優れた経営者の条件

前回のブログで、911同時多発テロの発生に際して従業員の安全を第一に英断を下された社長Hさんのことを書きました。今回も引き続きHさんについて書きたいと思います。

世の中には優れた経営者はたくさんいます。人並外れて、新しい事業を産み出す創造力が豊かで、意思決定に際しての判断力や決断力が優れている。一旦始めたことをあきらめない意志の強さ、執着心。そして、あくなき欲望とそれを制御する倫理観、道徳心を兼ね備えていること、等々。要素分解して数え上げたら切りがないと思います。一方、優れた点を数多く備えていれば必ず成功するかというとそうでもなく、リリーフのタイミングが、外部環境に対して自社の強みが発揮し得る状況にあるかどうかなど、その人の能力以前の条件面によって左右するのではないでしょうか。そこで、経営者に求められる最大の資質は「運の強さ」等と言われるのではないかと思います。

私が仕えた社長Hさんはどうだったかというと、カリスマ的な創業者、続いて野武士のような2代目社長と比較すると、最初は「平凡な人」だったのではないかと思います。しかし、その人が業界のカリスマと言われるまでになられたのは何故でしょうか。私が考えるHさんのすごさは「人の心の機微に敏感で、且つそれを繊細に扱って周囲の人を味方にしてしまう卓越した人望の持ち主」だったと思います。徹底的に平凡を極めた人。それが私のHさんのイメージです。私がそのように考えた理由、Hさんとの想い出をたどりたいと思います。

私が初めてHさんと言葉を交わしたのは1995年、入社2年目の春でした。当時の私は、エンジニアの真似事を1年間経験して本社の営業部に戻された直後で、契約書の管理や製造子会社との調整を見様見真似でやっていました。ある日、部長Yさんに、お客さんからの取引条件変更の要望について質問したところ、それは「Hさんの決定事項だから、直接Hさんに質問して」と言われました。Hさんは当時複数の営業部を統括する事業部長(取締役)でした。普通の会社ですと、入社2年目の下っ端が事業部長に直接質問出来るかというとちょっとあり得ないと思うのですが、この会社では割と普通にそういうことが行われていました。私は緊張してHさんの部屋を訪ねました。社長以下、全ての個室はドアを開けておくというルールがありましたので、外から在席されているのを確認してドアをノックし「どうぞ」と言われたので部屋に入りました。

Hさんは机の上にあるたくさんの書類に目を通されていましたが、一旦両手を止めて、私の目を見ました。私は部長YさんからHさんに直接質問するように言われて来たこと。そして、お客さんからの取引条件変更の要望について質問しました。Hさんはすぐに判断して下さり用件は済みました。私は一礼して部屋を出ようとしたところ、Hさんから呼び止められ振り返りました。Hさんは笑顔で私の方を見据えて、

Hさん「君は〇〇部に新しく配属されたんだよね。名前は何と言ったかな?」

とおっしゃいました。

私「大西と申します。どうぞよろしくお願い致します。」

Hさん「そうか、頑張ってね。これから会社はどんどん大きくなるよ。その時、若い君たちの力が必要なんだ。期待しているよ!」

私は、大先輩に交じって自分のような者が本当に役に立てるのだろうか。足手まといにならないかとどこか不安を覚えていたと思います。しかし、Hさんの笑顔と、私に掛けて頂いた言葉を聞いて、その不安は一瞬で消えてしまったような感覚になりました。Hさんは、一瞬で人の気持ちを掴む達人だったのではないかと思います。後にも先にも、就職した会社でこのような方に出会ったことはありません。

その後、九州の製造子会社からOさんが出向で着任されて、私はその方と一緒に仕事をすることになりました。ちょうどそのころ、欧米のお客さんから代理店を介さない直接取引が求められていました。理由は、代理店のエンジニアリングサービスの品質が一向に高まらない事。また設備の改良についてもメーカーである当社に声が届かずお客さんのフラストレーションがたまっていて、そのことがさらなる事業拡大の足かせになっていることが問題視されていました。そこで、野武士のような2代目社長Iさんは、突然「グローバリゼーション」というスローガンをぶち上げ、半年以内に代理店契約を解除し、全ての顧客への直接販売、直接サービスをすると宣言しました。そして、各営業部に対して、取引条件の決定や、欧米の拠点の立ち上げ、人材の配置、保守部品の供給体制の構築を命じたのでした。

