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知っているようで知らないドイツ人のお話し

前回のブログで、神奈川の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管していた時、ドイツ人出向者Eさんと親しくなったと書きました。彼のおかげで、私たち日本人が当たり前だと思っていたことが本当に正しいのか、深く考える機会を得ました。今回はそのことについて詳しく書きたいと思います。

日本人とドイツ人は共通点が多い、という言葉をこれまで何度も見聞きしてきました。試しにネットで検索すると、「日本人とドイツ人は共通点が多い。どちらも「生真面目」「時間を守る」「倹約」だ」などと、いまだにそんなことを書いている人がいることが分かりました。確かに日本人から見て、ドイツ人は自分たちに似ていると思う一面があるかもしれません。しかし、ドイツ人はどう思っているのでしょうか。私は、ずっと、日本人とドイツ人は全然違うと思っていました。その理由について述べます。

私は大学生の時に1年間、韓国のソウルに留学しました。留学中仲良くなった日本の報道機関のソウル支局の人がいて、私の帰国後、その人のドイツ人の友人が日本に行くので東京の良いところを案内してあげて欲しいと頼まれました。そのドイツ人の女性はCさんという人で、理由は忘れましたが、吉祥寺を案内しました。吉祥寺駅から井之頭公園まで続く道の両側に焼き鳥屋さんが並んでいて、至る所から煙がモクモク出て良い香りがしているのを見て、彼女は「ドイツでは考えられない」と、本当にびっくりしていたのを覚えています。彼女曰く、ドイツでは、公共の場でにおいを発するものを出すことは法律で禁じられており、また、洗濯物も外に干すことが出来ない等、公共のルールは多岐に及び息が詰まりそうだ。日本や韓国は自由でいいなあ、と言っていました。その後私は、新卒で入社した会社を2年ちょっとで退職してしまいまして、せっかく得た自由を有意義に使おうと、再就職までの5カ月間、ヨーロッパをバックパッキングしました。その時、井之頭公園でKさんが言っていた「息が詰まりそうだ」というのはどういうことなのか自分なりに理解したいと考え、ドイツ各地を訪れました。そして、「息が詰まる」というよりも、「ドイツ人の厳格さ」を目の当たりにしました。

ケルンでは、私がうっかりして、厳格に決められている歩行者用道路、自転車用道路の区別が分からず、若干、自転車道路に足を踏み出して歩いてしまったのだと思います。自転車で近付いてきた若者から、ものすごい剣幕で叱られました。私は最初は意味が分からずポカンとしていたのですが、「ルールを守れない人間は死ね」くらい言われていたのかもしれません。また、ロマンチック街道の始点であるローテンブルグに行ったときは、第二次世界大戦で完膚なきまでに破壊しつくされた町が、完璧に中世の街並みに復元されたことを知りました。様々な職人が集まって、古い写真を頼りに、細部に至るまで、完璧に古く見えるように作り直したということを知って、日本だったら全部新しく作り直してしまうだろうな、と想像したことを思い出します。これ以外にも、見るもの聞くもの、何から何まで彼らは、根本的に私たち日本人と全く異なる思考、行動原理を持っていると感じました。しかし、その後ドイツ人と深く交わる機会がなかったため、それが何に起因するものなのか分からずじまいでしたが、ベトナムで、初めてドイツ人と深く交わることになりましたので、私は彼らのことを深く知りたいと考えました。

ベトナムで一緒に仕事をすることになったドイツ人出向者Eさんは、フランクフルト郊外に住む生粋のゲルマン人で、電子部品の技術者でした。彼は正式赴任前、出張でハノイに来て、その時が彼との初対面だったのですが、ハノイを案内しながらいろんな話をしまして、私は、最初からこの人とは気が合うな、という印象を得ました。というのも、私とEさんには共通点があり、お互いの考え方に共感できたからです。私たち二人の共通点とは、

①自分も部下も、無理せず効率的に成果を上げる方法を考えるのが好き
②失敗しない方法をあれこれ考え抜いて実行することを当たり前と思っている
③人の考えや意見を尊重し、それらを活かしてモチベーションを保つことを大切にする

でした。そして、1週間ほどの出張期間が終わり、彼は一旦ドイツに帰国しました。

その後、ドイツの技術提携先の会社から、Eさんの給料情報、出向期間中のその他の処遇について連絡がありまして、私はびっくりしました。まず、Eさんは部長クラスの技術者であるにもかかわらず、給料は当社の取締役かそれ以上の水準でした。さらに、住まいはホテルのサービスアパートメントが指定され、出退勤時、また奥様も含めてプライベートで常時利用できる運転手付きの車を用意するよう求められました。さらに、3カ月に一回、奥様も一緒にビジネスクラスでドイツへ一時帰国できるオプションもあること、ベトナム語の学習機会の提供等々。私たち日本人出向者は、住居の上限額は900米ドル程度(それでも現地の物価と比べればすごいですが)、出退勤も乗り合いバスで、一時帰国は1年に一回エコノミークラスで、給料も日本国内給与は日本国内で日本円で支給し、海外勤務手当としてベトナム通貨ドンで定額支給するという制度でした。私の疑問は、同業者でありながら、どうしてこのドイツの会社はこんなに社員に対する待遇が良いのか。高付加価値で利益率が高い製品をつくっているとは聞いていましたが、こんなことをして本当に大丈夫なのか、逆に心配になったくらいでした。しかしその後、私の驚きは更に度を増していくことになります。

Eさんが奥様と正式に着任する前に、ドイツの会社の組合のメンバーがハノイに来るという知らせを受けました。私は、組合役員が、現地視察を建前にベトナム観光でもするつもりなのかな、くらいに思っていたのですが、想像もしないことになりました。ハノイのノイバイ国際空港に迎えに行って、飛行機を降りてきた組合役員は6名もいました。それぞれ、健康、処遇、環境等担当者が決まっていて、全員、出向者であるEさんと奥様の生活環境について細かくチェックし、改善すべき点があれば要求をするという役割をもっていました。ハノイに到着するやいなや、当社の工場に来社した6名と会議を行いました。3日間の滞在中のスケジュールは既に分刻みで決められていて、同行と説明を求められました。住まいであるホテルのサービスアパートメントの視察を皮切りに、移動手段と通勤経路の確認、会社の食堂と衛生管理の状況、オフィスの環境、デスクや椅子、さらに余暇の過ごし方について、ハノイ市内への移動経路や、レストラン、その安全性等、あらかじめ用意されていたチェックリストに基づいて現地視察が行われました。事前に手配しておいたタクシーの運転が危険だと言われドライバーの変更を求められたり、奥様の日常の生活についても退屈しないような配慮を求められたりもしました。私は、同じ駐在員で、それも社員の身分で、どうしてここまで配慮してもらえるのか違和感を覚えていましたが、後日その理由が分かりました。

