私は両親から、外では「宗教」と「政治」の話しはするなと教えられましたが、皆さんはどうでしょうか。両親の教えに背くことになりますが、とても大事な話ですので、今回は私が人事の仕事を通じて知った「信仰」に関する知識と、そこから得られる知恵について書きたいと思います。
長年人事の仕事をした人が、定年退職間際に真剣に仏教を学び退職して僧侶になったという話しを聞いたことがあります。仕事柄、従業員と向きあい、深くかかわる中で、人について、人生について深く知りたいという気持ちが強くなったからだと、その方はおっしゃっていたように記憶しています。歳を重ねる毎に信仰の大切さに気付くのは人として自然なことなのかもしれませんが、多くの従業員に接して、喜びや悲しみ、怒りや苦しみを間近に見届ける人事経験者が、若干人よりも早くその思いを抱くのは珍しくないと思います。
私は今、特定の信仰は持っていませんが、昔から関心がありました。高校生の時、吹奏楽部の部長として部活を束ねることができないと悩み、友人のお母さんに紹介してもらった浄土宗のお寺の住職から「思い通りいかない時でも心安らかに、楽しく生きる」ことを教えていただいたことから始まります。それから人生の節目節目で住職の教えを乞うて来たのですが、前のブログにも書いた通り、再就職した会社の社命で東日本大震災の被災地へ赴くことになり、その直前に住職を訪ねました。
住職「人は誰でも持っているものがある。なんだと思いますか。」
私「・・・」
住職「まごころです。しかし、まごころを使える人、つまり、心づかいが出来る人がいる反面、できない人もいます。大西君は被災地で、苦しんでいる人たちに向き合うという厳しい場面に直面することになると思いますが、常に、まごころからの心づかいをすれば大丈夫ですよ。」
2011年は4月から年末まで神奈川と被災地を往復し、住職の教えに従って被災した従業員お一人お一人のために出来ることを最優先に、まごころで接しました。そのような中、日々被災地で目にしたのは、懸命に行方不明者を捜索する自衛隊員の姿や、小学校の校庭が仮埋葬所として掘り起こされ、次々と運び込まれる棺桶と埋葬の光景でした。私は次第に信仰について考えることが多くなっていきました。
話しがさかのぼりますが、私は大学で社会学を専攻しまして、卒業論文の指導教官はN教授(当時は助教授)という方でした。N教授は、NHKスペシャル「未解決事件」に出演し、オウム真理教の特集の中で、麻原が信者を洗脳した仕掛けを、麻原から信者たちへの説法(録音)を使って解説しておられました。N教授がおっしゃるには、麻原が信者に求めた答えは「教団にとって邪魔な人間は全てポア(殺す)すべきだ」だった、と。にもかかわらず、その通りに答えた信者を敢えて無視し、あたかも別の答えがあるように信者たちに思いこませ、不安にさせることで麻原の存在を絶対化する巧みなテクニックを駆使していたようだ、とのことでした。世間を震撼させたオウム真理教は、信者の信仰を悪用した極端な事例です。
一方、私たちの身近にも、麻原と似たようなテクニックを使って従業員を操る経営者がいます。また、その影には指南役の存在があることを知っています。事業の目標を達成するために、経営者が、従業員を思いの通りにコントロールする術を身につけたい、との気持ちを抱くことは理解できます。しかし、オウム真理教の事例が証明するように、コントロールされる側の従業員の身になってみるとどうでしょうか。支配され続けた従業員は常に不安感にさいなまれ、次第に自分で考える力を失っていきます。やがて、心身のバランスを崩し、病気を発症することも多くなります。人を自由に操りたいという欲は人間の本能なのかもしれませんが、経営者として権力を揮える立場となった以上、自制心をもって部下たちと接して欲しいと思います。従業員の不安を利用して使役する手法の乱用は、従業員を苦しめるだけではなく、結局事業の発展にとっても望ましくない結果をもたらすと思っています。
ところで、韓国留学から大学に復学した私は、卒業論文を書き始めることになりました。そこで、指導教官であるN教授に「日本の経済成長の原動力となったものについて書きたい」と相談したところ、真っ先に読むように勧められた本が、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でした。当時の私には理解するのが難しい本で、その参考図書を読んでやっと理解することが出来ました。主旨は以下の3つです。
①カトリック信徒に対してプロテスタント信徒(クリスチャン)は、神様との一対一の直接的関係を重視する。神様の存在を四六時中意識していて、自らの言行のすべてを、神様の望まれることと、その栄光の実現という目的に一致するようと努力する。
②①の結果、プロテスタント信徒は独自のエートス(本人の自覚しない性向(内面的原理))として3つの態度(生活態度、心的態度、倫理的態度)もつに至った。そして、このエートスは、偶然、資本主義の拡大原理(利潤を再投資してさらに利潤を増やす)と一致した。
③よって、プロテスタント信徒が多い国、地域は、カトリック信徒のそれよりも経済的に発展した。
