或る人事担当者の回想録

違いを乗り越えた時に人は成長する(韓国留学②)

今回は、留学前の準備期間に起きた出来事と留学直後の様子について書きたいと思います。

留学資金を貯めるため、私は新聞配達(朝刊)のアルバイトを始めました。1990年2月のある日、配達の初日は年に一回あるかないかの大雪でした。明け方の3時に起床して防寒具を着て外に出たところ、外は一面の銀世界、深夜から降り続いた雪が5センチほど積もっていました。よりによって新聞配達の初日に雪が降るとは。。。

配達の事前練習で、バイクの前後に山のように新聞を積むのでバランスを採るのが難しく、ちょっとしたことで転倒してしまうことは理解していたものの、降雪時での運転は経験がないので途端に不安になりました。配達店の人からは「チェーンはつけているけど転倒しないように、これ以上ゆっくりできないというくらい、ゆっくり走るように」と言われました。

私の配達先はマンションがほとんどで、しかも坂の上にあったため、配達店を出て走り始めてすぐに「あの坂登り切れるかな」と不安になってきました。順調に坂の下まで来て、いよいよ坂を上り始めました。横浜市戸塚区にお住まいの方はご存知でしょうが、雲林寺というお寺があり、そこを回りこむように延々と昇っていく坂があり、てっぺんにはバイパスが走っています。

最初、お寺の前まではそろりそろり順調に登ってきたのですが、左方向に向きを変えると坂の勾配がきつくなるのでアクセルをふかして一気に登り切ろうとした瞬間、バイクの前輪が地を離れて私もバイクも後方にひっくり返ってしまいました。前方のカゴからすべての新聞が飛び出し、ひもで荷台に括り付けていた新聞も一気に崩壊して道路に散乱しました。言葉を失って数秒間途方に暮れて「はっ」と我に返り、無我夢中で散乱した新聞を集めて路肩に積み上げました。そして、バイクを起こして路肩に移動しました。携帯電話がない時代ですのでSOSを出すこともできません。自分で解決しなければならないと焦りました。

路肩に積み上げた新聞を運んで再びバイクのカゴに収め、荷台にひもで括り付けました。エンジンをかけて先程よりもさらに慎重にゆっくりと坂を登り始めました。しかし、路面は凍結していたのでしょう。新聞の加重で車輪がスリップしてしまい、バイクが徐々に後ろずさりを始めました。そして2度目の転倒。今度は1回目よりも新聞が大きく散乱して回収が大変でした。半ばやけくそになってもう一度挑戦しましたが3度目の転倒。さすがにこれは無理だと思いました。

ふと頭をよぎったのは、どうしてこんなことになったのか。韓国に行くなどと決めなければこんなバイトをしなくて済んだわけだし。。。

「神様は韓国に行くことに反対なのかな」

などとブツブツ独り言を言いつつ、新聞を目立たない場所に仮置きして、配達店まで戻り既に配達を終えていた人に助けを求めました。

彼らの助けを得て、お客さんのクレームに発展することもなく何とか配達を終えることが出来ました。放心状態で帰宅した私をみて両親はびっくりしたと思います。「無理しなくても良いのでは」と言われましたが、結局1年間続けました。転倒はその時の一回限り。でも、1年の間には、今考えるとあれは幽霊だったんじゃないかというものを見て怖い思いをしました。一方で、親切なお客さんからは、クリスマスやバレンタインデーの時には「いつもご苦労様」と書かれた手紙とプレゼントが郵便受けに置かれていてありがたく頂戴したりしました。直接会ったことも、話したこともない人からの心づかいは深く私の心を揺さぶりました

4月になって大学の新年度が始まり、私は早速、教務課に留学の相談に行きました。韓国に行きたいと話したところ留学先としていくつかの選択肢があることが分かりました。私の通っていた大学もソウルに提携する大学があり、交換留学をしていて単位が認められるということでした。但し、事前に韓国語をマスターしておく必要があり、願書の提出に間に合わなさそうなので断念しました。そこで、改めて留学の目的として、