ドイツでは、日本における「株式会社」が「有限会社(GmbH)」であり、少し古いですが2014年のデータでは、ドイツにおける「株式会社(AG)」2,320社に対して、「有限会社(GmbH)」は73,036社と圧倒的に多く、一般的です。ちなみに最も多いのが「個人企業」で569,699社となっています。ドイツの技術提携先の会社もはこの「有限会社(GmbH)」でした。さらに、「有限会社(GmbH)」は、取締役会、社員総会(組合)、監査役会(設置は任意)で構成されていて、最高意思決定機関は「社員総会(組合)」であり、その権限はすべての事項(年度決算書の確定、利益処分、取締役の選任・解任、経営管理の監査及び監督等)に及び、その決議はすべて社員総会(組合)で行われると、法律で定められています。つまり、組合代表者は、経営責任者であり、日本のような労働者の権利を代弁し会社に対して団体交渉を担う機能とは全く異なるということです。ドイツ人出向者Eさんが、ベトナムで勤務し最大限の成果を発揮できるような環境を整えるのは、会社が果たすべき当然の責務であり、それが社員総会(組合)の意志に基づくものであることを知り驚いたのと同時に、仕事のことだけ説明を受けて、スーツケースひとつで取り敢えず赴任させて仕事に就かせることも多い日本の会社とは、労働に対する思想、哲学が根本的に異なることを思い知らされました。尚、私の友人で、長年オランダの航空会社で勤務した方から聞いたのですが、その方は、福岡~オランダ(アムステルダム)路線が開設されるにあたり、成田から福岡に転勤となり、福岡の責任者を務められました。そこで、福岡にオランダからクルーを迎え入れるにあたって、事前に本社から組合メンバー複数名が福岡に来て、ホテルや食事の環境、空港からホテルまでの移動経路、余暇の過ごし方などきめ細かくチェックをされたと言っていました。人事の世界では、ジャーマン・ノルディックという言葉があり、アメリカを中心とする資本家優位の労働政策とは一線を画す、労働者の権利を最大限保護する労働法をもつ国々として、オーストリア、ドイツ、ルクセンブルグ、オランダ、北欧諸国があり、日本でも研究の対象となっています。残念ながら日本は、その歴史的経緯からかアメリカの影響を強く受け、終身雇用と長期的な成果主義を大切にしてきた日本の労働政策も遠い過去のものとなりつつあります。

組合代表者がドイツに帰国し、いよいよEさんと奥様がハノイにやってきました。Eさんは知識、経験、士気がいずれも高く、とても頼りがいのある方だと思いました。奥様も気さくで私の妻ともすぐに打ち解けて仲良くなりました。さあ、あとは当社社員とEさんとが一致協力して合弁事業を軌道に乗せるだけです。しかし、Eさんが着任して1カ月ほど経過した頃から問題が起き始めました。それは、Eさんと日本人出向者達との間で、仕事の進め方に対する考え方の違いから、双方に不信感が芽生え始めたのです。特に、Eさんの悩みは深刻で、日本人出向者達との意識のギャップは、自分が、日本語ができないことが原因かもしれないなどと考え始め、実際に日本語を勉強し始めるなど努力していました。しかし、しばらくするとEさんは私に対して、日本人出向者達に対する愚痴を言うようになりました。その内容は、「どうして日本人は綿密な計画なく安易に仕事を始めてしまうのか」とか、「どうして日本人はきちんと結果を検証せず、必要な対策を講じないまま次の仕事にとりかかってしまうのか」や、「どうして日本人はベトナム人社員に仕事の負荷をかけて残業させることを良くないことだと思わないのか」等々。私は、Eさんに、日本人一般の仕事の癖について理解してもらえるよう説明を尽くしました。しかし、それでも尚、Eさんの疑問と憤りは大きくなる一方でした。結局、私はEさんがベトナムにいる間に退職してしまいましたので、Eさんご夫妻と私たち夫婦で食事をしたことが最後の思い出です。その時のEさんの残念そうな表情は今でも忘れられませんし、なぜ、もっときちんとEさんの悩みに向き合ってあげることが出来なかったのかという後悔があります。

次回のブログでもEさんのことについて書きたいと思います。

従業員ファーストの本当の意味

神奈川県の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管しました。それまで何回か海外勤務をしたので大抵のことには驚かない耐性は備えているつもりでしたが、ベトナムで経験したことはそれまでの海外勤務経験を一度に上書きするくらい強烈な体験でした。すべての体験を一度に書くことは難しく、また、ストレートに表現することが難しい微妙な内容が多く含まれますので、これから何回かに分けて工夫して書いていきたいと思います。今回は、その中でも数少ない、嬉しかった出来事について書きたいと思います。

前々回のブログで、これまで私は、尊敬する経営者の方々、また、お客様から「ありのままの自分」を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回したことがあると書きました。その1回がベトナムでの勤務中の出来事でした。電子部品メーカーのベトナム現地法人の人事総務を主管することになり、2013年の6月に首都ハノイの郊外にある工場に赴任することになりました。前任者から引き継いだのは、50名ほどいた日本からの出向者の対応がメインで、特に、食事の件は重要でした。というのは、この工場では、日本人出向者向けの食堂で日本食が提供されていて、日本人出向者からみると、人事総務は食事メニューの希望を聞き、まずいとか、量が少ないといったクレームに対応する人と認識されていたのではないかと思うからです。さらに、日本人出向者は、ベトナム語ができない人たちがほとんどで、会社の一歩外に出るとコミュニケーションが取れない赤ちゃん同然でしたので、その移動に際しては、平日、休日問わず人事総務が車を手配してあげる必要がありました。ベトナムでは日本のように計画通りに進まないことが当たり前であるにもかかわらず、時間通りに車が来なければ即、私の携帯にクレームの電話が入りました。空港への出迎え、見送りが深夜、早朝になることもあり、都度、私が対応していましたので、着任当初は気が休まる余裕が全くありませんでした。そのような中でも、私には、人事総務としてなすべきことは、現地採用するベトナム人社員の対応であり、ひそかに日本人出向者に関わる業務は必要最小限にする、という目標をもっていました。部下を束ね、協力会社に厳しく指導をし、それでも改善されない場合は契約を打ち切る等、多少強引なこともしましたが、その成果はすぐに表れ、突発的トラブルは減り仕事は安定していきました。

私は、着任当初より、前任者から引き継いだ既定路線である、「人事総務の役割=日本人出向者へのおもてなし」というみんなの認知を変える必要があると考えていました。その背景として、当時、某韓国企業からスマホやタブレットに使用する電子部品の注文を受注しまして、生産能力を高めるために現地採用のベトナム人従業員を増員し、2,000名に迫るまで一気に拡大させる必要性が生じており、人事総務はその実現に大きな責任を負っていたからです。従業員が増えれば、当然予想しない新しい問題が次々に発生するはずです。それらを速やかに解決する対応力も備えておく必要があるため、ある程度先(半年~1年程度)を見越して、人事総務機能のレベルアップと標準化を同時に実施するという難しい状況になると予想していました。そこで、人事サイクル(採用~配置・労務~人材育成~評価~処遇)の各段階における課題を抽出し、同時に、それらを網羅的に取り組むマップをつくって、そのマップに従って、自分の頭の中で日々、詰め将棋のように駒を進める作業を積み重ねていきました。そのような思考と行動をしていることは日本側の本社も、ましてや日々顔を合わせる日本人出向者は全く気付かなかったと思います。彼らに見せる私の顔は、相変わらず彼らの考える「日本人出向者をおもてなしする人」でしたから。しかし、そんな私の仕事が突然スポットライトを浴び、認められる出来事が意外なかたちで訪れました。

