前回のブログで、神奈川の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管していた時、ドイツ人出向者Eさんと親しくなったと書きました。彼のおかげで、私たち日本人が当たり前だと思っていたことが本当に正しいのか、深く考える機会を得ました。今回はそのことについて詳しく書きたいと思います。
日本人とドイツ人は共通点が多い、という言葉をこれまで何度も見聞きしてきました。試しにネットで検索すると、「日本人とドイツ人は共通点が多い。どちらも「生真面目」「時間を守る」「倹約」だ」などと、いまだにそんなことを書いている人がいることが分かりました。確かに日本人から見て、ドイツ人は自分たちに似ていると思う一面があるかもしれません。しかし、ドイツ人はどう思っているのでしょうか。私は、ずっと、日本人とドイツ人は全然違うと思っていました。その理由について述べます。
私は大学生の時に1年間、韓国のソウルに留学しました。留学中仲良くなった日本の報道機関のソウル支局の人がいて、私の帰国後、その人のドイツ人の友人が日本に行くので東京の良いところを案内してあげて欲しいと頼まれました。そのドイツ人の女性はCさんという人で、理由は忘れましたが、吉祥寺を案内しました。吉祥寺駅から井之頭公園まで続く道の両側に焼き鳥屋さんが並んでいて、至る所から煙がモクモク出て良い香りがしているのを見て、彼女は「ドイツでは考えられない」と、本当にびっくりしていたのを覚えています。彼女曰く、ドイツでは、公共の場でにおいを発するものを出すことは法律で禁じられており、また、洗濯物も外に干すことが出来ない等、公共のルールは多岐に及び息が詰まりそうだ。日本や韓国は自由でいいなあ、と言っていました。その後私は、新卒で入社した会社を2年ちょっとで退職してしまいまして、せっかく得た自由を有意義に使おうと、再就職までの5カ月間、ヨーロッパをバックパッキングしました。その時、井之頭公園でKさんが言っていた「息が詰まりそうだ」というのはどういうことなのか自分なりに理解したいと考え、ドイツ各地を訪れました。そして、「息が詰まる」というよりも、「ドイツ人の厳格さ」を目の当たりにしました。
ケルンでは、私がうっかりして、厳格に決められている歩行者用道路、自転車用道路の区別が分からず、若干、自転車道路に足を踏み出して歩いてしまったのだと思います。自転車で近付いてきた若者から、ものすごい剣幕で叱られました。私は最初は意味が分からずポカンとしていたのですが、「ルールを守れない人間は死ね」くらい言われていたのかもしれません。また、ロマンチック街道の始点であるローテンブルグに行ったときは、第二次世界大戦で完膚なきまでに破壊しつくされた町が、完璧に中世の街並みに復元されたことを知りました。様々な職人が集まって、古い写真を頼りに、細部に至るまで、完璧に古く見えるように作り直したということを知って、日本だったら全部新しく作り直してしまうだろうな、と想像したことを思い出します。これ以外にも、見るもの聞くもの、何から何まで彼らは、根本的に私たち日本人と全く異なる思考、行動原理を持っていると感じました。しかし、その後ドイツ人と深く交わる機会がなかったため、それが何に起因するものなのか分からずじまいでしたが、ベトナムで、初めてドイツ人と深く交わることになりましたので、私は彼らのことを深く知りたいと考えました。
ベトナムで一緒に仕事をすることになったドイツ人出向者Eさんは、フランクフルト郊外に住む生粋のゲルマン人で、電子部品の技術者でした。彼は正式赴任前、出張でハノイに来て、その時が彼との初対面だったのですが、ハノイを案内しながらいろんな話をしまして、私は、最初からこの人とは気が合うな、という印象を得ました。というのも、私とEさんには共通点があり、お互いの考え方に共感できたからです。私たち二人の共通点とは、
①自分も部下も、無理せず効率的に成果を上げる方法を考えるのが好き
②失敗しない方法をあれこれ考え抜いて実行することを当たり前と思っている
③人の考えや意見を尊重し、それらを活かしてモチベーションを保つことを大切にする
でした。そして、1週間ほどの出張期間が終わり、彼は一旦ドイツに帰国しました。
その後、ドイツの技術提携先の会社から、Eさんの給料情報、出向期間中のその他の処遇について連絡がありまして、私はびっくりしました。まず、Eさんは部長クラスの技術者であるにもかかわらず、給料は当社の取締役かそれ以上の水準でした。さらに、住まいはホテルのサービスアパートメントが指定され、出退勤時、また奥様も含めてプライベートで常時利用できる運転手付きの車を用意するよう求められました。さらに、3カ月に一回、奥様も一緒にビジネスクラスでドイツへ一時帰国できるオプションもあること、ベトナム語の学習機会の提供等々。私たち日本人出向者は、住居の上限額は900米ドル程度(それでも現地の物価と比べればすごいですが)、出退勤も乗り合いバスで、一時帰国は1年に一回エコノミークラスで、給料も日本国内給与は日本国内で日本円で支給し、海外勤務手当としてベトナム通貨ドンで定額支給するという制度でした。私の疑問は、同業者でありながら、どうしてこのドイツの会社はこんなに社員に対する待遇が良いのか。高付加価値で利益率が高い製品をつくっているとは聞いていましたが、こんなことをして本当に大丈夫なのか、逆に心配になったくらいでした。しかしその後、私の驚きは更に度を増していくことになります。
