私たち人事担当者が最も頭を痛めるのが「人事考課制度の設計」ではないかと思います。その理由は、経営者は、一般的に人事考課制度に万能感を求める傾向があり、この要求に応えることが人事担当者として当然の務めと思われてしまうからです。経営者が持つ人事考課制度に対する万能感とは、制度さえ導入すれば、従業員の能力、成果、意欲等、諸要素を完璧に明らかにすることが出来て、さらに、誰が評価しても同じ結果になるような信頼性が高い、誰一人としてその結果に異を唱えない、公平公正が担保されたものであるべき、という感覚です。人事考課の結果に基づいて人件費を適性に配分し、従業員に不平不満を一切生じさせないような、完璧な人事考課制度をもつことに、経営者がこだわるのは当然のことだと思います。しかし、人事考課制度の設計運用の実務を担当する人事担当者の身としては、この要求に応えることは本当に難しいのです。果たして、そのような万能な制度をつくることは出来るのだろうかと私は考え続けてきました。
人事業務、また、社会人大学院での学び(注)を通じて、私はある結論に達しました。それは、理想の人事考課制度を運用するためには、その大前提として以下の3つの条件を整えておく必要があるということです。
①従業員と共有したい思いが明確になっている(共通善としての事業の目的と目標の言語化)
②従業員に事業の目的と目標の説明を尽くして納得感が醸成できている
③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている
①は経営者、②はライン長、③は人事が、それぞれ役割分担して取り組みます。ポイントは、「従業員起点で発想すること」そして、「組織開発に真剣に取り組むこと」です。
人は誰でも、行動前に「発想」します。そして、人は、それぞれ異なる「発想の起点」をもっています。私が考える「発想の起点」とは、「意図」と「願い」です。これらは、その人の人間観、世界観、宇宙観、宗教観等に影響されますので、発想と行動はおのずとパターン化していきます。そこで、これからは、これまでのパターン化した発想と行動を一旦脇に置いて、「従業員だったらどう思うか」という視点から発想、行動することが有効だと思います。その理由は、「不可逆的な社会の変化」があるからです。私が考える「不可逆的な社会の変化」とは、
「経営者が信じるたったひとつの答え(例:売上・利益の限りない増大)を基準にして中央集権的に組織をコントロールする時代から、あらゆる情報にアクセスできて自ら妥当解を出し得るようになった従業員に権限を与え、その考えと意欲を最大限発揮できるような自律分散的組織への変化」
です。「従業員起点で発想する」とは、好き嫌いに関わらず、全ての組織が無視することができない「時代の要請」なのです。
「組織開発」とは、人と人との関係性に着目し、それをより良い状態にする取り組みのことです。一方、「人材開発」とは、その人の能力、意欲を高めて活躍を促進することですので、両者は似て非なるものです。従来、日本の企業文化では、組織開発は現場力に委ねられてきました。社会の隅々にまで、従業員間の関係性を良好に保つ取り組み(レクリエーション)が慣習的に行われてきましたが、近年、様々な要因で機能しなくなってきました。そこで、多くの企業で、「組織開発」に政策的に取り組む必要性が認識されるようになっています。私は、組織開発は人事担当者が担うのが相応しいと考えています。その理由は、採用~配置・労務~人材開発~評価~処遇という役割を通じて、従業員一人一人の多面的な情報を知り得る役割を担っているからです。ポイントは、人事担当者だからこそ知り得る情報を、どのようにして組織開発に活かすのか、ということです。
そこで、前掲で、理想の人事考課制度の運用の条件として述べました、「③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」に対して、人事担当者が担うべき役割について書きたいと思います。