社内では「そんなことは不可能だ」とか「人材がいない」とかネガティブな意見が噴出して、上へ下への大騒ぎになりました。しかし、私が所属していた営業部は、売上、利益ともに会社の屋台骨を支える立場にあったことから、いち早く準備を開始しました。そして、上司Oさんと私の二人で、欧米顧客への直販体制構築条件の洗い出しと準備の工程表を作成することになりました。Oさんはエレキ設計を皮切りに製造、品質管理、生産管理を渡り歩いた根っからの工場のスペシャリストでした。工程表を書かせたら誰よりも速く、精緻に仕上げるスキルを持っておられましたので、私はOさんの助手として手ほどきを受け、徐々に仕事が楽しくなっていきました。

工程表の第一稿が完成したところで事業管理部門の課長Tさんに説明をしたところ、これは一つの営業部のものとして使うのでは惜しい。事業部として共有すべきだ、という話しになり、事業部長(取締役)Hさんに報告しようということになりました。私にとっては、前述のHさんとの最初の会話から数ヶ月が経過していて、久しぶりにHさんにお目にかかることが出来るとわくわくして3人(事業管理部門課長Tさん、上司Oさん、私)でHさんの部屋を訪ねました。

Tさんから、上司Oさんと私の仕事のことについて説明が始まりました。最初は、ニコニコ笑顔で話を聞いていたHさんの表情が、Tさんが発したある言葉をきっかけに険しくなりました。それは「この工程表はOさんと大西君が一生懸命に作ったものです」という一言でした。

Hさん「T君、仕事はね、誰がやったなんてことは重要じゃないだ。そんなことを言うとみんな自分が認められたいとか、褒められたいとか、そういうことばかり考えるようになっちゃうんだよ。二度と、誰がやったかなんてことは言わないでくれ!」

Tさんは「分かりました。申し訳ありませんでした」と謝り、我々3人はHさんの部屋を出ました。Tさんは上司Oさんと私に「せっかく良い仕事をしてくれたのにこんなことを言われてしまって申し訳ないです」と言ってくださいました。Oさんも私もその場では「問題ないです」と言いましたが、自席に戻ってもHさんの言葉に納得できず、私に至っては理想としてたHさんのイメージが根底から覆されたのでむしゃくしゃしていました。そして、仕事を早々に切り上げて、Oさんと憂さ晴らしで遅くまで飲みました。

翌朝、やや二日酔い気味で出社した私は午前中前日のこともあり仕事に身が入りませんでした。そして、昼食をはさんで少しエンジンがかかってきたかなという頃に内線電話でHさんから「部屋に来て欲しい」と連絡がありました。上司Oさんと私は、昨日の勢いで再び叱られるのではないかと恐る恐るHさんの部屋を訪ねました。するとHさんは立ち上がって、Oさんと私に昨日のことを詫びたのでした。

Hさん「昨日はT君の手前厳しいことを言ってしまい申し訳ない。Oさんと大西君は良い仕事をしてくれました。僕はそれを認めています。ありがとう。そこで、お二人が作った工程表を事業部共通のものにしたいのですが良いですか。」

Oさんと私は「頑張ったことが報われた」と感じてとてもうれしくなりました。同時に、Hさんの、従業員の気持ちへの配慮に再び感服しました。さらに深く、Hさんに付いて行こうと思ったのはこの瞬間でした。

その後、私は同社を退職して再就職先の会社でシンガポール勤務を経て再びその会社に再就職することになったことは以前のブログで書きましたが、最終面接でシンガポールから東京に来た時、面接官は社長になられたばかりのHさんでした。2年ぶりの再会でした。

Hさん「大西君、久しぶり。いろいろあったと思うけどやっぱりうちの会社がいいかい?」

私「はい、この間、いろいろな経験をして、いろいろなことを考えましたが〇〇〇がいいです。」

Hさん「分かった、では頑張ってね!」

最終面接はこれだけでした。

そして、本社勤務が始まり、シンガポール、台湾への出張を繰り返す仕事をする中で、翌年の春、管理部門を管掌するために台湾現地法人に赴任することになりました。出発前に再びHさんに呼ばれました。

