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若者 バカ者 よそ者によるイノベーション②(事例研究)

「空気を読まず、正論を吐き、ノイズを起こす」「女性」が、組織の中に波風を起こしてイノベーションを産む原動力になる。

その阻害要因として男性の意識と言動があるということを、社会学者の上野千鶴子さんのコメントをもとに読み解きました。

そして、「女性」の登用を進める公平な制度の運用が、国際比較で日本が非常に遅れている裏付けとして、森喜朗元首相の発言(失言)を取り上げました。

さらに、その原因として、日本特有の「平等意識」とその源流である「和の精神」が影響しているとの私の推論を、法隆寺管長の大野玄妙さんの講話内容に照らして検討しました。

最後に、「女性の登用」を促進するためには劇薬が必要で、既存の組織のルールを根こそぎひっくり返してしまうようなパワーを女性のチームに与えること。さらに、ペナルティを伴ったクオータ制を導入することの必要性を述べました。

今回は、「若者 バカ者 よそ者によるイノベーション②」の番外編として、女性の登用を進めて成果を上げている株式会社東横インの事例を取り上げます。テンミニッツTV「東横インに学ぶ「女性活躍」の秘策」で、代表執行役社長の黒田麻衣子さんが語った内容から抜粋します。

①女性登用のきっかけ

冒頭、黒田さんは、東横インが女性を積極的に登用することになったのは、祖父から電気工事会社を引き継いだ父親が、ホテル事業を始めるにあたって生じた偶然の出来事だったと語っています。

インタビュアー:支配人の方々の97パーセントが女性というように、女性を積極的に登用されたのは、なぜなのでしょうか?

黒田:それは創業期からで、まさに1号店から女性の支配人でした。その当時、父が祖父から継いだ仕事は、電気工事の会社だったものですから、男性ばかりの会社でした。そこから父はデベロップの仕事、ビルの企画をするような仕事を始めて、ひょんなきっかけからホテルをやることになったのです。ただ、電気工事の会社ですから、ホテルの仕事をできる人が誰一人いないということで、父の行きつけの飲み屋のママさんに頼んで、ホテルの1号店をオープンさせたのです。たまたまママさんが、田舎に戻ろうかなとおっしゃるタイミングで、「それだったら手伝ってください」という経緯でしたので、最初から「支配人は女性でいこう」と決めていたわけではありませんでした。

②女性活用の始まり

最初は偶然でしたが、そのあと東横インがとった方法は現在に至る女性登用の流れを決定します。女性と男性の違いを発見して、それを活かそうと考えたようです。

黒田:実際、2号店目は男性の支配人だったのですが、1号店と2号店の稼働率にかなりの差が出てきてしまったのです。「これはなぜだ?」と現場に行くと、女性が支配人をやっている方は、とてもきれいで居心地がいいのです。一方の2号店はなんとなくタバコ臭いし、暗いし汚いということで、これは女性に向いている仕事かもしれないと思ったそうです。そこで、社員は女性にしていこうとなっていきました。

③適性も意欲もある人材の採用方法

「支配人」という「リーダーシップ」を必要とする仕事の適任者を獲得するにあたり、育成する余裕がないので、最初から「支配人になりたい人」を募集、採用せざるを得なかったことが逆に功を奏したようです。つまり、リーダー的資質を備えた人を内部で抜擢するよりも、リーダーになりたいという意欲、意志がある人に役割を与えた方がスムーズだということです。

インタビュアー:支配人になる方法、道筋ですが、どういうかたちで社員登用をされているのでしょうか?

黒田:「未経験で構いません」ということで呼びかけて募集しています。まもなく創業35年になりますが、創業期には人を育てていく時間がありませんでした。ですから、最初から「支配人をやりたい人」というように採用せざるを得なかったわけですが、今となってはそれがよかったとも思っております。最初から「私がリーダーをやりたい」と言って、手を挙げる方が来てくださるからですね。逆に、もともと部下、スタッフとして入った人は、こちらが優秀だなと思って「支配人をやりませんか?」と声をかけても、「いえいえ、私はリーダーには向きません」と、リーダーに手を挙げない傾向があります。ですから、最初からリーダーをしたいと手を挙げてくださる方は、意識が違うのかなと思っています。

④女性登用の促進理由

ローカル採用で転勤がないことが、女性登用をより促進することにつながったようです。ここで好循環が生まれています。

黒田:これは女性ならではなのかもしれませんが、転勤はなかなかできないのです。家庭を持っていらっしゃる女性の方は特にそうです。ご主人に「転勤するからついてきて」と言うことは、これまでの日本ではあまりありませんでした。ですから、基本的には出張はありますが、転勤はないということで、ご自宅から通える範囲で採用しています。これは支配人だけではなく、全スタッフが現地採用ですので、本社からスタッフを派遣したりですとか、そういったことはいっさいしていません。地元を愛する方にホテルのスタッフになっていただきたいと思っています。

⑤性別による得手不得手

黒田さんの見立てによると、女性と男性にはそれぞれ得手不得手があるようです。そこで、同社では男女それぞれが活きるように仕掛けを講じているようです。

インタビュアー:女性が活躍する職場の面白さ、特徴というのは、どういうところにありますでしょうか?

黒田:社外の取締役から「女性ならではなのかもしれないけれど、横への情報の伝達が速いね」と言われたことがあります。横に情報が伝達しやすいということは、例えば支配人たちがやってよかったことを横展開できるので、その点はとてもよいと思っています。一方で、「上から下への情報伝達が下手だね」と言われたこともあります。支配人同士、うわさもひっくるめて、うわーっと情報が集まるのですが、本社が言ったことが支配人、末端のスタッフまで伝わっているかという部分に課題があります。お恥ずかしながら、お客様の方から「もうこういうサービスに変わっているよ」と教えていただくフロントもいたりするものですから。

インタビュアー:女性の能力と男性の能力の違いをどうやればうまく生かせるのか、男性中心の組織の場合と女性中心の組織の場合で、どう違うのかについては、どう思われますか?

黒田:私がいる本社の部長は男性と女性が半分ずつぐらいです。男性の部長の仕事を見ていると、緻密で一生懸命やってくださる。自分の仕事、任された仕事を集中してやっていると感じます。しかし、自分と同じように部下もやってくれるだろう、「自分の背中見て仕事をしてほしい」というところがあるため、部員に目が行き届いているかといえば、そうでもありません。一方、女性の部長は、一生懸命やっていないわけではないのですが、ともすると「遊んでいるのかな」と思われるくらいにおしゃべりが多い。ただ、実際は、そうしながら部下の様子をうかがっていたり、モチベーションを高めるようなことをしていると感じています。

男女の違いを見たときに、男性は新しいものをつくることが好きであり、その能力に長けていて、女性はゼロからつくり上げるよりも、すでにあるものを磨きあげる方が得意ですし、好きなのだろうと思います。男性の場合、磨きあげていく作業は途中で飽きてしまう、つまらなくなってしまうとも感じていますので、そこが能力の違いというか、性格の違いなのかもしれません。

インタビュアー:たしかにホテルの仕事は、どんどん磨きあげていかないといけませんね。

黒田:はい。日々、違ったお客様がいらっしゃいますので、新しいことがまったくないわけではありませんが、例えば壁を壊して部屋をつくるとかではなく、あるものをいかにうまく使うか、いかにお客様に喜んでいただけるか、今いるスタッフをどう育てていくかを常に考えていくことになります。

⑥女性のコミュニケーションの特徴

女性は、上司とのコミュニケーションの方法が率直でストレートだとの見立てをされています。これは上野千鶴子さんが「ノイズを起こす」と述べ、森元首相が「話しが長い」と失言したことと符合します。

黒田:女性の方が上司にモノを言います。ある意味、女性の方が、出世よりも今の職場の環境をよくすることに重点を置くのかもしれないですね。周りがよくなければ自分もよくならない、居心地が悪いというようなところが、あるのかもしれません。ですから、私に対しても「こうだったらいいのに」と女性は言ってきますね。

⑦組織づくりの工夫

女性のリーダーを出したければ女性だけの組織にするべき。しかし、調整役の男性の存在が必要と述べています。女性にパワーを持たせても、男性が関与することによって組織運営がスムーズにいくようです。これは、クオータ制のオプションとして参考になります。

黒田:これまでは、女性は男性に遠慮する、男性をまずは立てて女性は支える役回りを求められてきましたし、女性としてもそれを楽だと思いがちでした。ですから、女性は男性がいると、「自分がリーダーをやります」とは言わないのではないでしょうか。一方、女性しかいなければおのずとそこから女性のリーダーは出てくるものです。エリアの支配人の代表もいるのですが、そこにはあえて本社の男性の役員クラスも担当につけています。どちらかというと調整役、相談に乗る役回りです。実際、その男性については、総務部長兼どこどこエリアのエリア長としてはいるのですが、ホテル業務は素人で、ホテルのことを隅々まで知っているわけではありません。では彼らが何をするかといえば、ホテルを1つずつ任されているという意味で、ライバル関係にある支配人同士の間に立つ調整役です。もちろん支配人には出っぱってもらってもいいのですが、それでも例えば隣り合わせの店舗の価格が違うのはよくありませんし、あとは口論になったり、揉めごとがあったときに調整に入ってもらっています。女性は大きなところから見るというよりも、細かくて重箱の隅に行ってしまうこともあるので、「いやいや、そういう細かい話ではなくて」と言える男性がいることはよいことだと思います。女性の話は本当によく脱線しますから。

