ありがとう!日本大使館 & 本社人事Sさん

今回は、前回からの続きで、日本人出向者の就労許可をめぐる工業団地管理局とのやりとりについて書きたいと思います。

その前に。。。このブログを読まれた方の中には、不正は悪いことだと分かるけど、なぜ私がこんなにムキになったのか不思議に思われた方もいらっしゃったのではないかと思います。私自身、記憶を頼りにこの文章を書いていて、我ながら「サラーリマンとして常軌を逸していたな」と思ったりもしました。しかし、私の中には「不正は正さなければならない」と考えた、明確な二つの理由があったのでした。まず、そのことについて書きたいと思います。

一つ目は、かつて仕えた経営者から、事あるごとに「違法行為は絶対にするな」と口酸っぱく言われていた、ということがあります。私は、その会社の台湾現地法人に出向して管理部門を主管したので、仕事柄特に厳しく指導されました。台湾はいまでこそ民主化が進み、日本がお手本にすべきことも多いと思うのですが、私が着任した1998年当時はまだまだ、すべての法律の細部まで完璧に従おうとすると、現実問題として、とても運用が追い付かないという状況でして、詳しくは別の機会に書きたいと思いますが、そのような台湾的フレキシビリティが必要と思われるときでも、その経営者からは常に「合法的手段に則れ」と命じられたのでした。

今振り返ると、その言葉は本当に正しかったと思います。何故なら、もし「台湾の状況に合わせて柔軟に対応しろ」と命じられたなら、短期的利益を追求するあまり、中長期的視点で物事を考えることが出来なくなってしまっただろうと思うからです。事業の継続を通じて将来にわたる利益を最大化しようとするならば、後々になっても決して後ろ指をさされるような行為をするべきではない、という宣言が「合法的手段に則れ」だったのではないかと思います。その後、同社は台湾での事業規模を大きく伸ばして現地で上場を果たし、優秀な理数系学生が競って入社を希望する有名企業に成長、発展しました。

二つ目は、2011年3月11日に発生した東日本大震災で被災し、仕方なく退職していただいた元従業員の人たちに顔向けできないようなことはしたくない、という思いからでした。私は、神奈川の電子部品メーカー(ベトナム工場と同じ会社)に、震災発生直後の2011年4月1日に入社しました。この会社には、東北3県に工場があり、そのうちの一つは海沿いの工業団地に位置していたため津波の直撃を受け操業再開不能に陥り、さらに従業員もお亡くなりになるという最悪の事態に直面しました。また、別の工場は東京電力第一原発から約20キロメートルの位置にあったことから、事故発生時、全従業員が避難し、その後も避難場所を転々として、最後は神奈川の本社まで逃げてきたという経緯があります。この工場はその後約半年間に渡り操業停止を余儀なくされ、従業員も放射線の健康への影響におびえながらの生活を余儀なくされました。

私は、入社日に、管理部門管掌役員である常務取締役Sさんから呼び出され、「君には被災地へ行って従業員の雇用調整をしてもらう」と命じられました。従業員の中には津波で自宅が流され、家族や親類が犠牲になった人も多くおられて、そのような悲しみに打ちひしがれる人々に対して、会社が当地での事業継続断念を決定したことを理由に「退職同意書に署名してもらう」という困難な仕事を命じられたのでした。さらに、当然のことながら、従業員から一切の訴えを起こされず、且つ、マスコミへの情報リークなどにより当社の信用を傷つけることも生じさせてはならないという条件も付いていました。

「全ての対象者から退職の同意を取り付けるのは生半可なことではできないと思うが、何とかやりぬいて欲しい」

と話す常務取締役Sさんの表情は今でも忘れられません。この仕事を命じられた翌週、私は東北に赴き、様々な活動を展開して、結果として一切の問題も生じさせず、同年12月24日に任務を完遂しました。今振り返ると、役割をまっとうすることができたのは、私が従業員一人一人とまごころで接し、絶望の中にあるその人に少しでも幸せになってもらうことを考え、真摯に向き合ったからだと思います。ただそれ以上に、会社を自ら去る決断をしてくれた彼らが、私のことを、仕事とか役割といったことを超えて、一人の人間として信じて受け入れてくれたことの方が大きかったと思います。彼らと向きあう中で知ったこと、見たこと、聞いたことを、私は一生忘れないと思います。そして、震災という大きな困難を経て事業を継続しているこの会社に残された私は、不本意ながらも退職に同意した人たちの分まで、真面目に働かなければならないと決心したのでした。そのような感覚から、ベトナム工場で目にした、様々な不正行為を到底看過することは出来ないと決心したのです。

さて、話しを元に戻します。工業団地管理局が突然、当社の日本人出向者の就労許可発給を止めると通達してきたのは食堂変更を強行したことへの報復と私は受取りました。ちなみに、申請中だった3名の内1名は私自身でした。このまま就労許可が発給されないと、私は1ヵ月以内に滞在資格を失いベトナムから日本に帰任せざるを得なくなるという状況に追い込まれました。