1.韓国語をマスターすること。
2.韓国の人と社会を理解すること。
3.大学で社会学の講義を聴講すること。

を掲げました。そして、教務課から勧められたのが、延世大学語学堂(言語研究教育院)でした。韓国のトップ私立大学である延世大学の付属機関で、もともと海外からの宣教師に対して韓国語を教えることを目的に設立され、現在は世界中から多様な人たちが学びに来ているとのことでした。私は直感で「ここで学びたい」と思いました。教務課の方は続いて、留学するには韓国人の保証人を決めて事前に就学ビザを申請する必要があること。国際学部のA教授に相談するように勧められました。A教授の電話番号をもらい、アポを取って研究室を訪問しました。

A教授は韓国の政治経済の研究者で、当時40歳くらいだったと思います。穏やかな方で私が韓国に行きたくなった理由を説明したところ真剣に話しを聞いてくれました。そして、

「大西君は韓国で良い経験をすると思うし応援する。でも、時には嫌な思いもするかもしれないけど大丈夫かな。」

と言われました。私は数年前まで高校の吹奏楽部で相当しごかれていて多少のことなら耐えられる自信があったので、

「はい、大丈夫です。」

と答えました。

A教授は私に次の3つのことをしてくださいました。

1.A教授の友人で韓国人の方に保証人を頼んでくれた。
2.延世大学語学堂の入学に関する資料一式を提供してくれた。
3.ソウル到着後に下宿探し等の手助けしてくれる日本人留学生を紹介してくれた。

1と2はスムーズに進み入学が許可され、1991年3月の最終週にいよいよ出発することになりました。友人達は送別会を何度も開いてくれて、そのたびに、

「どうして韓国へ行くのか?」

と質問攻めに合いましたが、いくら説明しても彼らには全く理解できなかったと思います。

一方、友人のM君が、

「笑顔は世界の共通語。常に笑顔を絶やさず。」

という言葉を色紙に書いてくれました。この言葉はとても本質をついているし、貴重な言葉としていまでも大事にしています。

そして、成田空港を出発し金浦空港に到着。68番という市内へ向かう座席バス(470ウォン)に乗り、延世大学があるシンチョン(新村)で下車し、事前に日本人留学生から聞いていた旅館にチェックインしました。オンドルの床には花柄のせんべい布団が敷かれ、トイレとシャワーがついていました。この旅館はいわゆる日本のXXホテルで、名前をチャンミ・ヨグァン(薔薇旅館)と言いました。延世大学のマ・クヮンス教授という人が著して出版した「カジャ チャンミヨグァン ウロ(行こう、薔薇旅館へ)」という本がベストセラーになり、そのタイトルとして50代以上の韓国人なら誰でもその名を知っている有名な旅館です。

馬 光洙(マ・クァンス、마 광수、1951年4月14日 – 2017年9月5日)は、韓国の小説家である。ソウル特別市の出身。1951年4月14日、ソウル生まれである。延世大学の国文科と同大学院修了。延世大学の国文科の教授を歴任した。1977年 『現代文学』に 「ヘソに」、「あぶれ者」などの6篇の詩が推薦され、登壇した。それから、詩集『狂馬の家』(1980)、『行こう、バラ館へ』(1989)などの作品を発表した。1992年には、小説『楽しいサラ』により筆禍事件となった。評論集としては、『尹東柱の研究』(1984)、『馬光洙の評論集』(1989)、『カラルシスとは何か』(1997)などがある。2017年9月5日、ソウルの自宅で首を吊って亡くなっているのが発見された。(Wikipediaより)

国際学部のA教授がつないでくれた「日本人留学生」というのは、私と同じ大学を卒業して延世大学の大学院に通っていた方で、当時25、26歳くらいの方だったと思います。この方は日本に帰国後、新聞記者になりました。私の到着日と到着予定時刻を前もって知らせていたので、すぐに連絡がつくと思っていましたが、なかなか電話に出てくれません。そして公衆電話と旅館の部屋を往復する羽目になりました。