⑧女性登用成功の条件

女性登用に本当に必要なのは「ロールモデル」。東横インの場合、大勢の女性支配人が活躍しているのでうまくいっているようです。

黒田:(他社で)とても優秀な女性の社員がいて、「ぜひ役員になってほしい」と言っても断られてしまう、というお話はいろいろなところで聞いたことはあります。一方で、当社の場合は、女性が手を挙げて支配人になりますし、支配人の中でもさらにリーダーになる役目をお願いすると、たいていは「はい、分かりました」と受けてくださいます。やはり女性だけの中では、女性がリーダーになりやすいのではないでしょうか。あとは当社の場合、ロールモデルがいるのも大きいですね。

⑨女性のモチベーションの源泉

女性ならではのモチベーションの維持向上について「見てあげている」ことを知らせること。「個別事情への配慮」の重要性、効果について述べています。これは前回取り上げた、私の友人Uさんの「女性には母性があり戦士にはなれない」という言葉を裏付けるエピソードです。

黒田:特に女性は、「見ていてくれている」というのがとても励みになると私は思います。例えば、「このまえ、こんなことを言っていたよね」と言うだけで、「あっ、覚えていてくれたんだ」と励みになったりするものです。メールに対しても、一言でいいので返信するとか、時間が経ってからでも「このまえ、メールでこんなことを書いていたね」と言うだけで、「あっ、見ていてくれている」と思うものです。それが上手なエリア責任者は、男性でも女性でもうまくいっていますね。

全国の支配人が集まる機会が3カ月に1回あると申し上げましたが、具体的には3月、6月、9月、12月となっています。ただ、3月は卒業式シーズンですから、1年前から「会議の日が卒業式と重なっていませんか?」と全員に聞くようにしています。そして、全員が大丈夫だという日に全国支配人会議をするというのも細かいことですが、工夫しています。あとは、入社したての方の研修日と、お子さんの受験日とが重なってしまったケースが本社で起こったことがあります。研修は朝早く出張しなければいけないものでした。おそらく入ったばかりということもあり、「子どもの受験日です」と言えなかったのだと思いますが、別の先輩の社員が、そのことを知っていて部長に「受験日だと思いますよ」と言ってくれたみたいなのです。そこで部長が本人に「受験日と重なっていますか?」と聞いたら「そうなのです」となったので、「研修日をずらしましょう」という対応ができました。細かいことではありますが、そういった女性ならではの心遣い、思いやりは、すごく大事だと思っています。

⑩手間を惜しまない経営

次の非常に手間をかけた取り組みは、なかなか男性の経営者からは出てこない発想かもしれません。しかも、そこにも女性視点、男性視点の両面を反映している徹底ぶりに感心します。

黒田:賞与のときには、支配人に手書きの寸評を全スタッフに書きましょうと言っています。お給料明細とは別に寸評を書いてお渡しします。支配人にはパートスタッフまですべてに対して書くように言っています。私たち本社も、まず支配人の賞与の寸評は、エリア責任者が書いて、その後、2、3言ではありますが、私と人事部長が手分けして全員分書いて支配人たちにも渡しています。

インタビュアー:300を超える店舗があるなか、すべての支配人の皆様に社長が書いているということですか。2、3行のメッセージにはどういうことをお書きになるのでしょうか?

黒田:男性の視点で数字を押さえて、「ここ、伸ばしましたね」ということを書くケースが多いですね。私と人事部長は女性なので、数字というよりは定性評価であったり、「新人の支配人の研修をしていただき、ありがとうございます」とか「体調いかがですか」「元気になられましたか」「この対象期間中はプライベートでも大変でしたけれども、よくやってくださいました」というようなことを書いています。プライベートで大変という部分は、お子さんの受験があったり、お子さんの環境が変わったり、介護があったり、ご主人の働く環境が変わったりと、女性はプライベートも忙しいですから、そういったことに配慮しながら、一言書いたりということもあります。そうですね。その他にも、誕生日にはお花とカードが届きます。誕生日カードにも、エリア責任者が一言書いています。あとは、私が1年に1回は、支配人と20分程度の個人面談をしています。

⑪女性は「話す生き物」

手書きの寸評に加えて、頻繁にきめ細かく面談をして「会話をする」ことでさらに見えてくることがあるようです。

黒田:入社1年ほど過ぎた方とは全員面談を毎年一度しています。私にとっても貴重な機会となっています。支配人ご自身の体調であったり、プライベートで大変なことなどは、わざわざメールでお伝えくださる方は少なく、2人きりになったときに「いや、実は」とお話しになる方もいます。あとは、現場でこんなことが起こっているというのを知る機会にもなって、お客様、従業員のことを考えていくときの大きなヒントになるのです。女性は、話す生き物ですから。

インタビュアー:さきほどもおっしゃったように組織の問題点とかも、かなりズバリと言っていただけそうですね。

黒田:はい。支配人たちには、まず着任したてのときに必ず全スタッフと早いうちに面談をすることに加えて、1年に1回、あるいは半年に1回、賞与か昇級のタイミングで個人面談をするように伝えています。支配人に言っている以上、私もしなくてはと思ってするようになったのです。ですから、東横インは私だけではなく、各店舗が面談を頻繁にする会社だと思います。

⑫「インセンティブ制度」とは?

モチベーションを維持する工夫として(給与とは別途支給される)「インセンティブ」があり、社員からパートに至る様々な属性の社員の努力と成果に報いるものとして効果があるようです。

黒田:売上高ではなく、とにかくお客様を何人入れることができたか、何人のお客様にご利用いただけたかをとても大事にしています。ですから、基本給とは別に、稼働率が高くなればインセンティブが上がる稼働率連動奨励金を支給しているのです。数あるインセンティブのうちの1つですが、自分の店舗の稼働率に応じて支給するもので、同じ店舗で働くスタッフはすべて同じ率で支給しています。例えば先月、85パーセントの稼働率となった場合、ある係数を基本給にかけることになります。基本給が違うため、額としては支配人が一番大きく、パートの方は出勤の多い人が多くなるようになっていますが、係数については店舗の全スタッフ同じなのです。

⑬支給まで工夫

インセンティブは、あえて給料日と違う日に「現金」で渡しているそうです。お金は所詮、外発的な動機付けに過ぎず持続的な意欲の維持向上への効果は限定的と言われていますが、支給の方法を工夫すれば金額に関係なく従業員の心理にプラスの効果があることを教えてくれます。

黒田 スタッフ全員で店舗の稼働率を上げるという意識を高めてもらう狙いがあるため、パートの清掃スタッフから支配人まで、全員がもらえるようにしています。同じ係数で渡せるということに加えて、渡す日も工夫しています。給料日が20日なのですが、給料日と給料日の間にインセンティブを渡すようにしているのです。20日にもらえるのは普通のお給料で、ちょうどお給料がなくなってきた10日ぐらいに、あえて違う封筒に入れて現金でインセンティブをお渡しするようにしています。支配人たちから全スタッフに、「先月の稼働率はこれぐらいだったので、こういうインセンティブですよ」と渡すのです。インセンティブにはいくつか種類があって、例えばフロントは、会員を増やす役割を担っていますので、何人会員を増やせたかということもインセンティブに入っています。ですから、「あなたは先月会員を何件取ってくれたから、この金額です」と言いながらお渡ししています。インセンティブは、賞与のように給与の何カ月分も入っているわけではありません。パートの方で何千円、フロントの方でも数万円程度なのですが、お給料がなくなった頃にもらえると、ありがたみも違います。また、金額の多寡にかかわらず、先月の結果をすぐもらえるということも大きいと思っています。

⑭手間を惜しまない本当の理由

なぜ、現金支給という非常に手間がかかる方法を止めない理由は「喜んでもらうためだ」という」シンプルですが本質的な言葉を述べています。

黒田:インセンティブは給与ほどの額ではありませんから、やはり給与明細にすると味気ない。明細でお札何枚、たとえば5万円と書いてあっても、そこまではうれしくないかもしれないのですが、少額でありながら喜んでもらえる方法として、現金をその場でお渡しできるのはとてもいいと思っています。本社も本社で支配人の分を数えますので手間ではあります。店舗の支配人たちにとっても、何百円単位まで間違えてはいけませんので、大変な手間になります。ですから、支配人の働き方改革の一環として、「やめる」という議論もしたことがあります。ただ、例えば、現金でお渡ししたときに清掃スタッフから「ありがとうございます」と言われたときの顔を見るのがうれしくて、「続けていきたい」と支配人たちが言ってくれますし、やはりやめられないと思うのです。

⑮女性ならではの悩み

男性が見落としがちな女性登用の阻害要因に「周囲に頼ることを躊躇する女性の意識」があるとのこと。また、男性にも家事や育児へ関わる意識を変えて欲しいと明言されています。