16世紀のドイツは、マルティン・ルターによる宗教改革(カトリックの免罪符批判からドイツ農民戦争に発展)を起点とするプロテスタント発祥の地です。「プロテスタント」とは、農民による抵抗活動(プロテスト)が由来となっています。現在、ドイツ南部を除きプロテスタントが多いドイツはエートスが最も浸透している国と言えるのではないでしょうか。
マックス・ウェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。(Wikipediaより抜粋)
余談ですが、私の卒論のテーマは、「日本の経済成長の原動力となったものを見つけること」だったと書きました。そこで、プロテスタントのエートスに相当するものが日本にあるかを調べたところ、マックス・ウェーバーに影響を受けたとされる、東京大学教授だった丸山眞男が「日本政治思想史研究」という本の中で、「儒教」それも「荻生徂徠の朱子学」が資本主義の原理と一致したと述べていることを知りました。なぜ、「朱子学」が資本主義の原理と一致したかについては別の機会に勉強し直してみたいと思います。
大学を卒業して、私のプロテスタントに関する知識は、前述の教科書的学習の域を出ないまま深まることもなく、徐々に関心も薄れていきました。月日が流れ、2019年に大分の半導体関係の商社で勤務することになり、同僚の韓国人Lさんと出会い、親しくお付き合いするようになって、予期せずプロテスタントのエートスを目の当たりにすることになりました。Lさんご夫妻は、敬虔なクリスチャン(プロテスタント)だったからです。
韓国統計庁が2005年に発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。(Wikipediaより抜粋)
韓国では、その歴史等何らかの条件がキリスト教の世界観と一致したことで信者が増え、さらに独特の信仰態度が形成されていったのかもしれません。ちなみに、日本のキリスト教信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%(東京基督教大学の日本宣教リサーチ(2018年))に過ぎず、その差は歴然です。
私とLさんご夫妻の関係は、私が人事としてLさんの採用と受入れを担当したことから始まりました。Lさんは流暢な日本語を使われるのですが、奥様は来日当初、日本語を解せなかったことから、私たち三人の会話は自然と韓国語中心となりました。あと、Lさんご夫妻は中国で生活経験があり中国語が出来ますので、私の妻(台湾人)が会話に加わる時は自然に中国語になります。
さて、私がLさんご夫妻の大分での生活立ち上げのお手伝いや相談に乗るうちに、自然と三人一緒に過ごす時間が長くなっていきました。そして私は、Lさんご夫妻の姿を拝見して、クリスチャンとして大切にしている神様との関係や祈り、他者に向けられる感謝やあわれみといった感情を伺い、また質素倹約な暮らしぶりと身の回りで起きることをありのままに受け入れてベストを尽くすという態度に、次第に感銘を受けるようになっていきました。
今、Lさんは会社を退職し、ご夫妻で大分市内のプロテスタント教会で暮らしています。後で知ったことですが、Lさんはかつて大企業の猛烈サラリーマンで、ある時奥様の勧めで教会に通い信者となり、神学校で牧師の免許を取得後、会社を退職されたそうです。今は、教会の主任牧師O先生と一緒に、協力牧師として信仰に満ち溢れた充実した生活を楽しんでおられます。
そんなLさんと私は、毎週土曜日の午前中にZOOMミーティングをして、一週間の出来事や関心事をシェアし、さらにLさんには私の疑問に答えて頂いています。私からLさんへの質問はもっぱら「今を生きる私たちが聖書から学べること」でして、Lさんは、その一つ一つに対して丁寧に説明をしてくださっています。週一回、牧師さんから直接話しを聞けるというのはなんと贅沢なことでしょう。
私が、Lさんから教えて頂いたことの中で特に深く心に刻まれたのは、
「神様の御心にかなうことをする=神様に喜んでもらうことをする」
という言葉です。
例えば、困っている人に対してあわれみの感情をもち手を差し伸べるのは、その人から感謝されることが目的ではなく、それが、神様が求めている行為であり神様に喜んでもらうことが目的なのだと。そして、神様に喜んでもらえる行いは、全て聖書に書かれていますよ、と教えて頂きました。私は今、Lさんに勧められて毎日聖書を読み進めているのですが、私なりに「神様に喜んでもらう行いとは何か」について理解が深まって来たように感じています。
ひとつはっきりしていることは「自身の非力を受け入れる」こと。そして、大いなるものの存在を信じて、その下でひたすら「恩恵を授けてもらえるような行いをする」ことです。
私が理解した「信仰が持つ力」とは、直面する全ての物事を自分の力だけで解決しなければならないという囚われ、つまり「自己責任論」から自身を解放してくれる鍵です。そして、コロナウイルスの感染拡大や、気候・地殻変動による自然災害の発生など、混とんとして先が見えない時代を生きる私たちにとって、益々重要になってくるのではないかと予想しています。