そのような中、本社人事の係長Sさんが、私が苦境に立たされていると知ったのでしょう。心配して電話をかけてきました。彼のアドバイスは「日本大使館に相談してみては」というものでした。大使館には在留邦人に対する相談窓口があり、電話番号も公開されています。私は、藁にもすがる思いで大使館に電話をしました。受付のベトナム人女性が日本人駐在官に取り次いでくれました。私はこの間の出来事をありのままに話しました。その方は事情を一回で完全に理解してくれまして、直接会っていただくことになりました。私は、経緯をまとめたレポートと、証拠資料を手にハノイの日本大使館に向かいました。

面会に応じて下さった方は、東京の警視庁から外務省へ出向し、大使館に駐在中の警備担当駐在官でした。後で知ったのですが、大使館には防衛省や、経済産業省など、様々な省庁から派遣された駐在官が勤務しており、ベトナムの状況について情報収集し日本に報告する役割を担っているようです。この警備担当駐在官は、まず私の行動について深く理解を示し、従業員第一、健全な事業の実現のために行動している私のことを無条件で認めてくださいました。そして、出来る事は協力を惜しまないと約束してくださいました。

余談ですが、ベトナムには公安省という日本の警視庁、警察庁、公安委員会を一つにしたような巨大な警察治安組織があり、2つの機関(警察機関、治安機関)に分かれています。前者は、一般刑事事件を扱い、後者は国家の安全保障にかかわる犯罪を扱います。さらにその傘下には交通公安、経済公安等、担当部局が細かく区切られていて、それぞれが職権をまたいで活動することはありません。この警備担当駐在官は、どの部局にはどのような人がいて、その職権と権限、また不正への関与もすべて把握していて、その中には私が頻繁に面会を重ねていた人の名前もあり、「ああ、その人は信用できますよ」とか「この人は避けたほうがよいですね」などと詳しくアドバイスをしてくれました。

そして、核心の、工業団地管理局が当社への就労許可発給を止めているということについて、別のルートで就労許可申請が可能であることを教えてくれました。通常、外資企業が本国から社員を招へいする場合は、「計画・投資省(日本の経済産業省に相当)」の傘下である工業団地管理局を通じて就労許可申請をするのが一般的ですが、「労働・傷病兵・社会問題省(日本の厚生労働省に相当)」でも就労許可発給権を持っていることが分かりました。警備担当駐在官は、「私からも連絡をしておくので、そちらで申請をしてみてはどうか」と勧めてくれました。大使館がこんなに頼りになる存在だとは知りませんでした。本社人事の係長Sさんにも感謝、感謝です。

私は、早速、新規出向者3名分の就労許可申請を「労働・傷病兵・社会問題省」のハノイ事務所に持ち込み受理してもらいました。就労許可が発給されるまでヒヤヒヤものでしたが、無事発給されました。私は、就労許可発給をじらす工業団地管理局に対して対決すべく、重要ポストの二人に会食を持ち掛け、その場で一気に解決する作戦を立てました。

私から会食に誘われた二人は、恐らく私が就労許可申請を受理して欲しいと頭を下げに来たと思ったのでしょう。終始笑顔で上機嫌でした。私は二人が大好きだという日本酒の熱燗をどんどん勧めて、二人も私も酔いが回って盛り上がっているときに切り出しました。

私「ところで、当社が申請している就労許可ですが、受理していただけないと聞きました。このままですと私も日本に帰任することになりますが、どんな状況ですか」

役人「就労許可は日本人が多すぎるからです。でも、こちらも絶対に受理しないとは言わない。私たちの要望を受け入れてくれれば対応します」

つまり、役人が求めているのは「お金」です。私は、次のように切り返しました。

私「それでしたら、全ての申請を取り下げますので、申請書類を当社まで返却してください。その代わり、私は日本大使館に連絡して、ベトナムの発展のために尽力している我々の活動が滞っているという訴えをします。それでもよろしいですね」

役人は、私が申請を取り下げると言い出すとは全く予想していなかったのでしょう。そして、日本大使館にこのことが知られてしまうことに非常に焦ったのでしょう。急に狼狽し、酔って真っ赤だった顔が青ざめたように見えました。ベトナムは、特に社会インフラの整備を日本のODA(政府開発援助)に大きく依存しています。大使館の知るところとなれば関係機関からお咎めを受けるどころか、国と国との関係にも影響を及ぼしかねません。二人の役人は、一気に酔いから覚めた様子で慌てて店を出ていきました。そして翌日、工業団地管理局から申請中だった、私の分を含む3名の就労許可が下りたと連絡がありました。余談ですが、この役人二人は交通事故で死んでしまったことを風の便りで知りました。

さて、私にはもう一つ解決しなければならない問題(某韓国企業から差別を助長すると指摘された2つの食堂(日本人出向者用とベトナム人従業員用)への対応)が残っています。私がどのように解決したかについては次回書きたいと思います。

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