黒田:私が結婚して子どもを産んだ頃は、ちょうど働いている女性と専業主婦の女性との割合が逆転した時期なのです。私の友人も、子どもを産んで働いている人と働いていない人がちょうど半分ずつぐらいでした。私の場合は、自分の実家だったり、主人の実家だったりとサポートしてくれる人がたくさんいて、それから区のサポートなどを積極的に使うことができました。ただ、そういう時代でしたので、子育ての主体はまだまだ女性であり、家庭を守るのも女性の仕事という風潮が強かった。私自身もそうでしたし、私の周りでも自分で子育てをしないといけない、自分が家庭を守らなくてはいけないという意識が強すぎて、「周囲に頼れない」と聞いたことがあります。その部分については私たち女性が変わっていかなくてはいけないと、他の女性経営者の方とも話をしています。幼い子どもをどこかに預けることに罪悪感を感じてしまうお母さんがまだ多いのではないかと、女性の経営者の方とよく話をしています。

インタビュアー:そのあたり、まさにご自身で体験しているからこそわかるのですね。

黒田:なんと言っても日本人の男性には、働く女性に対して「なぜ、家にいないのだろう」と思う気持ちを変えてもらわないといけませんね。男性のなかには、子育ての「手伝いをしている」という感覚を持っている方も多いと思うのです。今でこそ手伝ってくれる男性は増えていますが、まだまだ「手伝い」なのです。一方の女性たちは手伝っているのではなく、やっています。例えば、私も主人に子どもを見てもらって、プライベートで飲みに行くことがありますが、「空いている?」と聞かなければいけません。だけど、主人は「行ってくるからね」と言って、飲みに行きますよね。私が飲みにいくとき、主人は「行っておいで」と言ってくれるし、預かってくれますが、女性の場合は「預かってくれる?」と聞かなければいけないというのは、男性と女性の意識の大きな違いだと私は思っています。

⑯本当に必要な施策とは?

気軽に頼れる存在としてのベビーシッターの普及が有効であるとの考えを述べています。これからの日本に本当に必要なことを黒田さんは教えてくれています。

インタビュアー:これは一般論、社会全体の話ですが、女性がより活躍できる社会に向けて、どのようなことが必要だとお考えでしょうか?

黒田:気軽に頼れるベビーシッターは、日本社会に根づいていかなければいけないと思います。娘の留学先であるイギリスでは、高校生からベビーシッターのアルバイトを頻繁にするそうです。そのくらい需要があるのだなと思いました。知らない子かどうかは別として、高校生に子どもを預けるかといえば、日本では預けないと思うのですが、気軽にベビーシッターに頼れる社会になっていくと、もっと女性が活躍しやすくなると思います。当社自身、まだ保育園の補助などができていませんが、保育園とか、お子さんを預けられる設備、施設は増やしていかなければいけないと考えています。

黒田さんの、女性として、妻として、母として、そして経営者としての実践的な話は目からうろこが落ちます。

女性登用は「男性の意識改革」など掛け声だけでは到底実現しないこと。経営者が、そこにかかる手間や心遣いを、継続的に、しつこく徹底的に実行する覚悟が不可欠なのだと思いました。

日本人の半数は女性です。その力を最大限発揮せしめることが出来るかどうかが、日本の未来を左右するといっても過言ではないでしょう。

ところで、黒田さんはベビーシッター活用に言及されましたね。コロナウィルス拡散が収束したら東横インは「ベビーシッター」関連の新ビジネスを始めるかもしれません。女性が子育てを任せることへの罪悪感の払拭と、社会の許容度をどう高めるかといった難しい課題がありますが、ベビーシッターの認定資格化と育成事業への新規参入。そして、ホテル経営のノウハウを生かした託児施設の運営等など。。今後の同社の取り組みが楽しみです。

ニューノーマル時代のイノベーション

前回のブログでは、イノベーションを起こすトップの作法として、ダイアローグ(対話)によってメンバー一人ひとりが持つ異なる考えや意見を聴くこと。仮に1,000個の異なる意見が出ても、それらに個別対応するのではなく、「アウフヘーベン(止揚)」して、共通項を導き出すことを提起しました。

今回は、「アウフヘーベン(止揚)」は時代の要請に則った手法であることの検証をふまえて、それを実践した企業とトップの事例を書きたいと思います。

止揚(しよう、独: aufheben, アウフヘーベン)は、ドイツの哲学者であるヘーゲルが弁証法の中で提唱した概念。あるものをそのものとしては否定するが、契機として保存し、より高い段階で生かすこと。矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること。古いものが否定されて新しいものが現れる際、古いものが全面的に捨て去られるのでなく、古いものが持っている内容のうち積極的な要素が新しく高い段階として保持される。(Wikipediaより)

まず、本題に入る前に、「アウフヘーベン」を活かす方法について理解を深めたいと思います。

西山圭太さん(東京大学未来ビジョン研究センター客員教授/前・経済産業省商務情報政策局長)が、日本企業の弱点と人材不足の克服へ(膠着する日本経済の深層)というタイトルで、日本経済が行き詰っている原因について語っています。一つ目はマーケティングを軽視すること。二つ目は、顧客の要望の聴き方を間違っていること。以上を指摘しつつ、その克服のカギは、「アウフヘーベン」することだと述べていて参考になるので引用します。

(日本企業は)「技術があればいいんだ」みたいなことになっています。(中略)当時、ドイツ企業と比較したことがあります。日本とドイツは、やっている業種・業態が似ています。製造業が多く、B to Bが中心。ところがある時期から、圧倒的にドイツのほうが利益率が高いのです。なぜかというと、ギリギリの標準化をドイツ企業はするのです。当時、日本の経営者の方にこの話をしたとき、彼らがどう言ったかというと(中略)「いやいや、お客さんの意見はもちろん聞いています」と言うのですが、そこに大きな誤解があり、ドイツ企業と日本企業の決定的な差があるのです。ドイツ企業も(中略)仮に1000人のお客さんがいたとして、1000人のお客さんの意見を徹底的に聞くけれど、そこで1000種類つくることはしません。1000人のお客さんの意見を、ドイツ的にいえば「アウフヘーベン」して、1000個ではなく、例えば10個とか50個にするのです。ところが、日本の場合は1000個を1000個のままやる。お客さんから見ると、「言ったとおりやってくれた。こんなありがたい人はいない。また来年お願いします」となって(中略)日本はそれをやっていて、しかもそれをすごく良いことだと思っている。(10MTVオピニオンより)

この話しは、私も製造業に属していた期間が長かったので、現場で体験したことにそのまま当てはまります。加えて西山さんは言及していませんでしたが、人事的な視点から言えることは、「お客さんの1000の要望をすべてかなえようとする」発想は、従業員の全人格的労働、つまり、時間制限なく働かせることが出来るという意識が背景にあったからではないでしょうか。ドイツのように厳格な労働時間規制があると、当然、経営は最大限効率良く成果を上げる方法論を練り上げるはずです。日本はそれとは対称的だったとも言えると思います。

西山さんの話しは、ビジネスの世界における「アウフヘーベン」の話しですが、前回も取り上げた、台湾のデジタル担当政務委員(閣僚)のオードリー・タンさんが、行政の見地からも、多くの人々の意見の中から共通項を見いだして「アウフヘーベン」することの有効性について述べていますので引用します。

「最初から完璧を目指すと、取り残される人々が必ず出てきます。それでは公平とは言えません。真に多様で公平な社会を目指すためには、私は二つのステップを経る必要があると思っています。一つはこの『共通の理解』を得ること、つまり、ある問題に対して、満足できるわけじゃないけど受け入れられるという状況にまで持っていくことです。最終的な目的地を決める前に、人々が今共通認識として持っていることは何かを学ぶのです。この過程を経て、ついに共通の目的が定まれば、あとはその実現に向けて突き進む。そのためには、この共通の理解を意思決定に携わる人だけではなく社会全体に周知する必要があります。私の役割は、この2ステップを経るための場を用意することなのです」(VOGUE JAPAN 2020年8月21日「完璧を目指そうとしなくていい」──台湾のデジタル大臣、オードリー・タンが目指す政府と社会)

タンさんは明確に、「答えありき」で政府が民意を問うのではない。自らの役割は、そもそも何もない状態から人々の「共通認識」を見いだし、それを人々に受け入れられる「共通の目的」として定め、「社会全体に周知」する場を用意することだと述べています。

また、タンさんは別の場で、人間の知恵を結びつけ具現化することこそがDX(デジタルトランスフォーメーション)の本領発揮の場なのであって、従来のITが、機械と機械をつなげることであったのと比較して、そもそも目的が異なると述べています。

私は、西山さん、タンさんは、共に「ニューノーマル」を示唆しているということに気づきました。

「ニューノーマル」、日本語では「新常態」「新しい日常」などと訳されます。これまでとはがらっと異なる世界がやってくる、という文脈で使われる今再頻出ワードの一つです。

この言葉は、産業経済は2007年から2008年にかけての世界金融危機後に、近年の平均的な水準に復元するだろうという、経済学者や政策決定者たちの間に共有された信念に警鐘を鳴らす議論の文脈から登場してきた。リーマン・ショックを含む一連の危機の前後で生じた避け難い構造的な変化を経て、「新たな常態・常識」が生じているという認識に立った表現である。(Wikipediaより)