前述の通り、ベトナム工場のメイン顧客は某韓国企業で、同社のスマホとタブレット向け電子部品の供給が主たる事業でしたが、チャイナリスクを避けたい企業が次々とベトナムに進出する中で、それまで取引のなかったお客さんからの引き合いも増えていきました。特に、自動車向け電子部品は有望で、自動車電装系メーカーからの引き合いが増え、彼らが取引条件とする基準を当社が満たしているか否かを判定する「工場監査」を受ける機会が増えていきました。工場監査は通常2つの視点で行われます。1日目は、当社が認定を受けているISO(国際品質基準)通りに、工場の全工程の作業標準書が整備されているかのチェックが行われます。2日目は、整備された作業標準書通り実際に現場で作業が行われているか、お客さんが製造ライン等を歩きながら実地でチェックします。そして、3日目は、質疑応答と総括が行われて、計2.5日ほどで行われるのが一般的です。日系の名だたる大企業数社からは、ほぼ同じような方法で監査を受けました。毎回、製造、技術視点での監査でしたので、私のような人事の人間が監査の席に呼び出されることは皆無でした。製造や品質保証部門の管理者(日本人出向者)は人事総務の仕事は、監査で来社されるお客さんの昼食を提供してくれていればよい、くらいに考えていたと思います。

ちょうど同時期に、私たちの会社がドイツの同業メーカーと技術提携することになりました。このドイツの会社は、技術力と品質に定評がある自動車向け電子部品の専業メーカーで、彼らの製品は、名だたるドイツの高級車に搭載されていました。そして、ベトナムの工場内に、私たちと技術提携先のドイツの会社と合弁で自動車向け電子部品製造の合弁会社を立ち上げることになり、ドイツからお一人出向者を受け入れました。この方と私はとても気が合いまして、彼の眼を通して私たち日本人が陥りがちな考え方や仕事の癖を気付かせて頂きました。

ドイツの会社との合弁会社の設立により、ドイツを代表する国際的な某電装メーカーから引き合いがあり、監査を受けることになりました。私はいつもの監査の時と同じように、お客様の宿泊先のホテルから当社までの車の手配をしたり、極力口に合うような食事のメニューを考え、時間通りに温かい食事が提供できるように監督したり、会議室で提供するコーヒーやお菓子を手配し、出来る限り監査がスムーズに、円満に進むように裏方に徹していました。

監査2日目が終わり、3日目の朝、私が出勤し自席に着くやいなや、品質保証部の責任者が慌てて私のところにやってきて、「お客さんが監査の締めくくりに人事責任者のプレゼンと質疑応答を求めている。対応を準備して欲しい」と言われました。その人も、なぜお客さんが会議に、それもクロージングで人事と話しをしたがっているのかさっぱり分からない様子でした。私は、取り急ぎプレゼン資料を用意して午後一の会議に出席しました。名刺交換をして分かったのですが、お客さんは3人で、ドイツ本社の品質保証部門の取締役、調達部門のディレクター、アジアパシフィック本部(シンガポール)の責任者でした。

私は、まずベトナムの労働市場の現状(有効求人倍率、失業率、賃金上昇率等)について説明し、経済成長率と照らして今後の見通しについて説明をしました。続いて、当社の採用人数と採用方法、離職人数と離職率、離職引き留め策、労働組合活動と日常的な労使コミュニケーションの方法、また、労務問題発生時の対応方法について説明しました。さらに採用後の研修と配属先決定方法、管理者の育成と課題、人事考課と昇給昇格の連動、人件費コントロールの方法、人事制度全般の課題感について一気に説明しました。最後に、近い将来起こり得る労務管理上のリスクについて正直に説明してプレゼンを締めくくりました。

お客さんからは、私の説明内容一つ一つについて熱心に質問を受けまして、さらに丁寧に回答していくにつれて、最初は厳しかったお客さんの表情も次第に和らぎ、場がなごやかな雰囲気に包まれました。そして、クロージングの発言として、品質保証部門の取締役の方からだったと思うのですが、「大西さんのプレゼンは素晴らしかったし、私たちの質問に対する回答も的確でとても安心しました。大西さんがこの工場で人事をされている限り安心です」と言っていただきました。その場には、当社の社員が10名ほど同席していました。英語ができない人が多かった、という理由もあると思うのですが、それ以上に、人事のことについて、聞いたことも考えたこともなかった人ばかりだったからでしょう。また、私が、日本人出向者のおもてなしをしているだけと考えていたのでしょう。なぜお客さんが喜んでいるのかさっぱり分からず終始ぽかんとしていた様子が忘れられません。

私は、当たり前のことをしたまでで、そこまで認めて頂けると思っていなかったのでとても嬉しかった半面少し拍子抜けしたのですが、ふとお客さんに聞いてみたいことが思い浮かびました。

私「これまで日本のお客さんから幾度となく監査を受けてきましたが、人事にプレゼンを求められたのは初めてです。どうして、監査の締めくくりが人事だったのですか?」

お客さん「人事が最も重要だからに決まっているじゃないですか。製造や品質の標準書を確認して現場の見学をしても、それは過去の取り組みの結果を確認するだけで監査として不十分だからです。この会社と取引をしても良いかは、将来にわたって、高い品質の製品を安定的に供給してもらえる、という確認ができないと判断できません。そして、将来を決めるのは、設備や仕組みではなく、従業員の存在、仕事ぶりだけなんです。だから、その従業員のことを最もよく知る人事の責任者に話しをしてもらうのですよ。」

私は、お恥ずかしながら、このお客さんの話しを聞くまで、人事が何のために存在するのかを明確に説明することが出来なかったと思います。本当に目からうろこが落ちた瞬間でした。そして、この日以降、ドイツの提携先企業からベトナムに来ていたドイツ人出向者Eさんと私の関係がぐっと近くなりました。彼を通じて気付かせてもらった様々なことは次回のブログで書きたいと思います。

人事考課制度に対する経営者の万能感

私たち人事担当者が最も頭を痛めるのが「人事考課制度の設計」ではないかと思います。その理由は、経営者は、一般的に人事考課制度に万能感を求める傾向があり、この要求に応えることが人事担当者として当然の務めと思われてしまうからです。経営者が持つ人事考課制度に対する万能感とは、制度さえ導入すれば、従業員の能力、成果、意欲等、諸要素を完璧に明らかにすることが出来て、さらに、誰が評価しても同じ結果になるような信頼性が高い、誰一人としてその結果に異を唱えない、公平公正が担保されたものであるべき、という感覚です。人事考課の結果に基づいて人件費を適性に配分し、従業員に不平不満を一切生じさせないような、完璧な人事考課制度をもつことに、経営者がこだわるのは当然のことだと思います。しかし、人事考課制度の設計運用の実務を担当する人事担当者の身としては、この要求に応えることは本当に難しいのです。果たして、そのような万能な制度をつくることは出来るのだろうかと私は考え続けてきました。

人事業務、また、社会人大学院での学び(注)を通じて、私はある結論に達しました。それは、理想の人事考課制度を運用するためには、その大前提として以下の3つの条件を整えておく必要があるということです。

①従業員と共有したい思いが明確になっている(共通善としての事業の目的と目標の言語化)
②従業員に事業の目的と目標の説明を尽くして納得感が醸成できている
③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている

①は経営者、②はライン長、③は人事が、それぞれ役割分担して取り組みます。ポイントは、「従業員起点で発想すること」そして、「組織開発に真剣に取り組むこと」です。

人は誰でも、行動前に「発想」します。そして、人は、それぞれ異なる「発想の起点」をもっています。私が考える「発想の起点」とは、「意図」と「願い」です。これらは、その人の人間観、世界観、宇宙観、宗教観等に影響されますので、発想と行動はおのずとパターン化していきます。そこで、これからは、これまでのパターン化した発想と行動を一旦脇に置いて、「従業員だったらどう思うか」という視点から発想、行動することが有効だと思います。その理由は、「不可逆的な社会の変化」があるからです。私が考える「不可逆的な社会の変化」とは、