Hさん「台湾の状況(代理店とのいざこざ)はよく知っていると思うけど、大西君が我々の事業にとってベストな判断を、社長になったつもりでやって欲しい。困った時には直接、取締役Nさん、Tさんにエスカレーションしてもいいよ。」

振り返るとHさんにかけて頂いたこの言葉があったからこそ3年間やれたと思います。

Hさんは、私の台湾赴任後も度々声をかけて下さり二人でお話する機会を設けて頂きました。ある日、台湾に出張で来られたHさんは、夕方私に電話をしてこられました。お客さんとの会食が終わったらオフィスに行くので話がしたい、という内容でした。そして、20時頃になってひょっこり一人でオフィスに来られて二人で飲みに行きました。Hさんがその時おっしゃっていたのは、台湾の状況について、部長クラスから上がってくる情報と現場の実態との間にギャップがあるような気がしていて、直接すべての状況に通じている私から話しを聞きたかった、という内容でした。私の前任者と代理店間で生じたぎくしゃくは、私が赴任した後も続いていました、ちょうどその時Hさんが気にされていたことは図星だったのです。

私は正直に見たこと、聞いたこと、そして感じていることを話しました。Hさんは、いつものように私の話しを熱心に聞いてくださり、その一言一言にうなずき、理解を示してくださいました。Hさんが帰国されるやいなや、本社の部長クラスが何人か台湾にやってきまして、ヒアリングしたいと言われました。私はHさんにしたのとまったく同じ話しをしました。その後、組織の見直しと、ポストの新設と任命が行われて急速に問題が終息していきました。

Hさんはこの時以外にも、出向社員全員と会食の場を設けて下さり一人一人から話しを聞いたり、激励されたりしました。また、台湾現地法人と代理店の合同の会議に出席され、最前列に座り、数時間の間じっと発表に集中して熱心に質問をされていました。社長として社員との距離感を感じさせないように努力されていたと思うのですが、これは装ってできるものではなく、きっと心の底から従業員を大切に思っていて、事業責任者としての社長の役割を果たすという強い使命感を以て臨まれていたのだと思います。

Hさんは何故、野武士のような2代目社長の後を継ぐことになったのでしょうか。のちの新聞社の取材では、次のように述べておられます。

46歳で社長に就任しました。当時、東証1部上場企業で40代なかばの社長なんていませんでした。僕はそのとき常務だったのですが、発表の数カ月前に「(次の)社長にするから」といわれたんです。僕としてはそういう目で見てくれるのはうれしかったけれど、戸惑いも大きかった。自分が大切にしている先輩が相当いるし、お客さんの幹部も年上の人ばかりです。ほとんど無理、という思いで「ちょっと考えさせてください」といった。その後も2、3回話をしましたが、まだためらっていました。そうするうちに創業者や社長から、大迫力で決断を迫られた。「だらしない」と。自分たちは20代でこの会社をつくり、入社してくれた人たちも自分より年上ばかりだ、それでも優れた人と働かなければと、その一心でやってきたんだ、君にもそれができるはずではないのか、とこういうわけです。「若さは重要なんだ」ともいわれました。この業界は大きく変化していくので、自分たちも変わりながら変化に挑戦できるエネルギーがこの会社には必要なんだ、と説得されました。最終的には、「ぜひやらせてください」と心を決めたんです。(日経電子版より抜粋)

野武士のような2代目社長Iさんが会長に退かれた後、私はIさんと台湾事業の件でランチミーティングをすることがあり、その際、Iさんは次のようにおっしゃっていました。

Iさん「大西君は社長になりたいか?もしそんなことを考えていたら止めた方がいいよ。社長なんてやるもんじゃない。何かを決めたらみんな文句を言う。うまくいったらみんなのおかげ。しかも、失敗したら社長の責任だ。でも、誰かが社長をやらなければならない。そんな仕事は誰でも務まるものじゃないんだ。僕がH君を次の社長に指名したのはね、H君が 〇〇 だからなんだ。」

私には書くことがはばかられましたので 〇〇 にしました。Iさんがおっしゃりたかったのは、小さいことを気にして、くよくよしたりするような人では社長は務まらない、ということをおっしゃりたかったのだと思います。

Hさんとの想い出は他にもたくさんありますが、とても書き切れないので一旦筆を置こうと思います。短い時間でしたがHさんのような素晴らしい経営者の下で仕事をさせて頂いたことは、私の終生の誇りです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)