「ニューノーマル」という言葉を「アフターコロナ」に当てはめて近未来を予測する人の中には、非対面の「リモートワーク」が不可逆的に普及するので、企業は必ずしも都心に拠点を持たなくてもよくなるだろうとか、情報セキュリティーをより厳格化する必要がある、などといった、非常に単純化した概念にとどまるものが多いようです。

一方、そのような中で本質を突いているなと思ったのは、慶應義塾大学教授の宮田裕章さんの言葉でした。オードリー・タンさんが言っているような、実現すべき目的は、「権力が与えるのではなく、一人一人から生まれる」と述べていて目を奪われました。

従来の企業活動は、新聞、雑誌、広告も含め、多くの人に届けられるモノを提供するということが中心でしたが、これからはデータで一人ひとりを捉えて「体験」を共創していく時代になるでしょう。「新しい日常」というのは権力を持った一部が定義して画一的に求めるものではなく、激動する社会の中で一人ひとりが見いだして、響き合って生まれるものであってほしいと考えています。(宮田裕章(慶應義塾大学医学部医療政策・管理学教室教授))

この中で、宮田さんが述べている、「激動する社会」についてですが、同じく慶應義塾大学教授の菊澤研宗さんが詳しく解説しています。私たちが直面している現実について理解を深めることが出来るので引用します。

新型コロナ後のニューノーマルとは、ある意味で安定状態がノーマルではなく、異常事態がノーマルになるということでもあると思う。まさにVUCA(ブーカ)と呼ばれる不確実な時代が到来しているのだろう。VUCAとは、Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)の略語であり、米軍がテロ対策に用いた用語だといわれている。このVUCAに対応できない企業はパラダイムの不条理に陥り、合理的に失敗することになる。このようなVUCA時代に、①環境変化を感知し(sensing)、②そこに機会を捕捉し(seizing)、③既存の資源を再構成して自己変容(transforming)する能力のことを、ダイナミック・ケイパビリティ(変化対応的な自己変革力)と呼ぶ。(菊澤研宗(慶応義塾大学商学部教授))

ここまで引用した方々の言葉を私なりにまとめます。

「新型コロナ後のニューノーマルとは異常事態がノーマルになること。不安定、不確実、複雑が増し、ますます曖昧な中で意思決定が求められるようになる。そのような環境では、権力が一方的に押し付けた目的と方法は役に立たない。従来の発想を逆転して、一人ひとりがもつ認識からアウフヘーベンして共通理解を醸成し、社会全体に周知して実現に取り組む。そのような変化対応的な自己変革力が求められる。」

そこで、会社が直面した危機的な状況を、「変化対応的な自己変革力」で乗り切るべく奮闘した事例がないか探したところ、レストラン「ロイヤルホスト」で知られる、ロイヤルホールディングス会長の菊地唯夫さんが、2011年3月に発生した東日本大震災の際に経験されたことを語った日経ビジネスオンラインの記事が目に留まりましたので、やや長文ですが引用します。

菊地唯夫 [きくち・ただお]氏 1965年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、日本債券信用銀行に入行。頭取秘書を務めていた98年に経営破綻を経験する。その後ドイツ証券を経てロイヤル(現ロイヤルホールディングス)に入社。総合企画部などを経て2010年社長に就任。ロイヤルの経営立て直しに着手する。16年会長兼CEO(最高経営責任者)、19年から現職。

痛烈な皮肉から芽生えた自覚 外食は再びよみがえる 2020年9月11

社長に就任した2010年は、リーマン・ショックの影響が残り、外食産業の景気も低迷していました。ロイヤルホールディングスも2期連続の赤字から立ち直るための方策がなかなか定まりませんでした。定まらないどころか、経営陣の間では経営方針をめぐって対立が起こっていた。「何とかしてまず利益を回復させよう」という考え方と、「従業員の処遇やお客様の満足度向上が先だ」とする考え方です。

本来、企業経営というものは企業価値の向上を通じて全てのステークホルダーに恩恵を与えるものでなければなりません。2つの考え方が対立すること自体が問題なのですが、当時の私はそこまで気が回りませんでした。社長だったのに「どうすれば会社を良い方向へ導けるか」というビジョンを持ち合わせていなかったのです。

その結果、対立が思わぬ形で表面化してしまいました。11年1月、社長を退いた会長が株主を巻き込み、株主提案を突き付ける事態にまで発展したのです。一部の取締役が経営を実質的に支配しているとして取締役の刷新を求める提案でした。

提案株主と話し合いの場を設けましたが残念ながら決裂し、会社として会長の職を解くことを決めました。この騒動は世間に知れ渡り「お家騒動」「内紛」などと厳しい批判も浴びました。私は店長や料理長など、幹部クラスの従業員を集めて会社の現状を説明する必要に迫られました。

そこでの出来事は今でも忘れられません。一通り説明を終えて、「ゴタゴタが起きて皆さんには申し訳ないけど、今いらっしゃるお客様に迷惑がかからないように頑張ってください」と私が伝えた時です。1人の従業員が突然手を挙げて大声で言いました。「社長、大丈夫です。我々は経営陣なんて一切見ていませんから。お客様しか見ていませんから」と。

ああ、これは私に対する痛烈な皮肉なんだ。そう心に突き刺さりました。「今のロイヤルは経営陣と現場を支える従業員との間に大きな溝が横たわっているのだ」と痛感しました。本気でこの会社を何とかしなければと思い始めたのはこの時からです。初めて経営者としての本当の自覚が芽生えたと言えるかもしれません。

そのすぐ後に発生したのが東日本大震災でした。皆さんのご記憶の通り、地震がもたらした被害は甚大でした。我々も物資の調達が困難になり、「ロイヤルホスト」を中心に東北地方の多くの店が営業できない状態になりました。そこで会社が決めたのが、トラックに支援物資を積める限り積んで応援に行くこと。13日に最初の支援チームが出発し、私も「15日までには現地の状況視察を兼ねて応援に行く」と社員に伝えていました。

(中略)現地の様子を自分の目できちんと確認したい気持ちからの行動でしたが、想像以上に従業員たちが喜んでいました。「社長が自分たちと同じ船に乗ってくれた」。そんな印象を持ったようです。それが全国の従業員に伝わり、私に対する見方や会社の雰囲気が変わるきっかけになった気がします。

宮城県の東南端にある山元町では、30人ほどのチームを組み、がれき撤去のお手伝いをしたり、避難所にいる被災者に煮込みハンバーグや豚の角煮丼などの温かい食事を提供したりするボランティアもやりました。そのときのことを今も鮮明に思い出します。

ホテルに戻ると毎晩、皆が集まって何か話し合っています。何をしているのだろうと思ったら、食事内容や提供方法について改善するところはないか、反省会を開いているのです。これには感動しました。「この会社にはお客様のことを思う素晴らしい従業員がたくさんいる。もっと彼らが輝ける場を用意してやらねば」と心から思いました。

従業員がお客様に良いサービスを提供できる「仕組み」を作るのが経営の役割であり、それがゆくゆくは会社の業績につながっていく。新米社長の私はそのことにようやく気付いたのです。経営と現場が問題を共有し、同じ方向を向かなければ会社は立て直せないと。

それから、私は1人でこっそり店舗に足を運ぶようにしました。店長会議など、普段の会議ではなかなか出てこない現場の「本音」を知りたかったからです。コーヒーや軽食を頼み、店長の時間ができそうな時を見計らって声をかけました。現場が抱えている問題を色々と聞き出せる有意義な機会でした

(中略)従業員向けに決算説明会を開き始めたのもこの頃です。ロイヤルの置かれている現状を説明した上で、会社の方針や今後の施策を伝える場を作れば、従業員もモチベーション高く仕事に励んでもらえるのではと思ったのです。(中略)経営と現場との距離を徐々に縮める。私がロイヤルの経営の立て直しに挑んだ数年間は、そのための地道な活動の繰り返しでした。

ロイヤルの菊池社長(当時)が経営の立て直しに取り組んだことは、トップダウンではなく、店舗で働く社員一人ひとりの本音を経営の意思決定に活かすことだったようです。東日本大震災の混乱の中で、自らの役割を、「従業員がお客様に良いサービスを提供できる「仕組み」を作るのが経営の役割であり、それがゆくゆくは会社の業績につながっていくことだと気づいた」という言葉にその意志が凝縮されていると思います。

さらに、「経営と現場との距離を徐々に縮める」べく、「従業員向けに決算説明会を開き、会社の方針や今後の施策を伝える場を作ることで、従業員のモチベーションを高めることに取り組んだ」と述べています。私が考えるイノベーションの条件である、「自分の考えをメンバーに押し付けない」「経営が目指す絵を描きメンバーに見せる」「経営上の重要情報をメンバーと共有する」にぴったり符合します。

今回は、アフターコロナに私たちを待ち構えている「ニューノーマル」の姿について様々な視点から考察しました。

「ニューノーマル」において、実現に取り組むべき目的は、従来のように、権力を持つ側が一方的に決めるのではなく、一人ひとりの認識を集めて共通認識を見出し、共通理解を醸成して、すべての人が、たとえ満足できないとしても、受け入れられる状態にする。