「経営者が信じるたったひとつの答え(例:売上・利益の限りない増大)を基準にして中央集権的に組織をコントロールする時代から、あらゆる情報にアクセスできて自ら妥当解を出し得るようになった従業員に権限を与え、その考えと意欲を最大限発揮できるような自律分散的組織への変化」

です。「従業員起点で発想する」とは、好き嫌いに関わらず、全ての組織が無視することができない「時代の要請」なのです。

「組織開発」とは、人と人との関係性に着目し、それをより良い状態にする取り組みのことです。一方、「人材開発」とは、その人の能力、意欲を高めて活躍を促進することですので、両者は似て非なるものです。従来、日本の企業文化では、組織開発は現場力に委ねられてきました。社会の隅々にまで、従業員間の関係性を良好に保つ取り組み(レクリエーション)が慣習的に行われてきましたが、近年、様々な要因で機能しなくなってきました。そこで、多くの企業で、「組織開発」に政策的に取り組む必要性が認識されるようになっています。私は、組織開発は人事担当者が担うのが相応しいと考えています。その理由は、採用~配置・労務~人材開発~評価~処遇という役割を通じて、従業員一人一人の多面的な情報を知り得る役割を担っているからです。ポイントは、人事担当者だからこそ知り得る情報を、どのようにして組織開発に活かすのか、ということです。

そこで、前掲で、理想の人事考課制度の運用の条件として述べました、「③従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」に対して、人事担当者が担うべき役割について書きたいと思います。

司馬遷が、前漢の時代に著した中国の歴史書「史記」にある「刺客伝」に、「士為知己者死」(士は己を知る者の為に死す)という逸話があります。「立派な男子であれば、自分の真価をよく知ってくれて、認めてくれた人のためなら命を惜しまず死んでもよいと思うものだ。」という意味です。戦国時代の晋に予譲という人がいて、かつて仕えていた恩人である智伯の仇を討つときにいった言葉が、「士は己を知る者の為に死し、今、智伯は我を得る」だったそうです。「命を惜しまない」というのは、現代風になおせば、一個人の利益や損得を超えて・・・」という程度に表現の内容をやわらげて受け取るのが適切でしょう。私は、電機機器メーカーの人事部で勤務していた時に、管理職研修にお招きした講師Tさんから、部下との信頼関係を築く秘策としてこの言葉を教えて頂き、以後、この言葉を行く先々で出会う方々と共有しました。同時に、私なりの方法で、簡単にこの言葉を実践する方法も紹介しました。それは、その人が大切にしていることを「いいね」と受け入れて認めてあげる、というシンプルな方法です。例えば、部下が「フィギュア」のコレクターだったら、たとえ自分が全く興味が無かったとしても、関心を示し、心から「いいね」と言ってあげるのです。この効果は絶大です。その人の本当の価値を認めてあげるというと少し難しい感じがしますが「いいね」を伝えることでしたら、いつでも、どこでも簡単に出来そうですよね。そして、人事担当者が旗振り役となって、従業員同士が「いいね」を自然に交換するような仕掛けをしていけば、徐々に経営者が理想とする、全員一丸となって事業の発展に取り組む組織へ変容していくのではないかと思います。

まとめます。一般論として、経営者が人事考課制度に完璧さを求めることと、その理由を書きました。次に、完璧な人事考課制度を目指す前に3つの条件を整備しておくことが有効との持論を述べました。そして人事が、「条件③:従業員がお互いを理解し合う社内環境になっている」の実現の旗振り役を担うべきであること。それは、人と人との関係性に着目し、それをより良いものにする「組織開発」の一環として取り組むべきことであること。組織開発は、決して難しく考える必要はなく、まずはお互いの大切にしていることを「いいね」と認め合うことから始めて、その発想を仕掛けに反映することをお勧めしました。

(注)多摩大学大学院「特定課題研究論文」(株式会社M社の研究 急成長企業と労働意欲の関係 自律分散型組織への転換)において、筆者である私は以下の仮説を立て、検証した結果一定の解を導くことが出来ました。

仮説1 転換期において混沌としている会社にとってふさわしい組織の形態として、自律分散型組織がふさわしいのではないか。

仮説2 自律分散型組織においては、社員の労働意欲が根幹にある。社員の労働意欲の向上を図る上で最も有効な方法は、社員の帰属意識を高めることであり、そのための人事制度上の取り組みが必要とされるのではないか。

第一部では、当社の現状を把握しつつ、他社事例から、成長する企業が環境変化によって直面する問題を取り上げ、その克服の方法として、社員の帰属意識と労働意欲を高める人事制度上の取り組みとして人材育成が必要であるとの課題を提起しました。

第二部では、社員の労働意欲をベースとする経営システムへの転換の方法として自律分散型組織を取り上げ、その事例として福岡県北九州市の美容室チェーン、バグジーを取り上げ、同社が社長トップダウンの中央集権と、各店舗が主体となった自律分散の両立に成功していて、社員の動機づけを仕組み化し、持続的に労働意欲を維持、向上している事例を紹介し、これを「中央集権・自律分散一体型」と名付けました。さらに、自律分散型組織の事例として、指揮者をおかないオーケストラ、オルフェウス室内管弦楽団が、「完全自律分散型」であること。また、マネージャーを置かない世界最大のトマト加工業者、モーニング・スター社は「中央集権・自律分散共存型」であることを論じ、いずれも、中央集権と自律分散とを適切に組み合わせ、若しくは取捨選択しながら、所属員の労働意欲を高めることに成功していることが分かりました。そして、そのいずれにおいても、従業員各々の情報(能力、業務、成果指標等)を従業員間で共有する政策的な取り組みがあることを明らかにしました。

第三部では、自律分散的な活動を通じて労働意欲を高める動機づけの方法として、職務記述書の整備と導入を掲げ、当該企業における取り組みの方法を考察しました。

第四部では、第三部で論じた職務記述書の整備と導入に対する意見を当該企業の部門長に求め、概ね協力的な回答を得ました。さらに、益々不確かとなっている経済、ビジネス環境に適応するためには、組織の硬直化を防ぎ、迅速な意志決定と行動を可能とする、トップダウンを、より一層機能するようにしなければならないとの課題を提起し、トップの特命事項を専任で担い、全社横断的に最適な人材を組織し、成果創出に権限を委譲される、プロジェクト・マネージャー制度の提言を行いました。

人から言われたくない嫌いな言葉が持つ力

私の曽祖父は明治5年に倉敷で生まれました。両親が他界し、山陽本線が倉敷まで延伸するのを待って二十歳の時に小田原に出て洋服職人になりました。明治35年に小田原を襲った高潮を機に東京に出て、独立して日本橋区北島町(今の八丁堀の交差点付近)で洋裁店を営みましたが、大正12年の関東大震災で被災し、翌年他界しました。祖父は明治45年(同年8月1日に大正に改元)、日本橋で生まれ、関東大震災で焼け出されて小田原に越し丁稚奉公に出されたようです。若いころは丹奈トンネル工事に動員されて危険な目に遭ったり、陸軍に徴兵されてパプアニューギニアで負傷し九死に一生を得たりして苦労しました。戦後は、丹沢山系から切り出した木材を横浜に運搬するトラック運転手として生計を立てつつ印刷のブローカーとなり、運搬した木材を使って横浜に工場を建て印刷業を起業。商売は順調でしたが、私が小学校1年生だった昭和50年に胆石の手術が原因で63歳で他界しました。父は横浜生まれ、横浜育ちの生粋の横浜っ子で、物心ついたころには祖父の仕事も安定したのでしょう。何不自由なく育ったと言っています。そんな父と話していて気付いたことがあります。それは、「人から絶対に言われたくない嫌いな言葉が持つ力」についてです。

