくなると仰っていました。目的はあくまで「良い人だまり」をつくることで、良い演奏は後からついてくると。
毎年末に全日本吹奏楽連盟主催の合宿が浜名湖であり私も高校在学中に2年連続して参加したことがあります。全国から高校生150名~200名程が集まり1週間合奏練習をしました。講師(恩師もその一人)を務められた秋田南高校、花輪高校、富山商業、浜松商業、愛工大名電校、天理高校、淀川工業、就実高校といった吹奏楽名門校の指導者から直接レッスンを受けたのですが、どなたも異口同音に、良い演奏は結果で、もっと重要なことは「場づくり」であると熱心に語られていました。その時私は、吹奏楽の世界では、表現は違うものの恩師が言う「良い人だまり」は常識になっているんだなと理解しました。
実は私は人から「では、あなたは良い人だまりを経験しましたか?」と尋ねられたら、自信を持って「はい」と答えることが出来ません。恩師から厳しく指導されたにもかかわらず、高校3年間で恩師が求めるレベルに至ることが出来なかったことを今でも悔やんでいます。理由はいろいろありますが、部活の運営面において、特定のメンバーに依存する体質に陥ってしまったという反省があります。その不本意な記憶と心残りから、社会に出てからも私の「良い人だまり」への希求は続きました。しかし、前述したように現実は理想とは程遠いものでした。
市立柏高校の皆さんのように「良い人だまり」を経験した人は、その後どんな人生を送られているのか気になります。きっと「良い人だまり」を経験した人しか得られない「暗黙知」を発揮して、生きづらい世の中にあっても、それを薄めることが出来ているのかもしれませんね。そう信じたいものです。
一方で、私のように「良い人だまり」を目指しつつも経験できなかった人はどうでしょうか。吹奏楽人口は500万人(一説では1,000万人)です。そして、それら多くの吹奏楽経験者が、合奏の「場=良い人だまり」を想起し、今おかれている状況下でその人なりの「良い人だまり」に向けて背中を押され一歩を踏み出したとしたら。。。社会に与えることは決して小さくないと思います。なかば解決をあきらめていた「生きづらさ」の問題を薄めることができる、微かですが希望の光が差してきました。