そして、

誰一人漏らさず全員が一致して取り組めるかどうかにかかっていると思います。

それこそが、新型コロナ後の、異常事態がノーマルになる、「ニューノーマル」への変化対応的な自己変革力を備えることになるという気づきを得ました。今後、「ニューノーマル」についての概念は、様々な変遷を経て徐々に明確化されていくと思いますが、「人間中心主義」に基づいたものでなければならないということを、私は主張し続けたいと思います。

民主主義とイノベーション

成功するトップが、人並外れて持っている能力っていったい何なのだろうかと、これまで私が仕えた方々のことを思い出しながら考えてみました。

一つは、場の空気を読む力。もう一つは、一人一人のメンバーの気持ち(考え)を把握する力、ではないかと。今回は、そんな考えに至った理由を書きたいと思います。

2021年が始まるや否や、コロナ感染の拡大を受けて政府は、東京、神奈川、千葉、埼玉に緊急事態宣言を発出しました。その後も、全国に感染拡大が広がる中で、各道府県の知事達からは、「自分たちの道府県にも緊急事態宣言の発出を」との声が出始めています。一方、菅総理は、現時点では、「数日間様子を見極めたい」とし、対象地域の拡大について明言を保留しています。そのような中で、次のようなネットニュースが配信されました。

緊急事態宣言下で迎えた3連休中日の10日、首都圏の商店街や商業施設は、多くの人でにぎわいを見せた。外出自粛が叫ばれるものの、客からは「昼くらい外で飲ませて」「店は開いている」と本音が漏れた。東京・上野のアメ横商店街(台東区)は、午後には人をよけないと歩けないほど混雑した。各所に消毒液が設置されたが、大半の人は素通り。「昼飲み」を楽しむ満員の客で盛り上がる店もあった。千葉県船橋市の大型商業施設でも、多くの家族連れや若者がショッピングを楽しんだ。セールに人だかりができる衣料品店や、入店待ちで行列する食品量販店もあった。フードコートは各テーブルがアクリル板で仕切られ、感染対策の注意書きが各所に。ただ昼時でも満席にはならず、客は自然と間隔を空けて座っていた。テーブル用の除菌シートを使う人はごく一部。料理の取り分けや、マスクを外したおしゃべりも散見され、緊張感はなかった。

 家族で訪れた浦安市の女性(35)は「店舗ごとにも消毒があったし、このくらいの混雑なら特に不安はない」。買い物袋を抱えた10代の3人組は「バーゲンに来た。自粛とはいえ店は開いているし、閉じこもってばかりいられない」と話した。 

このニュースを読む限り、感染者の急増で各地の保健所、医療機関の業務はパンク状態であるにもかかわらず「自分は無関係」だと自己解釈して、通常生活を続けようとする人が一定数いることが分かります。

一方、このニュースに対して、ある人が書き込んだ次のコメントが印象的でした。

同調圧力相互監視で抑え込んでいた日本モデルは崩壊しつつある。短期で済めばまだしもここまで長期化すると、もうやってられないよって人が増えた結果。今、去年の春と丸々同じ事やってもあの時程の自粛はしないと思うよ。

日本モデルの感染抑え込みとは、「同調圧力」と「相互監視」だった、というコメントを読んで、はっとしました。

というのも、最近、ネット配信の教養講座で、社会学者の橋爪大三郎さんが、日本特有の「同調圧力」と「相互監視」について、分かりやすい説明をしているのを聞いたからです。

橋爪さんの見立ては次の通りです。

日本文化には「正典」がない。正典とは、世界4大文明である、キリスト教文明の聖書、イスラム教文明のコーラン、インド文明のヴェーダ、中国文明の儒教(四書五経)のような、人々の思想、行動のよりどころ。政治、経済など、世俗におけるあらゆることを決める「道徳的規範」のことだ。では、正典を持たない私たち日本人は何をよりどころとしているかというと、周囲の人の言動をみて、これに合わせることによって道徳的規範を保っている。

橋爪さんの言葉にある、「周囲の人の言動をみて、これに合わせる」とは、「相互監視」機能を強化し、「同調圧力」を高めることと符合します。

さらに、「同調圧力」が高まると、非言語的な「空気(つまり道徳的規範)」が醸成されて、やがて人々は見えない「空気」に従うようになる、との仮説が頭に浮かびました。

菅総理が、緊急事態宣言の発令地域拡大の意思決定を、

「数日間様子を見極めたい」

と述べたのは、意思決定に必要な科学的エビデンスが揃うのを待つためではなく、

「発令地域拡大はやむなし」

という

「空気」

が人々の間に醸成されるのを待つためではないでしょうか。これを、大和言葉では、

「機が熟すのを待つ」

と表現するのだろうと思います。仮に、合理性に則って判断するのであれば、広がり続ける感染を食い止めるために、速やかに緊急事態宣言の対象地域を拡大すると思います。しかし、菅総理のように、多くの日本人は、合理性よりも「空気」の醸成を期待し、無意識にそれに従ってしまうようです。

関東軍による満州での軍事活動の拡大。海軍の真珠湾攻撃による太平洋戦争の開戦。そして極めつけはポツダム宣言受諾の判断を遅らせたのも、この「空気」だったと、当時を知る人々が異口同音に口にするのを、NHKの特集番組で視ました。

さらに、「空気の研究」で有名な、山本七平さん(故人)は、この「空気」が現代の日本社会の隅々までを支配し、様々な問題を引き起こしていると述べています。そして、そんな言説を、コロナの感染拡大以降、頻繁に見聞きするようになったような気がします。

それは、前提が役に立たない異常事態が続くなかで、「同調圧力」や「相互監視」といった目に見えない「空気(道徳的規範)」が、私たちを支配しているという「感覚」に、多くの人が気づき始めたからではないでしょうか。

さらに、「空気」に加えて私たちの社会をより複雑にしていると考えられるのは、「本音と建前の文化」です。私たちが進んで従っているように見える「空気」ですが、実際には、それほど納得している訳でも、受け入れたいと思っている訳でもない、ということが多いのではないでしょうか。

以前、お世話になったアメリカ人英語教師が、言っていたことを思い出します。

「日本に来てびっくりしたことは、実際の日本人が、それまで考えていた日本人像と全然違うことだった。それは、日本人が一人ひとり非常にユニーク(個性的)だということ。むしろ、アメリカ人の方が一般化しやすい。多くの外国人がもつ日本人像である、集団的、没個性的というのは当たっていないと思う。」

彼の言葉を信じるなら、本来個性的な日本人が本音を言わず、一見すると同質に見えるのは、所属する集団に「同調圧力」と「相互監視」が働いていて、場を支配する「空気(道徳的規範)」を乱すのを恐れるからではないでしょうか。

さらに、本音を表に出して「同質的な関係」を壊し、自身が「異質化」して、集団から「監視」される立場になることを恐れるからかもしれません。少なくとも、日本人である私はそのように考え、これまで本音を隠しがちだったという自覚があります。

冒頭、成功するトップは、人並外れた、場の空気を読む力と、一人ひとりのメンバーの気持ち(考え)を把握する力が備わっていると述べました。言葉を変えれば、メンバーを「相互監視」する「同調圧力」が何かが分かっている。さらに、メンバー一人ひとりが「空気(道徳的規範)」に対してどのような「本音」を持っているのかを「掌握」している。ふたつの力を併せ持って、メンバーと組織を望ましい方向へと導くことができるのではないかと私は考えています。

そして、トップが備えるふたつの力、「空気を読む力」と、「メンバーの本音を把握する力」は、これまで何度も書いている、イノベーションの条件と符合するようです。そこで、空気を掌握できず、メンバーの本音がバラバラでも放置してしまうようなトップの下では、イノベーションはなかなか起こらないということが分かる話を紹介したいと思います。

参考にしたのは、台湾のコロナ感染対策を担った、デジタル担当政務委員(閣僚)、オードリー・タンさんが、「なぜ台湾の人々は「コロナ危機」を共有できたのか」というテーマで語った内容です。

タンさんは、ここで、「民主主義とイノベーションの関係性」について興味深い発言をしています。

新型コロナウイルス対策に当たった蔡英文政権の面々は全員、SARSのときの経験を共有しています。疫学研究者出身の陳建仁・前副総統(2020年5月で退任)をはじめ、多くのメンバーがSARS流行前後で重要な役職に就いていました。また、現在の政権内には、感染症や公衆衛生の専門家がたくさん含まれています。これは、公衆衛生の観点から言えば、「少数の人が高度な科学知識を持っているよりも、大多数の人が基本的な知識を持っているほうが重要である」ことを学んだ結果だと思います。

基礎的な知識を持っている人が多ければ多いほど、情報をリマインド(再確認)し、お互いに意見を出し合ったり、対策を考えることができます。逆に、少数の人のみが高度な科学知識を持っているだけの状態では、何が起こっているか理解していない人が多いということです。想像してみてください。もし前代未聞の出来事が起きたときに、誰にも相談できず、あなただけに決定権が託されたとしたら、果たして的確な判断を下せるでしょうか。このことからも情報の共有がいかに大切なものなのかがわかると思います。