何が原因か忘れましたが、あるとき友達から「おまえ、せこいね」と言われ嫌な気持ちになりました。私も父と同じく、生まれも育ちも横浜なのですが、どうも、私だけでなく横浜っ子というのは「せこい」という言葉に敏感に反応するのかもしれません。そう気づいたのは、福岡に来て、福岡っ子(一般的に博多っ子と呼ぶのかもしれませんが)は、「せこい」よりも、「ダサい」という言葉により敏感に反応するようだと分かったからです。

以下は、私の私見であることをお断りして書きます。福岡市内(博多、天神、大名)を歩いていると、男女、年齢問わず外見(おしゃれ)に気を使っている人が多いと感じます。私見ですが、夏の風物詩、博多祇園山笠は男の格好良さを競う祭りのように見えますし、博多美人は、素の美しさもあるのでしょうが、それをもっと美しく見せる方法に長けているからこそ全国的に有名なのだと思います。ある時、福岡の職場で同僚の女性社員にそのことを話したら、「子供のころ母親に、いつ、どこで、どんな人と会うか分からんけん。いつでもきれいにしとかんといかんよ、としつけられた。私だけではなく、土地柄として身だしなみには気を遣うと思う」と説明されました。そこで、福岡の人たちはどんな言葉にネガティブ反応するのか急に知りたくなりまして、「せこい」と「ダサい」のどちらを言われるとより嫌な感じがするか、何人かに質問してみました。結果は、どちらも嫌だが、「ダサい」の方がより嫌だ、という人が多いということが分かりました。これは、「せこい」にネガティブ反応する私にとっては驚きでした。試しに、横浜に帰省した際、父親と旧友にも同じ質問をしたところ、あっさり「せこいに決まってるでしょ」との反応でした。横浜も福岡も同じ港町。来るものを拒まず、新しいもの好きが集まるという共通点があると思うのですが、どことなく雰囲気が違うと私が感じるのは、そういう「その土地で共有されている文化の違い」が影響しているからかもしれません。私は、これまで、東京→北陸→シンガポール→台湾→中国→神奈川→宮城→ベトナム→福岡→大阪→大分と、次々と仕事場を変えてきました。いつもそうでしたが、新しい土地の生活開始に際しては、関連する本を読んだり、人から話しを聞いたりして、その土地の人たちが大切にしていること、守ってきたこと、嫌がること等の把握に努めました。よそ者であることをわきまえ、謙虚にその土地の文化を尊重しなければ決して良い人間関係を築くことは出来ず、良い人間関係がなければ仕事上の信頼関係は築けません。そして、信頼関係がなければ、仮に私が、求められる期待と役割に十分に応えることが出来る高い能力を持っていたとしても、それらを満足に発揮して成果を上げることは出来ないでしょう。これを書いている今も数々の失敗の場面が思い浮かんできます。自戒の念を込めて。。。

さて、話しが遠回りしましたが、私には、実は「せこい」よりもっと言われたくない言葉がありまして、それは、「使えないやつ」という言葉です。

私は、中学校で友達に誘われて吹奏楽部に入り、寝ても覚めても楽器演奏に熱中しました。3年生になって、高校になったら吹奏楽コンクールの全国大会に出場したいと真剣に考えるようになり、当時、神奈川県で全国大会に出たければ進学先の選択肢は2つ(私立男子校、県立共学校)あったのですが、バンカラな雰囲気に憧れて私立の男子校に進学することに決めました。この高校は神奈川県で最も歴史の古い私立の男子校で、吹奏楽部も全国で2番目に古く、伝統を重んじる部活でした。(現存する最古の吹奏楽部は旭川商業。)もともと楽器演奏が好きだったので、朝から晩まで続く練習は苦になりませんでした。一方、しんどいと思ったのは非常に厳しい規律の方で、先輩の指示に対応できないと「使えないやつ」とひどく叱られ、ダメの烙印を押されました。恩師である顧問の先生も、「この部活に3年いれば、勉強ができないおまえたちでも立派に社会に通用する人間になる」と明言しておられましたし、今考えると部活動の真の目的は、演奏してコンクールで勝つことではなく、「使える人間を養成すること」だったのではないかと思います。

高校3年間の強烈なすりこみの成果でしょう。私は長く無自覚でしたが、社会に出てからもずっと「使えないやつ」と思われないよう、言われないようにしてきたことに気付きました。それが、ある時はポジティブに頑張る原動力にもなりましたし、またある時は物事をネガティブに捉え過ぎて視野狭窄に陥る原因にもなりました。加えて、人事という仕事柄でしょうか。自分がやっていることが意味あるのか、それともないのか、なかなか判断ができないことに悩みました。人事の仕事は、やって当たり前、うまくできて当然、と思われてしまうところがありますから、良い仕事をしても言葉によるフィードバックを受けている人は案外少ないかもしれませんね。

そんな私ですが、ありのままの自分を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回だけしたことがあります。四半世紀でたった2回の、尊敬する経営者の方々、また、お客様との忘れられない思い出については、改めて書きたいと思います。

奥深い「採用」の話し

私はいま、企業から委託された人事の仕事をしています。経営者の意向に基づいて、人事制度を設計~導入する、という内容です。社外の人間として、客観性に基づいた仕事をすることを心がけています。求められることが、私の経験と他社事例に照らして、経営にとって、従業員にとってプラスにならないと考えられる場合は率直に見直しを意見具申しています。不適切な人事制度を導入してしまうと、結局、「やらなければよかった」ということが起こり得ることを、経営者に説明を尽くしています。

私が仕事を請け負っている企業は、従業員数が20名にも満たない小さな組織です。小さい組織であればあるほど、従業員一人一人が経営に与えるインパクトは大きくなります。これは、スタートアップ企業全般に当てはまることですが、人事考課や報酬制度以前に、良い人を採用できるか否かが企業の成長を決定すると言っても過言ではないと思います。私は、2018年に大阪のIT系ベンチャー企業の人事総務を主管したのですが、その際も、一人の従業員が会社全体に与える影響は大企業、中小企業とは比べ物にならないほど大きいことを痛感しました。だからこそ、経営者は、「ベストな人を採用したい、ベスト以外はだめ」とおっしゃるのだと思います。

しかし現実には、ベストどころか、ベターすら見つけることに苦心します。他社も懸命に良い人を探していて、あの手この手で獲得にしのぎを削っていますから、ピッタリする人になかなか出会えないのは当然です。また、出会えたとしても、求職者視点で明らかに知名度や報酬面で見劣りする会社は「選考辞退」の洗礼を浴び続けてしまいます。いつ出現するかもしれない理想の人を待ち続けて時間の無駄遣いをするのは戦略的ではありません。そこで、私は、理想の人を見つたいという情熱を持ち続けながら、「採用してはいけない人を絶対に採用しない」ことを経営者に提案しています。具体的には、以下のように採用活動の仕組みづくりから始めます。

① 応募が増えない原因(給与水準や選考プロセス)を可能な限り改める           ② 採用媒体(紹介会社・Web広告等)の抜本的な見直し
③ 合否判定ラインを決めてこれに基づいた判定ツール(面接票等)をつくる
④ 選考の進捗を成果指標(KPI)で管理して最適な状態になるよう工夫を続ける
⑤ 面接後、面接官の見立てに誤りが無いかをチェックする適性検査を導入する