Eさんが奥様と正式に着任する前に、ドイツの会社の組合のメンバーがハノイに来るという知らせを受けました。私は、組合役員が、現地視察を建前にベトナム観光でもするつもりなのかな、くらいに思っていたのですが、想像もしないことになりました。ハノイのノイバイ国際空港に迎えに行って、飛行機を降りてきた組合役員は6名もいました。それぞれ、健康、処遇、環境等担当者が決まっていて、全員、出向者であるEさんと奥様の生活環境について細かくチェックし、改善すべき点があれば要求をするという役割をもっていました。ハノイに到着するやいなや、当社の工場に来社した6名と会議を行いました。3日間の滞在中のスケジュールは既に分刻みで決められていて、同行と説明を求められました。住まいであるホテルのサービスアパートメントの視察を皮切りに、移動手段と通勤経路の確認、会社の食堂と衛生管理の状況、オフィスの環境、デスクや椅子、さらに余暇の過ごし方について、ハノイ市内への移動経路や、レストラン、その安全性等、あらかじめ用意されていたチェックリストに基づいて現地視察が行われました。事前に手配しておいたタクシーの運転が危険だと言われドライバーの変更を求められたり、奥様の日常の生活についても退屈しないような配慮を求められたりもしました。私は、同じ駐在員で、それも社員の身分で、どうしてここまで配慮してもらえるのか違和感を覚えていましたが、後日その理由が分かりました。
ドイツでは、日本における「株式会社」が「有限会社(GmbH)」であり、少し古いですが2014年のデータでは、ドイツにおける「株式会社(AG)」2,320社に対して、「有限会社(GmbH)」は73,036社と圧倒的に多く、一般的です。ちなみに最も多いのが「個人企業」で569,699社となっています。ドイツの技術提携先の会社もはこの「有限会社(GmbH)」でした。さらに、「有限会社(GmbH)」は、取締役会、社員総会(組合)、監査役会(設置は任意)で構成されていて、最高意思決定機関は「社員総会(組合)」であり、その権限はすべての事項(年度決算書の確定、利益処分、取締役の選任・解任、経営管理の監査及び監督等)に及び、その決議はすべて社員総会(組合)で行われると、法律で定められています。つまり、組合代表者は、経営責任者であり、日本のような労働者の権利を代弁し会社に対して団体交渉を担う機能とは全く異なるということです。ドイツ人出向者Eさんが、ベトナムで勤務し最大限の成果を発揮できるような環境を整えるのは、会社が果たすべき当然の責務であり、それが社員総会(組合)の意志に基づくものであることを知り驚いたのと同時に、仕事のことだけ説明を受けて、スーツケースひとつで取り敢えず赴任させて仕事に就かせることも多い日本の会社とは、労働に対する思想、哲学が根本的に異なることを思い知らされました。尚、私の友人で、長年オランダの航空会社で勤務した方から聞いたのですが、その方は、福岡~オランダ(アムステルダム)路線が開設されるにあたり、成田から福岡に転勤となり、福岡の責任者を務められました。そこで、福岡にオランダからクルーを迎え入れるにあたって、事前に本社から組合メンバー複数名が福岡に来て、ホテルや食事の環境、空港からホテルまでの移動経路、余暇の過ごし方などきめ細かくチェックをされたと言っていました。人事の世界では、ジャーマン・ノルディックという言葉があり、アメリカを中心とする資本家優位の労働政策とは一線を画す、労働者の権利を最大限保護する労働法をもつ国々として、オーストリア、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、北欧諸国があり、日本でも研究の対象となっています。残念ながら日本は、その歴史的経緯からかアメリカの影響を強く受け、終身雇用と長期的な成果主義を大切にしてきた日本の労働政策も遠い過去のものとなりつつあります。
組合代表者がドイツに帰国し、いよいよEさんと奥様がハノイにやってきました。Eさんは知識、経験、士気がいずれも高く、とても頼りがいのある方だと思いました。奥様も気さくで私の妻ともすぐに打ち解けて仲良くなりました。さあ、あとは当社社員とEさんとが一致協力して合弁事業を軌道に乗せるだけです。しかし、Eさんが着任して1カ月ほど経過した頃から問題が起き始めました。それは、Eさんと日本人出向者達との間で、仕事の進め方に対する考え方の違いから、双方に不信感が芽生え始めたのです。特に、Eさんの悩みは深刻で、日本人出向者達との意識のギャップは、自分が、日本語ができないことが原因かもしれないなどと考え始め、実際に日本語を勉強し始めるなど努力していました。しかし、しばらくするとEさんは私に対して、日本人出向者達に対する愚痴を言うようになりました。その内容は、「どうして日本人は綿密な計画なく安易に仕事を始めてしまうのか」とか、「どうして日本人はきちんと結果を検証せず、必要な対策を講じないまま次の仕事にとりかかってしまうのか」や、「どうして日本人はベトナム人社員に仕事の負荷をかけて残業させることを良くないことだと思わないのか」等々。私は、Eさんに、日本人一般の仕事の癖について理解してもらえるよう説明を尽くしました。しかし、それでも尚、Eさんの疑問と憤りは大きくなる一方でした。結局、私はEさんがベトナムにいる間に退職してしまいましたので、Eさんご夫妻と私たち夫婦で食事をしたことが最後の思い出です。その時のEさんの残念そうな表情は今でも忘れられませんし、なぜ、もっときちんとEさんの悩みに向き合ってあげることが出来なかったのかという後悔があります。
次回のブログでもEさんのことについて書きたいと思います。