それとともに重要になるのが、「エンパワー(empower)」の概念です。これはトラブルやハプニングに直面した際に、すぐ反応して状況を変えていこうとする力を意味します。誰かから強制されなくとも、主体的に動き、困っている人に積極的に手を差し伸べる。多くの人がそうした力を持つことで、困難な問題も解決に導くことができるのです。今回の新型コロナウイルス禍で台湾の人々がとった行動は正にこうしたことだったと思います。

(中略)民主主義社会においては、イノベーションは社会全体に広がっていきます。決して中央にいる一握りの人たちが他の多くの人々に強制するものではありません。ですから、中央の状況と他の地域の状況が異なっていれば、それぞれに適合したより新しい方法が生み出されていきます。それは、台湾の人々がこのウイルスの仕組みを正確に理解していたからであると言えるでしょう。

このようにして、政府と人々の間にパンデミック(世界的大流行)に備えるための意識が共有されていきました。今回、「手洗いの徹底」「ソーシャルディスタンスの確保」「マスク着用」といった政府の要請を、人々がすぐに実行に移すことができたのは、この意識の共有が一番大きなポイントでした。(出典:幻冬舎GOLD ONLINE 2021年1月7日付より)

つまり、台湾では、政府が国民に正しい情報を発信し、それらが共有されていく中で国民の意識の変化(空気)を読み、国民が望んでいること(本音)を把握して、常に最適なリーダーシップが発揮できるような政策的取り組みをしたというのです。それが台湾の民主主義であり、その民主主義においては、イノベーションが社会全体に広がっていく状態を指すこと。そして、その担い手は、中央にいる一部の専門家や政治家ではなく、基本的な知識を身につけた国民一人ひとりだと言っています。

では、私たちの日本は、果たして台湾が目指しているような民主主義と比較してどんな状態にあるのでしょうか。いま一度、私たちが属する会社、学校、地域などあらゆる組織に、タンさんが述べている民主主義の原則、

一人一人が、基本的な知識を身につけていて、強制されるのではなく、社会全体にイノベーションを広げる担い手としての役割を期待されているか

に照らして、総点検してみる価値があるそうです。自信をもって「一致する」と言えないならば、その組織は何を目指しているのか。何を拠り所として運営されているのかをしっかり見極めた方が良いと思います。

ここまで述べたことをまとめます。

トップが「空気を読み」「一人ひとりのメンバーの本音を把握」する力を備える。さらに、私が考えるイノベーションを起こす三条件、「自分の考えを押し付けない」「ありたい会社の姿を示す」「経営上の重要な情報を共有する」を実践すると、自ずと「創発が生じイノベーションが起きる」ことが、台湾のコロナ対策から知見を得ることが出来ました。

しかし、こんなことを言うと多くのトップから反論されそうです。

「民主主義なんてとんでもない。メンバーがやりたいことを勝手に始めたら収拾がつかなくなるじゃないか。」

「メンバーをコントロールできなくなったら社内は混乱するに決まっている。」

このような反論への抗弁を考えました。そして、たったひとつの、シンプルな方法を見つけました。それは、

「メンバー一人ひとりの考えや意見に耳を傾ける」

という方法です。そして、仮にですが、1,000人が1,000個の異なる意見を出したとしても心配する必要はありません。1,000個すべてに対応する必要は無いからです。

但し、1,000個の意見を漫然と聞き流していてはだめで、必死に聴いて1,000個の中に潜んでいる傾向、つまり共通項を言語化(抽象化)するのです。これをドイツ語で「アウフヘーベン(止揚)」と呼びます。

次回は、「アウフヘーベン(止揚)」と、それを実践したトップの事例について書きたいと思います。

経営の神様の金言②(本田宗一郎さん)

新年を迎えた日本は、コロナウィルスの感染拡大で揺れています。菅総理大臣は1都3県に緊急事態宣言の発令を決定し、これから私たちの生活にどのような影響が出るのか戦々恐々とした雰囲気が漂っているようにみえます。

具体策の一つとして、飲食店の営業時間を20時までとする、罰則規定を設けた規制が行われるようです。罰則規定が設けられるという点について、緩やかな規範の下にやってきた方針の大転換だと問題視する意見がマスコミや識者と呼ばれる人たちから出ています。なんとか年末年始は乗り切りましたが、今後一定期間は継続的に感染者数が増加することは避けられそうもないので、医療機能不全を回避する対処療法的な対策と、先々を見据えた感染拡大抑止策の両面から舵取りをしなければならない政府には、非常に高度な判断が求められます。

日本の場合、残念ながら問題が大きくなってしまった訳ですから、まずは顕在化した問題への対応に優先度を上げて取り組まなければなりません。このような状況に陥るとモグラ叩きゲームのようになった医療現場は疲弊し、人は離れます。よって、目下、最も重要なことは、医療機関からの医師、看護師の離反を防ぐということで、その一点にあらゆる手段を講じなければなりません。それが出来ているのか、いないのか、連日テレビに出演している医師の話しを聞くと、十分な対応が出来ているようには見えません。それよりも、人々の関心が、飲食店の営業時間短縮や、ワクチンの安全性に向いているようです。それは、政府が正しい情報を提供し、人々の素朴な疑問に真摯に応える等して、適切に導いていないからではないかと思います。

台湾のコロナウィルス感染対策の先頭に立つIT担当大臣のオードリー・タン氏が、NHKの特集番組のインタビューに答えていた次の言葉が印象的でした。

「感染対策で最も必要なことは、政府が国民を信じる(Trustする)ことです。信じれば、国民が政府を信じ返して(Trust backして)くれる。」

相互の信頼関係が台湾のコロナウィルス感染対策の理念になっていること。その点の圧倒的な不足が、日本の対応を迷走させ、いつまで経っても国民に納得感を与えられない真因だと、私は感じています。

さて、本題に入ります。前回の松下幸之助さんに続き、もう一人の昭和を代表する名経営者であった「本田宗一郎さん」の金言と、私が考えた3つの、「創発が生じ、イノベーションが産まれる条件」と符合するか、検証したいと思います。

参考にしたのは、前回同様、週刊東洋経済のバックナンバーです。「インタビュー本田宗一郎1973年9月1日 3758号「わが退陣の弁 もう若い者の時代」です。

このインタビューは、本田宗一郎さんが、本田技研工業創立25周年を機に、副社長の藤沢武夫さんと一緒に経営の第一線から退く意図を明らかにしたことを受けて行われたものです。本田さん66歳、藤沢さん62歳だった当時、決して老齢というわけでもなく、しかも、創業者社長の去り際があざやかだともてはやす記者(インタビュワー)の言葉に対して、本田さんは何と答えたでしょうか。

「人間はなま身なのだから、いつ、どうなるかわからない。事故や病気で明日にでも死ぬかもしれない。だから、われわれがいなくても経営できるようにしておくのが、株主や従業員に対する義務だと思うんですよ。経営者というのは“かけがえのない人”であっちゃいけないんだ。その経営者が急に死んでも、ちゃんと経営ができるようにしておくというのが、経営者の役目だと思う。」

と言っています。これが、本田さんの基本的な考えです。

だから、

「こういう考えで、藤沢副社長と二人で早くから後継者を育ててきたわけです。そして、後継者が育ってきたら、私たちは早くバトンタッチすることがいい。」

として退任を決めたようです。

その準備は退任の10年程前から、「重役会にほとんど出なかった」という行動から一貫していたようです。

そこで、【条件①:トップがメンバーに自分の考えを押し付けない】に関連したことを、本田さんは次のように語っています。

「なぜ(重役会)に出ないかというと、私でも副社長でも、出席して「こういうふうにしたらどうだい」と役員たちに相談をもちかけると、こっちは相談のつもりでも、相手は命令と受け取っちゃうんですね。だから、われわれは出席しないで、若い役員たちだけで議論をしてもらう。(中略)こういうことをやってきたから、うちは若い人がどんどん育ってきたわけだ。」

私は、人材育成担当者の交流で、青山の本田技研工業の本社で人事部の方から話しを伺ったことがあります。本田さんが引退され、お亡くなりになられて数十年も経つのに、社員一人一人のやる気と、強みを発揮する環境の醸成を第一に取り組む、「ホンダイズム」が脈々と受け継がれていることを目の当たりにしました。

例えば、これはどこの会社でも同じですが、「上司は部下を育てる役割」を担っています。そして、たいていの企業では、部下育成の取り組みを人事評価基準に入れる等、対策を講じますが、ホンダではもっと根本的に、「上司が部下を育てない原因」を徹底的に考え抜いて対策を講じたそうです。

お名前は失念しましたが、人材育成の責任者の方は次のようにおっしゃっていました。

「上司が部下を育てない理由は、優秀な部下に依存してそうでない部下に頼る必要がないからです。だから、ホンダでは優秀な部下を抱え込まないようにするために、高い人事評価を与えられた社員(部下)は、一定期間を経過すると他部門に異動させなければならない、という厳格なルールがあります。そのため、上司は、4番打者はいずれいなくなると分かっているので、次の4番打者、さらにその次の4番打者の候補を育てざるを得なくなり、自然に人材育成が促進するのです。」