仕組みが出来たら、選考を始めます。選考で、私が一番難しいと考えるのは、「面接」です。採用は「面接」に始まり「面接」に終わる、と言っても良いと思うくらいです。基本的な質問、傾聴の技法、マナー等のルールは確立されていて、学べばすぐにスキルが身に付きますが、同じ職種であっても企業によって応募者の傾向が異なるため一般化は難しく、実践を繰り返すことによってしか獲得できない勘のような部分があることは否定できないからです。私も、正解のない中で試行錯誤しながら、自分なりの方法を確立してきました。

たいていの求職者は緊張していますので、まずは笑顔を見せたり、共通の話題をふったりして話しやすい雰囲気づくりをします。これは、求職者への親切ではなく、その人の普段の姿を見るために必要な手順です。緊張が解けてきたら本題に入ります。自社と求人に関する理解度、応募の動機、働くことの意識、どんな職歴を歩んできたのか、前(現)職の給与額、希望給与額、等々を面接票に従って手際よく質問します。職務経歴書、履歴書に書かれていない事実が明らかになったら丁寧にメモします。発言の中で気になることがあったら、やんわりと質問して反応を観察しながら、徐々に水面下に隠れているその人の本質を探っていきます。これを、私は、“三性(知性・理性・感性)の探索”と呼んでいます。

面接のゴールは、三性(知性・理性・感性)の見極め。いずれか一つでもマイナスだと思ったら不合格にする、と教えて下さったのは、私が新卒で就職した半導体関連メーカーの人事部長Kさんでした。前回のブログで、北陸の精密部品メーカー会社に転職し、同社のシンガポール現地法人に赴任したことを書きました。工場の立ち上げが完了し、業務も軌道に乗って、ほぼやることが無くなってしまった私は将来のキャリアに不安を感じていました。そんな中、不思議なご縁がきっかけでシンガポールを離れ、再び、新卒で就職した会社に出戻り(再就職)することになりました。

不思議なご縁というのは、かつての上司Oさんとの再会から始まりました。Oさんは熊本の製造子会社から東京の本社に出向され、1年間ほどご一緒し、仕事の基本を叩きこんでいただきました。私の退職後、東京から熊本に帰任され、ご家族でシンガポールに旅行に来られました。シンガポールの名所を巡り、楽しい時間もあっという間に過ぎていよいよ帰国の前日。Oさんは私の変化を察したのでしょう、「仕事はどうなの?」と質問されました。私は堰を切ったように話し始めました。「転職は後悔していない」などと思ってもいないことを言ったものの、やはり本音が出てしまいました。前職よりもはるかに小さな事業の会社のため想像していたキャリアは望めなくなっていること等々。そんな私にOさんは、あっさり「戻って来ない?」と再就職を勧めてくださいました。全く予想しない言葉で、私はとっさに、「よろしくお願いします」と申し上げることしかできませんでした。Oさんが帰国され、本社の営業部、人事部に私のことが伝わりました。偶然、Oさんの帰国の翌週に営業部の部長代理Hさんがシンガポール出張に来られることになっていたので再会しました。さらに、その翌週には、人事部長Kさんが、またも偶然シンガポールに出張に来られることになっていたので面接をしていただくことになりました。

人事部長Kさんとホテルのロビーで待ち合わせをしました。私が緊張して黙っていると、Kさんは開口一番、「一杯やりながら話そうか」とおっしゃいました。ラウンジでビールを飲みながら、シンガポールでの生活や仕事のことについていろいろな質問をされました。Kさんは、一般的な人事部長というイメージからは程遠い非常にフレンドリーな方で、ざっくばらんにいろんなおしゃべりをしたことを覚えています。ただ、会話の最後に、ちょうどその時に私が悩んでいたスタッフの採用について質問をしたとき、Kさんが真顔になりました。

私「Kさん、面接で良い人を見極めるにはどうしたら良いのでしょうか?」

Kさん「僕は三性を見極めているよ。知性、理性、感性。どれか一つでもマイナスなら不合格」

お酒も回っていたからかもしれません。私の記憶はそこで途切れています。知性、理性、感性の意味を教えて頂いたかどうかも覚えていないことが本当に悔やまれます。しかし、それ以来、数多くの面接を担当しましたが、今でも面接官を務める時には必ずKさんの声が聞こえてきます。そして、自分なりの方法で、求職者の三性を把握しようと試みてきました。

三性の本当の意味は何なのでしょうか。先日、NHKの「100分de名著」という番組を視ていたら、ドイツの哲学者、イマヌエル・カントの「純粋理性批判」が解説されていました。その中で、カントは、人間の目指すべき姿として「感性」と「理性」の調和を著したことを知りました。カントは次のように定義しています。

感性=欲望
理性=道徳

人間にとって生きていく上で欲望(感性)は不可欠です。そして、同時にそれを上手にコントロールする道徳(理性)も不可欠です。カントは同書で知性については触れていませんが、欲望と道徳を、知性(物事を知り、考えたり判断したりする能力)で適切に管理する、とすれば筋が通ります。Kさんに三性のことを教えて頂いて25年経ちましたが、やっと、Kさんがおっしゃりたかったことが分かったような気がしました。

余談ですが、カントは、「自分が決めたことを、自分の意志で実行すること」が人間にとって最高の幸福だ、との言葉を残したようです。一方、経営学者のピーター・ドラッカーは、1954年に刊行した著書「The Practice of Management(現代の経営)」で、MBO「Management By Objectives and Self Control(目標と自己統制による経営)」を提唱しました。日本では“目標管理制度”と訳されて、マネジメントの管理手法として浸透しましたが、ドラッカーが考えたMBOの本来の意義は、「働く人が自ら目標を決めて、その達成に向けて取り組むことでモチベーションを最大化すること」と言われています。ドラッカーがカントの影響を受けたかどうかは分かりませんが、人事の課題で困った時には、古典に解決のヒントを求めることが出来るかもしれません。

シンガポールでの日々

1995年、精密部品メーカーへ最初の転職をしました。この会社は北陸に本社があり、その創業に私の母方の祖父が関係していたことから叔父が役員を務めるなどしていました。その叔父から、会社がシンガポールに電子部品製造に特化した子会社を設立することになり、シンガポールでずっと働きたいと思っている人を探しているのだがなかなか見つからない。挑戦してみてはどうか、と勧められました。もともとシンガポールには営業の支店があって、日本で製造した電子部品を東南アジアに展開する顧客に販売していたのですが、納期や価格の面で競合他社に対して優位に立つためにシンガポールで現地生産することになったのでした。当時、私にはシンガポールに移住したいという個人的な理由がありました。それは、当ブログのテーマからは外れますので詳しくは述べませんが、加えて、新卒で入社した会社で、なりふり構わず仕事をする時期を過ぎて、やや周囲の風景を眺める余裕もできてきたときに、このままずっとこんな生活が続くのかと疑問に感じ始めていたこともあいまって、若気の至りと言いますか、東京での仕事、生まれ育った横浜を離れる決心をしました。

