元気と勇気と信頼の回復のために

日常の中のロゴス 5.教育と日常哲学

第5章 教育と日常哲学

かつて私は人が嫌いだった。
人は、ずるがしこくて悪くて嫌な奴ばかりであり。
人間関係は食うか食われるかの闘いだった。
そんな中で、やさしさや思いやりは、間抜けなお人よしの弱みだと思って抑圧してきた。
そして、一番嫌いだったのは、そんな私だった。

だから、私の人間関係はボロボロだった。
時に居丈高、操作的であり、時に対人恐怖症的であった。

粋がって強がっているくせに、いざ人前に立つと、赤面し、いやな汗を止められず、何も言えなかった。
人の話だっていつもうわのそらだった。自分の心の中の暴風雨で手いっぱいであり、受け止める隙間なんて少しもなかった。

そんな私も、少しずつ少しずつ変わってきた。

家族に恵まれ、お客様、友人、仕事、本との出会いに恵まれて、私の中の呪いが、少しずつ少しずつとけて、楽になってきた。

大学時代、大やけどをした直後で両手が異形な斑になっているにもかかわらず、大学に受かったとはいえ、高校時代遊び惚けて基礎力をすっかりと失ってしまっていたにもかかわらず、時給が高いからと言って、がらでもない塾の英語の先生になった。
むろん、教え方はへたくそであり、加えて、間違えばかり教えていた。
当然、嫌ってしかるべき生徒たちは、ちょっとやんちゃなところに共感してくれたのだろうか、そんな私を受け止め、好いてくれて、静かに授業を聞いてくれた。それだけではなく、私の間違いを紙に書いて教室を回し、みんな自主的に主体的に勉強するようになり、何と、私の教室は、塾で一番成績を上げたのだ。
私は、子どもたちに英語を教えたが、教えられたのは私であり、子供たちから何か貴いものを教えていただいた。

社会人になって初めて営業に出て、お客様の前でまともに話すことができずに、商品説明の際、顔を真っ赤にして汗だらけになってしどろもどろで話した。普通は、こういう営業からは商品を買わないものだが、そんな私をからかいながら、そんな私からでも、そのお客様は商品を買ってくれた。
私は、お客様から、完璧じゃなくても何とかなる。自分の不完全さ受け入れる勇気を教えていただいた。

仕事で大失敗して、多くの人に恥をかいて、みすぼらしく敗北し、近くの仲間たちも距離を置いて背を向け始め、チームの失敗だったものが全部私の責任にされて、力を失った上に非難攻撃された時、一人、決して私を見捨てずに、そんなあなたが大好き、って言ってくれた家族。あなたを好きなことではだれにも負けないと言ってくれた。
私は、家族から、真の愛を学んだ。

グループワークの中で、お互いの懸念や恐怖、防衛の鎧としての敵意を正直に語り、非難するのではなく、私もそうだと受け止め、恐怖や不安を乗り越えたのちに心が開かれた時の、言葉にはできない不思議な雰囲気、エネルギー、場の力。
そこにあるものは、弱肉強食や戦いではなく、あたたかく柔らかく生き生きとした、みずみずしく爽やかで、明るく楽しくパワフルで、静かで穏やかで、そこにいるだけで癒されて、元気を取り戻せる精妙で尊い平和な場だった。
私は、人間関係を誤解していた。人を嫌い、自分を嫌い、人間関係を何よりも重苦しく疲れるものと思っていたけど、その本質は決してそういうものではなかった。
私は、仕事を通して、質の高い人間関係に起こるものは、愛、勇気、信頼であり、恐怖や不安にとらわれない自由を獲得し、自分らしく力強く生きる後押しをしてくれる貴い何かであり、まさに、潜在化していた偉大なる可能性、ロゴスの存在を学ぶことができた。

真の教育とは、単に知識や技能を教えるものではなく、こういうことを教えるものであるべきではないだろうか。

謙虚さ、勇気、真の愛、共感、そしてロゴスとの関係性。これらのものは、本当に人をかえることができる。いや変えるのではなく帰るのだ。その人そのものが目覚め、本来の自分に戻るのだ。

現在の世界は、意図するとせざるとにかかわらず、偶像崇拝的だ。
今のあなたは十分ではない。何かが足りない。そのままでは許されない。
だから、私を頼りなさい、この薬を頼りなさい、保険があれば安心、この壺があれば幸運になる、このブランドはあなたの不足を補う、風水を整えないからあなたは不幸だ、この石は…、この本を読めば…、この水が無いと…、などなど、人の恐怖と不安を刺激する偶像でいっぱいだ。

教育も、決してこの姿勢を越えることができていない。
外側にある「正解(偶像)」を頭に詰め込み、いかに効率よく従順な労働力として役に立つかを競わせるシステムとなっている。
システムは、教祖になりたいのだ。システムに取り込まれてしまうと、親や先生は、子どもたちに内在する貴い可能性を封じ込め、かわりに、AIで調べればわかることを強制的に暗記させてしまう。それが権威に受け入れられる方法だからだ。子供たち一人一人が、ひずみの中で感じる痛みに謙虚に耳を傾ける代わりに、制度を作り、個性ではなく均一化を図る。見ても見ず、聞いても聞かず、知らない。その無思考の戦略が安全な戦略となる。
そして、私自身が、そのシステムの中で育ち、傷ついた一人だ。

しかし、
こんなに高い子供たちの自殺率に目を背けるべきではない。
不登校で悩み苦しむ子供たちの声を無視するべきではない。
真に育ちたい、成長したいと願う魂の叫び声の存在を知らないふりをすべきではない。

教育とは、机の上の知識だけでは完成しない。
食事の支度も、掃除も、仕事も、会話も、日常の営みはすべて、貴重な学びの場となりうる。
そこに心を込め、注意深く、誠実に関わる者の中で、自尊心は自然に育つ。
学ぶとは、単なる情報の取得ではなく、日常の営みの中で、世界の秩序と意味、その真・善・美を自分の体で感じ取る営みである。

たとえば、雨に濡れた葉の美しさに目を止め、自然の理を感じることも学びだ。
料理を作り、味と香りを確かめながら工夫することも学びだ。
人と真摯に向き合い、相手の言葉と感情に耳を傾けることも学びだ。

学びを通してロゴスに触れた者は、自尊心を失わない。
失敗や痛みの中にも理を見出し、学び、成長する。
学ぶ者自身が光となり、その周囲を照らす。
一人の学びが、家族や仲間、社会全体に微妙で確かな影響を与える。

教育とは、形式や権威に従うことではない。
人の中に潜在化している大きな可能性に気づき、信頼し、自分のものとして生きるお手伝いをすることこそが教育なのではないだろうか。

人は断じて欠点だらけの無力な存在ではない。
その可能性は、狭い了見の人の認識をはるかに超えて偉大だ。
それは、秩序であり、真理であり、ことわりであり、ロゴスである。

教育とは、学ぶ者が内なるロゴスを信じ、探求する勇気を持つことを可能にする営みである。
もし真の教育がなされることができたら、世界はその日を境に劇的に変わるだろう。
ロゴスに気づき、ロゴスを学ぶ者は自分自身の尊厳を取り戻す。
そして、その尊厳をもって世界に向き合う者は、自由に、誇りを持って生き、世界をもゆっくりとそして確実に変えることができるのだ。