この言葉はまるで、「重役会に出ない」ということを自らに課し、次世代に任せて育成を行った本田さんの智慧に倣っているかのようです。

実際にインタビューで本田さんは次のように語っています。

「これからも本田技研はいまのシステムでずっとやっていくでしょうね。今後、経営者に突発事故が生じても、経営自体はちゃんと回転していくだろうと、自信を持っていますよ。」

個人の自主性に依存するのではなく、育成が促進するシステムを講じて運用する。目から鱗が落ちる思いをしました。

続いて、【条件②:トップとメンバーが同じ絵を見ている】についてですが、本田さんの場合、あることがきっかけで、同じ絵を見続けてきた社員が、自分よりも優れた考えを持つに至ったことを痛感して引退を決意したと語っています。記者からの、「若い社員の人たちと、ものの考え方でギャップを感じるようになりましたか」との質問に対する本田さんの以下の回答は非常に興味深いです。

「感じるですね。低公害エンジンの開発でも、私は開発に成功すればGMやフォード、トヨタ、日産などとこの排気問題に関しては同一のスタート・ラインに立てると考えた。ところがこれが若い人たちから猛反対を受けた。「社長は企業本位に立って排気ガス問題を考えているが、それはまちがいで、社会的責任の観点から開発に努めるべきだ」というわけだ。全く彼らの言うとおりだ。」

全面的に社員の言葉に理解を示したうえで本田さんは自己を内省します。

「長く経営にたずさわっていると、どうしても経営の苦労がしみ込んで、つい経営というものを基盤においた話をしがちである。ところが、最近は企業の社会的責任が非常にやかましく言われだした。こうした急激な変化に対応するには、私も年老いたなということをはっきり認めざるをえない。こうした問題は、どこの企業でもかかえていると思うんだが、トップが早く認識するかどうかの違いだろう。それは、下の意見が上に通じているかどうかによる。」

さらに、経営にとって耳の痛い意見でも言いやすい環境を整えていたと本田さんは続けます。

「本田技研ではふだんから、誰でも私や藤沢副社長にずけずけものを言えるようにしてある。若い従業員は純粋な立場から企業責任を考えている。こうした意見が、すぐにトップに反映するようにしてあったということは重要だと思う。」

そして、結論として自らのポリシーを語ります。

「経営者としては、従業員の心の中に生きることを考えていけば、自然と、企業の社会的責任の問題だって解決できると思う。従業員の心の中に生きることはいちばん大事なことではないかな。それは、大衆の心を知るという一つの基本なのだ。」

本田さんの言葉は、冒頭私が書いた台湾のオードリー・タン氏の言葉、

「感染対策で最も必要なことは、政府が国民を信じる(Trustする)こと。信じれば、国民が政府を信じ返して(Trust backして)くれる。」

に通じると思いました。人が人と心を通わせることが、成功の普遍的要因であることを、時空を超えて、お二人が教えてくれているようです。

【条件③:トップとメンバー間で経営上の重要情報が共有されている】については、インタビューでは具体的な話をされなかったようです。しかし、経営上の重要情報が共有されていなければ、社員の育成にも成功できなかったでしょうし、社会的責任を果たすべきだという社員の言葉は出なかったと想像します。

本田さんにとって、会社存在の目的と事業の目標を達成するために、社員と経営の重要情報を共有して、一体化することはあまりにも当たり前すぎて、敢えて語るまでもないことだったのかもしれません。

2回に渡って、「経営の神様」と「昭和の名経営者」、お二人の金言を振り返り、答えのない時代に企業が継続的に成長発展していくための智慧を探りました。

次回は、現代を生きる経営者の言葉の中から、「創発を生じ、イノベーションを起こす」条件を探ってみたいと思います。

経営の神様の金言①(松下幸之助さん)

今日12月31日は、コロナウィルスの感染で世界中が大混乱に陥った2020年の最後の日です。来年はどんな一年になるのでしょうか? 日本でもワクチンの接種が始まり、抗体を持つ人が増え始めると感染者数も徐々に減少していき収束に向かっていく。そんな目途が1年以内に立つことを祈るばかりです。

感染収束のために、一人一人が感染を広げないように努力する必要はありますが、多分に不可抗力の面が大きいので、じっと、その時が来るのを待つしかない、という覚悟が必要かもしれません。ポイントは、どのような心持ちで「待つ」のかということだと思います。

年末年始の今こそ、来年はどんな過ごし方をするか、一人一人の知恵が試されるときです。

私にとって2020年は、このブログでこれまでの仕事経験を書き出したり、30年近く音信不通だった友人と再会したりした、「振り返る年」でしたので、来年は、「未経験のことに挑戦する年」にしたいと考えています。

そこで、「挑戦」を向ける先として考えているのが、次の2つのテーマです。

一つ目は、組織の視点から、私が考えた、「創発を生じ、イノベーションを産む条件」を企業に提案して組織に実装すること。

二つ目は、働く人一人一人の視点から、私が考えた、「3つの人生の座標軸」 ①良い人間関係 ②人生の目的 ③好きな仕事 を備えて、イキイキとして輝いている人が、企業に蓄えられるように支援することです。

いずれも、ブログに書いた、これまでの人事の仕事を通じて見聞きした、経営者や従業員のリアルな姿を通じて気づいたことがベースになっていて、私がライフワークとして取り組みたいテーマです。

私が2つのテーマに取り組むにあたり自身に課すことは、「多くの人との出会いの場をつくる」ことです。そして、自分のこと(やりたいこと、出来ること)を分かりやすく伝えて関心をもって頂く。そして、先入観なく、お話しを聞かせて頂いて、自分が出来ることを提案、提供し、喜んで頂いてお一人お一人と信頼関係を築く。そういう好循環を起こしていきたいと思っています。

初対面の人に関心をもって頂くためには、私がお伝えする言葉に誤りがあってはいけません。そこで、「創発が生じ、イノベーションが産まれる条件」について、以下3つの条件の妥当性を検証してみたいと思います。

条件①:トップがメンバーに自分の考えを押し付けない

*前回までのブログでは、「トップがメンバーに答えを求め過ぎない」と書きましたが、トップが、自分が持っている考え(答え)に固執して、これをメンバーに押しつけると、創発が生じにくくなるという方が適切と考え訂正しました。

条件②:トップとメンバーが同じ絵を見ている

条件③:トップとメンバー間で経営上の重要情報が共有されている

これらを念頭に置いて、成功した経営者が語った言葉を確認していきます。まずは、「経営の神様」、松下幸之助さんの言葉です。

「今はインターネットとデジタルの時代。AIが人間にとって代わろうとしている、そんなときに大昔の人の言葉を引き合いに出しても、あまり意味がないのでは?」と反論される方がいるかもしれません。

私も少し自信がなかったのですが、あまりにも有名すぎる松下さんの言葉と逸話を読み返したところ、いまでも色あせていない金言にあふれていました。

これまで数えきれないくらいの多くのリーダーたちが、その拠り所としてきた松下さんの言葉が果たして、私の掲げた「イノベーションの3つの条件」と符合するでしょうか。

参考にしたのは、東洋経済のインタビュー「松下幸之助縦横談(1953年8月15日2588号)です。

まず、【条件①:トップがメンバーに自分の考えを押し付けない】に関連することを述べておられますので抜粋します。

「皆が僕にワンマンというが、なるほどワンマンのような形であるけれども、僕自身ワンマンではない。僕の知慧というものは全社員の知慧の一端をもらい、そこでカクテルにして要するに返還しておるのです。僕は権力的なワンマンではない。皆の代弁者になっておるだけで、要するにアメリカの大統領のようなもので、社員の意志を意志としてやっておるわけですな。」

「この頃は非常に高度な技術が必要でしょうだから実際のところ、わからんことに頭を使わないようにしております。それより皆の働いておる姿を、枯らさないようにせねばいかん、これを伸ばすようにすることが、自分の仕事でもあり、立場でもあると思っているのです。だから僕は技術者に対して、もっといいものにしてくれんかというと、ではどうしたらいいですかという。そんなことはわからん。君が考えよ、と僕はいいます一分でしまいですわ。」

松下さんは、結果に対して絶対に妥協しない非常に厳しい方だったそうですが、これらのコメントを読むと、一方的なトップダウンで押さえつけるのではなく、社員の意志とアイデアを経営に生かすことに苦心されていたことを垣間見ることが出来ます。

また、社員の力を生かしたのは、ご自身が病弱であったこと、また、学歴がなかったからそうせざるを得なかったという次のコメントも興味深いです。

「その当時、相変わらず肺が一向によくならない。(中略)それですから勢い人に仕事をしてもらう。これが却って伸びた所以だと私は思っています。余り自分が偉いのはいけません。余り偉い人の下では人間は育たない。一概にはいえませんが、総じてそうです。私はそんなに学校に行っていないので、今も手紙一本自分で満足に書けません。だから人に頼む。そうすると思いは千里を走るというふうにもいくのです。要するに私が体が弱かったこと、学問がなかったことが却って私に幸いしております。」