ほぼ韓国語能力ゼロだった私は1日、2日と時間が経ち1週間後の入学式の日も近づいてきてだんだん不安になっていきました。食べ物の買い方も分からないし、いったいどうしたら良いのかと。私の両側の部屋には毎晩酔っ払ったカップルがやってきて騒がしいし、これは早速とんでもないことになったと。しかも、その旅館はまだボイラーではなく練炭を使っていて、後から知ったのですが、韓国では毎年冬になると一酸化炭素中毒で死ぬ人が大勢いると。日本語を少し話す受付のハルモニ(おばあさん)から「(一酸化炭素の充満を防ぐ為に)窓を5センチ程度空けて寝ること」また「(乾燥を和らげるために)水を入れたコップを床に置くこと」を教えてもらいました。

ソウルに着いて3日目の夜だったと思いますが、夜中にふと目を覚ますと、体が全く動かないことに気付きました。

「あれっ、これってもしかして???」

焦って目玉だけはぐるぐる動き、左斜め上の方を見上げると締め切った窓が見えました。

「まずい、このままだと死んじゃう。勉強も始める前に死んじゃうのか。どうしよう、どうしよう。。。

体は動かないのですが目玉と頭の中だけは異常に活発に動きました。しばらくして、足の指差に力を入れたところ少し動き、次に手の指先が動き、徐々に体がほぐれていきました。そして、なんとかはいつくばって動けるようになり、窓に手を伸ばし思い切って窓を開けた瞬間、外から冷気が「ざーっ」と部屋の中に流れ込んできました。ほっとしたのと、疲れとで一気に頭の中が真っ白になり、そのまま眠ってしまいました。

翌日も、その翌日も先輩と連絡がとれませんでした。その内、受付のハルモニ(おばあさん)が心配してくれて、パンや牛乳を差し入れてくれました。私もさすがにこんなことをしていてはいけないと街を散策することにしました。

ハングルもまともに読めな上に、当時のほとんどの店は外から店内が見えないように黒いフィルターのようなものがガラスに貼られていたのでさらに何の店か推測すらできませんでした。ただ、ビビンパやチゲなどの軽食を出す店だけは、道路に面して入り口を開放していて、アジュマ(おばさん)が赤いゴム手袋をつけて忙しく出入りしているので何の店かすぐに分かりました。

ある一軒に入り、ビビンパと書かれた壁に貼られた紙を指さし、イゴチュセヨ(これ下さい)と言いました。アジュマ(おばさん)は「ネー(はい)」と言って厨房に入り、しばらくしてたくさんのキムチと一緒にビビンパが出てきました。3.500ウォン、とても美味しかったことを覚えています。少し自信がついてきたので、延世大学へ行き校舎、学生会館、学食等を散策してチャンミヨグァン(薔薇旅館)に戻りました。

ソウルに到着して5日目の夜、先輩に電話をしたところ突然着信しました。相手からはおもむろに「ヨボセヨ(もしもし)」とやる気のない声が。私は自分を名乗り、約束していたことを伝えました。一瞬間があって、先輩は、

「ごめん、すっかり忘れていた。」

と。それから先輩は旅館に飛んでやってきて私に謝りました。その焦る姿を見て、

「この人、本当に忘れてたんだな。」

と分かりました。

翌日、先輩は再び旅館にやってきて、当時ポクトパンと呼ばれていた不動産屋に一緒に行ってくれました不動産屋のおじさんに下宿費の予算と条件を説明したところ候補として3軒案内してくれて、その中から一軒を選択しました。選んだ理由は、下宿のアジュマ(おばさん)がやさしそうだったからです。

ソウル特別市ソデムング(西門区)チャンチョンドン(滄川洞)が、私の最初の下宿先となりました。下宿代は一人部屋で一ヵ月25万ウォン(朝食・洗濯・掃除付)でした。先輩は、

「困ったことがあればいつでも相談してね。」

と一言残してシンチョン(新村)の街の中に消えていきました。結局、先輩とはその後一回も会うことはありませんでした。

次回は下宿生活と学校のことについて書きます。