司馬遷が、前漢の時代に著した中国の歴史書「史記」にある「刺客伝」に、「士為知己者死」(士は己を知る者の為に死す)という逸話があります。「立派な男子であれば、自分の真価をよく知ってくれて、認めてくれた人のためなら命を惜しまず死んでもよいと思うものだ。」という意味です。戦国時代の晋に予譲という人がいて、かつて仕えていた恩人である智伯の仇を討つときにいった言葉が、「士は己を知る者の為に死し、今、智伯は我を得る」だったそうです。「命を惜しまない」というのは、現代風になおせば、一個人の利益や損得を超えて・・・」という程度に表現の内容をやわらげて受け取るのが適切でしょう。私は、電機機器メーカーの人事部で勤務していた時に、管理職研修にお招きした講師Tさんから、部下との信頼関係を築く秘策としてこの言葉を教えて頂き、以後、この言葉を行く先々で出会う方々と共有しました。同時に、私なりの方法で、簡単にこの言葉を実践する方法も紹介しました。それは、その人が大切にしていることを「いいね」と受け入れて認めてあげる、というシンプルな方法です。例えば、部下が「フィギュア」のコレクターだったら、たとえ自分が全く興味が無かったとしても、関心を示し、心から「いいね」と言ってあげるのです。この効果は絶大です。その人の本当の価値を認めてあげるというと少し難しい感じがしますが「いいね」を伝えることでしたら、いつでも、どこでも簡単に出来そうですよね。そして、人事担当者が旗振り役となって、従業員同士が「いいね」を自然に交換するような仕掛けをしていけば、徐々に経営者が理想とする、全員一丸となって事業の発展に取り組む組織へ変容していくのではないかと思います。
まとめます。一般論として、経営者が人事考課制度に完璧さを求めることと、その理由を書きました。次に、完璧な人事考課制度を目指す前に3つの条件を整備しておくことが有効との持論を述べました。そして人事が、「条件③:従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」の実現の旗振り役を担うべきであること。それは、人と人との関係性に着目し、それをより良いものにする「組織開発」の一環として取り組むべきことであること。組織開発は、決して難しく考える必要はなく、まずはお互いの大切にしていることを「いいね」と認め合うことから始めて、その発想を仕掛けに反映することをお勧めしました。
(注)多摩大学大学院「特定課題研究論文」(株式会社M社の研究 急成長企業と労働意欲の関係 自律分散型組織への転換)において、筆者である私は以下の仮説を立て、検証した結果一定の解を導くことが出来ました。
仮説1 転換期において混沌としている会社にとってふさわしい組織の形態として、自律分散型組織がふさわしいのではないか。
仮説2 自律分散型組織においては、社員の労働意欲が根幹にある。社員の労働意欲の向上を図る上で最も有効な方法は、社員の帰属意識を高めることであり、そのための人事制度上の取り組みが必要とされるのではないか。
第一部では、当社の現状を把握しつつ、他社事例から、成長する企業が環境変化によって直面する問題を取り上げ、その克服の方法として、社員の帰属意識と労働意欲を高める人事制度上の取り組みとして人材育成が必要であるとの課題を提起しました。
第二部では、社員の労働意欲をベースとする経営システムへの転換の方法として自律分散型組織を取り上げ、その事例として福岡県北九州市の美容室チェーン、バグジーを取り上げ、同社が社長トップダウンの中央集権と、各店舗が主体となった自律分散の両立に成功していて、社員の動機づけを仕組み化し、持続的に労働意欲を維持、向上している事例を紹介し、これを「中央集権・自律分散一体型」と名付けました。さらに、自律分散型組織の事例として、指揮者をおかないオーケストラ、オルフェウス室内管弦楽団が、「完全自律分散型」であること。また、マネージャーを置かない世界最大のトマト加工業者、モーニング・スター社は「中央集権・自律分散共存型」であることを論じ、いずれも、中央集権と自律分散とを適切に組み合わせ、若しくは取捨選択しながら、所属員の労働意欲を高めることに成功していることが分かりました。そして、そのいずれにおいても、従業員各々の情報(能力、業務、成果指標等)を従業員間で共有する政策的な取り組みがあることを明らかにしました。
第三部では、自律分散的な活動を通じて労働意欲を高める動機づけの方法として、職務記述書の整備と導入を掲げ、当該企業における取り組みの方法を考察しました。
第四部では、第三部で論じた職務記述書の整備と導入に対する意見を当該企業の部門長に求め、概ね協力的な回答を得ました。さらに、益々不確かとなっている経済、ビジネス環境に適応するためには、組織の硬直化を防ぎ、迅速な意志決定と行動を可能とする、トップダウンを、より一層機能するようにしなければならないとの課題を提起し、トップの特命事項を専任で担い、全社横断的に最適な人材を組織し、成果創出に権限を委譲される、プロジェクト・マネージャー制度の提言を行いました。