北陸の本社での準備期間を経てシンガポールに赴任しました。シンガポール現地法人の社長は、担当部門で成果を上げ、将来を期待されたKさんが任命されました。当時、Kさんはまだ30歳代後半だったと思います。私は、ロジスティック(資材物流)マネージャー。上司と同僚はみなシンガポール人。工場長のLさん、製造部長のRさん、品質保証部長のTさんで、皆さん26歳になったばかりの私よりもずっと年上の管理職経験者で、私は右も左も分からない小僧のようなものでした。しかし、最初の会議で、工場長のLさんからはっきりと、「大西は管理職なのだから自分で結果を出してください」と言われました。Lさんを飛び越えて日本から一緒に赴任した社長のKさんの指示を仰ぐことは職制上許されませんし、Kさんも私を育成する意図があったのでしょうか。意図的に私との距離を置いていらっしゃると感じていました。

L工場長、R製造部長、T品質保証部長との会議の後、何もない体育館のような工場に立って、電子部品の原材料と完成品を保管する棚や、製品を検品、計量、梱包、出荷するライン。黙々と働く社員の姿を思い浮かべて、不安や恐れと同時に、転職を決めたからには何としても結果を出さなければならないと身震いしたことを覚えています。しかし、社歴も短く、シンガポールのことも分からない、さらに管理職も経験したことのない私は「ないことだらけ」で、同じことをするにも同僚の何倍も時間と労力がかかりミスも連発しました。何人スタッフを採用しても辞めてしまう。スタッフが辞めてしまった穴を埋めるために不慣れな私が自ら包装、梱包するので、異なる製品が混入してお客様のクレームに発展し営業にも文句を言われる。自らお客様に代替品の納品に行くものの、意地悪な担当者に目の前で製品をばらまかれて(同社が製造する電子部品は非常に小さく一袋数千本単位で納品します)、それを素手で拾わされるなどの屈辱的な扱いも受けました。しかし、そんな私の悪戦苦闘を、Kさんはじっと我慢強く、見守って下さっていたと思います。当時の浅はかな私は、そんなこともつゆ知らず、どんどん精神的にも追い詰められて、次第にその不満の矛先をKさんに向けるようになっていきました。

そんなある日、Kさんが工場2階の社長室から降りてきて、私に笑顔で「大西君、これまでよく頑張った。もうそろそろいいだろう」とおっしゃいました。私は、いよいよ限界だと自分でも分かっていたのだと思います。Kさんの一言で、全身から一気に力が抜けたことを覚えています。Kさんは矢継ぎ早に私の管轄である資材物流部門の改善を始めました。スタッフが定着しないのは、作業場にエアコンがないからでした。そこで、梱包部屋をつくりエアコンを取り付けて快適な環境で作業できるようにしたところ離職が止まりました。私の仕事の負荷を軽減し、苦心していたスタッフとのコミュニケーションの課題を一気に解決するためスーパーバイザーを採用し現場監督を任せました。その人はシンガポールPR(永住権)をもつマレーシア人で、時々シンガポール人のスタッフと口論になることがありましたが、徐々にマネジメントも安定していきました。私は、ただKさんの指示に従って実務を担うだけだったのですが、次々と問題が解決し、スタッフも安心して仕事が出来るようになり、お客様のクレームもゼロになっていくことを体感し、あることに気付きました。それは、仕事の成果は「やる気」に左右されるが、その大前提として「知識と経験」が十分に備わっている必要がある、ということです。特に、経験が乏しい若者には、人それぞれ個人差はあるでしょうが、十分な時間をかけて「知識と経験」を蓄えさせること。これは、国境を越えても、またいつの時代でも不変の法則ではないでしょうか。

もう一つ、Kさんについて忘れられない思い出があります。私は資材も担当していましたので、電子部品の原材料となるメッキ処理を施した伸線を、日本の商社から購入する窓口も担っていました。お客様への納期、販売価格に合わせて組まれた製造スケジュール、原価を勘案して、商社に対して納期や価格の交渉をしました。Kさんは、私の、商社担当者に対する交渉が弱く、先方の言いなりになっていると感じたのでしょう。そこに至るまで相当な時間、私に任せてくれていたと思うのですが、ある日、担当の営業マンとの電話会議に参加したいとおっしゃいました。その会議の席でKさんが担当の営業マンに対して発した言葉は今でも耳に残っています。「(営業マンの名前)さん、お客さんというのはね、自分たちがコントロールされていると感じた瞬間に営業を信用しなくなっちゃうんですよ。あなたは自分たちにとって都合の良いようにわが社をコントロールしようとしている。だから、私はあなたを信用しない。もし、これからも当社との取引を望むのであれば、これまでの考え方を改めてください。」と。本質を突く言葉の重みはすごいですね。その日を境にして、この営業マンの態度は一変し、我々が困った時にはギリギリの線で助けてくれる、かけがえのないパートナーになりました。

Kさんには他にもいろんな思い出があるのですが、切りがないのでこのあたりでひとまず終わりにしたいと思います。余談ですが、私には忘れられない部下がいます。エアコンもない、機械の騒音にさらされる梱包作業場で、次々とスタッフが辞めていく中でも進んで残業を申し出て、最後まで私を助けてくれた「メナチさん」という方です。彼女はマレー系シンガポール人でご主人とお子さんがいて、仕事は正確、勤勉で、やさしい女性でした。私が、シンガポールを離れることになった時、私に、「あなたは良いボスでしたよ」と言ってくれました。仕事が拙く、Kさんに助けられてばかり。みんなに苦労をかけ、良いところなどひとつもなかったと反省していた私でしたが、彼女は、決してお世辞ではなく、本当にそう思ってくれていたんだなと伝わってくる眼をしていました。上司と部下の信頼関係が大事、というのは言うは易く行うは難し。本気で、部下のこと、上司のことを大切に思っているか。そういう関係性を保つ努力、工夫をしているか。「メナチさん」の存在と彼女がくれた言葉が、私がシンガポールで得た勲章だと思っています。

経営者の動機と発想の原点

今後、私らしく、また一人でも多くの方に読んでいただけるブログを書くために、私の理想の状態、また、一番満たされる瞬間を確認しておきたいと考えました。そこで、私の友人で、「Sound Souls」の考案者である神川起世彦さんに相談をしました。「Sound Souls」は、ひとり一人が自分の力が入るタイプポータルとロールポータルを各1種類ずつ持っていて、自分がどのタイプかが分かれば、自分が生まれながらに持っている『世界観』、そしてそこから生まれる『才能』や『役割』を知ることができるという理論です。ちなみに、私のタイプポータルは、鎖骨(人や物事の本質に触れることに喜びを感じる。本質を大切にしているため、話の内容よりも話している人の本心を見ていることが多い)。そして、ロールポータルは頸椎(行動レベル、前に進めていき、アイディアを形にしていくために実際に手足を動かしてイメージが形になるよう情報を集めていくのが得意)です。簡単なチェックで両ポータルが分かり、日常生活で簡単に実践でき効果が体感できるので是非お勧めします。

そんな神川さんのサポートを頂いて、私がずっと志向してきたことが分かりました。それは、「人が強み、持ち味を発揮できていない状態を解消する」こと。ポイントは、「強みを発揮する」ことではなく、「強みを発揮できない環境をどうにかしたい」という無意識の動機です。言葉を変えると、「楽しいことを見つける」ではなく、「楽しめない原因を解消する」という感覚が私にはしっくりきます。その結果、私はずっと新しい職場に入るとイキイキしていない人、不機嫌そうにしている人についつい目が向きました。そして、その原因を探索、発見して対処することで、組織が抱える根本的な問題を解決することができると信じ、様々な方法を学び、あらゆる手立てを講じてきました。その根底にはこんな無意識があったことにいまさらながら気づかされました。神川さん、本当にありがとうございます。

では、成功した経営者はどのような無意識の動機をもっているのでしょうか。一般論としては、無から有を生み出す「発想力」や、事業を極限まで大きくしたいという「欲望」が思い浮かびます。

私が仕えた経営者のお一人にNさんがいらっしゃいます。Nさんは、神奈川県の電子部品メーカーをたった1代で株式上場、グループ総勢10,000人の規模にまで成長させた方です。私はこの会社に2011年3月11日の東日本大震災の発生直後の4月1日に入社しました。同社の常務取締役のSさんがNさんについて、「私は経営者になりたかったのだが、Nさんに仕えるようになってそれは難しいことに気付いた。なぜなら、Nさんにはとてつもなく大きな欲望があって、社長というのはそういう資質がないと務まらない。自分にはそれがないから諦めたんだ」とおっしゃっていました。恐らくNさんには事業拡大のあくなき欲望があり、それが成功要因になったことは間違いないと思います。しかし、その後、私はNさんの意外な一面を見ることになります。

それは、私が企画した、「中堅社員向け研修プログラム」の冒頭、Nさんにお願いした講話の内容でした。Nさんがおっしゃるには、ずっと目指してきたのは、事業を拡大させることではなかった、と。日本国内にひしめく競合他社と比較して様々な面で優勢性に乏しかった同社を倒産させないために、仕方なく中国に進出したと言われたのです。当時、国内で確か300名程度だった規模の会社が、中国でいきなり1万人規模の工場を次々と立ち上げる離れ業をやってのけたのは、決して、事業拡大への野心ではなく、会社を存続させるために仕方なく選択した手段だったと淡々と話しをされるお姿が今でも目に焼き付いています。一代でここまで事業を拡大された方の野心はどれほどのものかを聞けることを期待していたものですから、研修参加者一同、ちょっと拍子抜けしたのですが、それと同時に私は大きな気づきを与えて頂きました。それは、「人には、それぞれ全く異なる動機と発想がある」ということです。経営的な意思決定、行動は同じでも、その原点をひとくくりにして語ることは出来ないということです。Nさんは、「私は常にマイナスの状況からの挽回を発想し意思決定してきた。それが当社の社風になっている」とおっしゃいました。まだ若い中堅社員がその言葉の真意をどこまで理解できたかは分かりませんが、私は、Nさんの動機は「生き残り」。そして、発想の原点は「弱みを強みに変えていくための一発逆転の方法論」であると解釈しました。これを、常人では決して持ちえない欲望と不屈の意思で成し遂げられたNさんに関するエピソードは他にもたくさんありますので、改めて記したいと思います。

ブログを始めるにあたり

これまで、自分の経験を人に伝えることを避けてきたように思います。ずっと昔から、自分の感じていること、考えていることは人にはわかってもらえないだろうと感じていたからかもしれません。しかし、連日報道される、コロナウィルスの感染、また毎年のように発生する深刻な豪雨被害を目にして、いよいよ、私たちが生きていく未来は過去の延長線上にはないのだなと痛感した時、いまこそ一旦立ち止まり、私が歩んできた人生を振り返り、その時々で私が観たこと、感じたこと、取り組んできたことを、言葉に残したいと考え始めていました。

そのような中、長年大変お世話になっているヴィーナスアソシエイションの手塚さんご夫妻のお宅を訪問して、いつものように、おいしいお食事をご馳走になっていた時、「大西さんの経験をブログに書いてみてはどうか」と勧められました。手塚さんは、これまで一貫して、自らの理念

「人は、断じて欠点だらけの無力な存在ではない。自分らしく輝いて生きるに値する充分なちからと能力を兼ね備えており、その可能性は想像をはるかに超えて大きい。」

を信じ、その理念の普及に人生をかけて取り組んでこられた本物の人です。私のような者は、手塚さんの前に出ると、いつもタジタジになってしまうのですが、この日はちょっと違いました。自分の経験を文字で残したいと考え始めていたから。早速、手塚さん「やります」とお返事したところ、ヴィーナスアソシエイツさんのH.Pに私のブログを開設していただきました。

さあ、あとは私が書き始めるだけ。では、ブログのテーマを何にするか、です。

私は、これまで約25年間、「人事」という仕事をしてきました。「人事」はやりたくてやったわけではなく、当時勤めていた会社の役員の方に、なかば無理やりやらされたものです。それを、25年もやることになってしまいました。私が考える「人事」の仕事とは、経営の重要戦略である人材に関する様々な機能を担います。教科書的な堅苦しい言葉で言えば、採用→配置・労務→育成→評価→処遇のサイクルをムリ・ムラ・ムダなくスムーズに回す知見と仕事能力が求められます。

演劇の世界に例えると、経営者がスポンサーや監督で、役者さんが従業員、人事は脚本を書いたり、舞台効果が高まるように演出したりするような仕事です。役者さんは、表現者として与えられた役割を懸命に果たそうとします。そして、脚本家や演出家は、演劇が目指すゴールに到達できるように、スポンサーや監督の意向を理解して、役者さんに良いパフォーマンスをしてもらえるように導きます。

そして、脚本家や演出家の人事は、役者さんである従業員の見えない場所で、日々、スポンサー、監督である経営者から発せられる生々しい言葉のシャワーを浴び、その期待に応えようとします。そのようなことを繰り返しながら、人事は、自分は経営者にはなれないけれど、だんだんと、理想の経営とはなにか、ということを考え始めます。目の前のリアルな経営者と、架空の経営者像を比較してギャップを冷静に分析したり、うれしくなったり、またある時は落ち込んだりします。そんな一喜一憂に疲れると感情のボリュームを弱める努力もするのですが、なかなか割り切れないことが多い。それは何故かというと、人事を拝命する人は、従業員という仲間のために役に立ちたい。その人たちがハッピーに仕事をしてもらいたいと心底願う心優しい人が多いからだと思うのです。労使の利害が対立する時、経営者は人事に経営のために働くことを求めます。しかし、人事も所詮は雇用される従業員なのです。だからこそ、会社の持続的な発展のために、経営者、従業員双方にとって最善の方法を模索しますし、非常に深い思いから発せられる訴えもします。実現が難しくても、ひたすら良い経営をしていただきたいとの祈りを深くします。

私はこれまで、国内外、上場非上場、業種が異なる19の会社で所属して異なる経営者に仕えてきました。日本は転職回数は不利な社会ですが、延べ20名の経営者の下で人事の仕事を担った私だからこそ語ることができる知見があるのではないかと思います。今振り返ると、私は常に一生懸命で、強い思いをベースに行動して来ましたので、周囲の仲間からするとその仕事ぶりはやや強引に映ったかもしれません。本来、組織人としては失格だと思います。しかし、その時々に生じた人事のテーマに真っ向勝負したからこそ、月日は流れても、その時々の経営者の選択、発した言葉、行動は今も深く、耳と瞼に刻まれています。それら、楽しかったこと、悲しかったこと、怒り、憤りなど様々な感情が蘇る思い出を「或る人事担当者の回想録」としてブログにしたためることにしました。また、その時々に取り組んだ具体的な人事施策(人事制度設計や人材開発の取り組み等)ついても、出来る限り整理して書き出したいと思います。多くの、経営者の皆さん、人事の志を一にする仲間に読んで頂けるような面白いものを書きたいと思います。

最後に、私に様々な仕事の機会と生き方の影響を与えて下さった経営者の皆さんへの感謝を込めて。