ここでおっしゃっている「偉い」というのは、「威張っている」という意味ではなく、「優秀過ぎる人」、というのが本意だったのではないでしょうか。そういう人の下では社員はいつまでたっても主役になれない。だから育たないということをおっしゃりたかったのではないかと想像します。

続いて、【条件②:トップとメンバーが同じ絵を見ている】に関連してつぎのような発言をされています。有名な「水道哲学」の解説とその扱いについてです。

「それは昭和七年五月五日です。その時は職工さん以外の所員―社員でなく所員といっておりました。製作所ですから、百数十名を電気倶楽部に集めて、松下電器の使命というものを宣言したわけです。今までわれわれは無自覚に、社会通念に基づいて勉強してきたけれども、今日只今からそれだけじゃなく、そのほかにわれわれは目醒めたところの一つの使命にたたなければならない、というて水道の水の話をしたんです。水道の水は、つまり加工したもので必ず値段がついている。が、道端の水道をひねって渇を癒やす。これは盗むわけです。けれども水を返せと言っても誰も咎めない。それは水があまりにも安いからです。安いのは量が多いからです。ところが電気器具にしてもその他のものにしても、実際の効果からいえば水よりも力のないものです。それが値が高くて、盗んだら咎められるということは、量が少ないからです。だから水のようにすべての物資を作り出すということが必要である。そうすると貧からの悩みがなくなってくる。四百四病の病より貧ほどつらいものはないといわれているが、その貧困をなくすることがわれわれの使命や。われわれの仕事というものは物資を無尽蔵に作って貧をなくするということです。ところが物だけではいかん、人間の心の問題もある。それは宗教家におまかせするとして物の方なら自分の力によって多少づつでもできるわけです。そうすると宗教と同じで尊い仕事や、心の渇を癒すか、物の渇を癒すか、いずれにしても尊い仕事や。われわれはこういう尊い使命に生きようじゃないか、というふうに指導精神を確立したわけなんです。」

昭和七年で、既に、社員と社会から共感を得られる事業の目的を定めて「指導精神を確立した」というのは、日本におけるビジョン経営の先駆けだったのでしょう。松下さんが、もし今の時代に生きていたら、いったいどんなビジョンを掲げるでしょうか。きっと、世界の潮流において日本が果たすべき役割を分かりやすく言葉にして、みんなにいいねと言われる絵を見せてくれたに違いありません。

最後に、【条件③:トップとメンバー間で経営上の重要情報が共有されている】について、松下さんはどう言っていたでしょうか。

「二百人なり二百五十人の規模になった時、はじめて事業家としての使命がなにかあるんじゃないか、それはどこにあるのかということを考えた。それはどんな考えかというと、当時個人経営でしたが、この仕事は個人のものと違うと思った。世間から委託されているものであって、だからその委託者に対して忠実に仕事をすることが、事業家としての使命である。こういうことを考えた。だから私事を許さない。それ以来は個人経営だけれど個人の金と店の金を区別した。そしてずっと毎月決算して、当時幹部もできていたので、その幹部にも見せ、今月は諸君の努力によってこんなに儲けたと、毎月利益を発表しました。」

ここでは、松下電器が、個人商店からパブリックカンパニーへと脱皮する姿が語られています。それは、事業家として果たすべき使命だと。そして、まずは公私を区別する。そして、公の部分に関する情報は社員と共有して目標達成に向けて一体感を醸成したのだと思います。経営上の重要情報の共有は、個人商店とパブリックカンパニーとを分ける一つの重要な指標になりそうです。

これらは偶然なのか、必然なのかは分かりませんが、「経営の神様」が、私が考えたイノベーションの条件について、ずっと昔に言及されていたことを知り、とても勇気づけられました。

次回はもう一人の「神様」、昭和の名経営者、本田技研工業の創業者「本田宗一郎さん」の言葉を確認してみたいと思います。

優れた経営者の条件

前回のブログで、911同時多発テロの発生に際して従業員の安全を第一に英断を下された社長Hさんのことを書きました。今回も引き続きHさんについて書きたいと思います。

世の中には優れた経営者はたくさんいます。人並外れて、新しい事業を産み出す創造力が豊かで、意思決定に際しての判断力や決断力が優れている。一旦始めたことをあきらめない意志の強さ、執着心。そして、あくなき欲望とそれを制御する倫理観、道徳心を兼ね備えていること、等々。要素分解して数え上げたら切りがないと思います。一方、優れた点を数多く備えていれば必ず成功するかというとそうでもなく、リリーフのタイミングが、外部環境に対して自社の強みが発揮し得る状況にあるかどうかなど、その人の能力以前の条件面によって左右するのではないでしょうか。そこで、経営者に求められる最大の資質は「運の強さ」等と言われるのではないかと思います。

私が仕えた社長Hさんはどうだったかというと、カリスマ的な創業者、続いて野武士のような2代目社長と比較すると、最初は「平凡な人」だったのではないかと思います。しかし、その人が業界のカリスマと言われるまでになられたのは何故でしょうか。私が考えるHさんのすごさは「人の心の機微に敏感で、且つそれを繊細に扱って周囲の人を味方にしてしまう卓越した人望の持ち主」だったと思います。徹底的に平凡を極めた人。それが私のHさんのイメージです。私がそのように考えた理由、Hさんとの想い出をたどりたいと思います。

私が初めてHさんと言葉を交わしたのは1995年、入社2年目の春でした。当時の私は、エンジニアの真似事を1年間経験して本社の営業部に戻された直後で、契約書の管理や製造子会社との調整を見様見真似でやっていました。ある日、部長Yさんに、お客さんからの取引条件変更の要望について質問したところ、それは「Hさんの決定事項だから、直接Hさんに質問して」と言われました。Hさんは当時複数の営業部を統括する事業部長(取締役)でした。普通の会社ですと、入社2年目の下っ端が事業部長に直接質問出来るかというとちょっとあり得ないと思うのですが、この会社では割と普通にそういうことが行われていました。私は緊張してHさんの部屋を訪ねました。社長以下、全ての個室はドアを開けておくというルールがありましたので、外から在席されているのを確認してドアをノックし「どうぞ」と言われたので部屋に入りました。

Hさんは机の上にあるたくさんの書類に目を通されていましたが、一旦両手を止めて、私の目を見ました。私は部長YさんからHさんに直接質問するように言われて来たこと。そして、お客さんからの取引条件変更の要望について質問しました。Hさんはすぐに判断して下さり用件は済みました。私は一礼して部屋を出ようとしたところ、Hさんから呼び止められ振り返りました。Hさんは笑顔で私の方を見据えて、

Hさん「君は〇〇部に新しく配属されたんだよね。名前は何と言ったかな?」

とおっしゃいました。

私「大西と申します。どうぞよろしくお願い致します。」

Hさん「そうか、頑張ってね。これから会社はどんどん大きくなるよ。その時、若い君たちの力が必要なんだ。期待しているよ!」

私は、大先輩に交じって自分のような者が本当に役に立てるのだろうか。足手まといにならないかとどこか不安を覚えていたと思います。しかし、Hさんの笑顔と、私に掛けて頂いた言葉を聞いて、その不安は一瞬で消えてしまったような感覚になりました。Hさんは、一瞬で人の気持ちを掴む達人だったのではないかと思います。後にも先にも、就職した会社でこのような方に出会ったことはありません。

その後、九州の製造子会社からOさんが出向で着任されて、私はその方と一緒に仕事をすることになりました。ちょうどそのころ、欧米のお客さんから代理店を介さない直接取引が求められていました。理由は、代理店のエンジニアリングサービスの品質が一向に高まらない事。また設備の改良についてもメーカーである当社に声が届かずお客さんのフラストレーションがたまっていて、そのことがさらなる事業拡大の足かせになっていることが問題視されていました。そこで、野武士のような2代目社長Iさんは、突然「グローバリゼーション」というスローガンをぶち上げ、半年以内に代理店契約を解除し、全ての顧客への直接販売、直接サービスをすると宣言しました。そして、各営業部に対して、取引条件の決定や、欧米の拠点の立ち上げ、人材の配置、保守部品の供給体制の構築を命じたのでした。

社内では「そんなことは不可能だ」とか「人材がいない」とかネガティブな意見が噴出して、上へ下への大騒ぎになりました。しかし、私が所属していた営業部は、売上、利益ともに会社の屋台骨を支える立場にあったことから、いち早く準備を開始しました。そして、上司Oさんと私の二人で、欧米顧客への直販体制構築条件の洗い出しと準備の工程表を作成することになりました。Oさんはエレキ設計を皮切りに製造、品質管理、生産管理を渡り歩いた根っからの工場のスペシャリストでした。工程表を書かせたら誰よりも速く、精緻に仕上げるスキルを持っておられましたので、私はOさんの助手として手ほどきを受け、徐々に仕事が楽しくなっていきました。

工程表の第一稿が完成したところで事業管理部門の課長Tさんに説明をしたところ、これは一つの営業部のものとして使うのでは惜しい。事業部として共有すべきだ、という話しになり、事業部長(取締役)Hさんに報告しようということになりました。私にとっては、前述のHさんとの最初の会話から数ヶ月が経過していて、久しぶりにHさんにお目にかかることが出来るとわくわくして3人(事業管理部門課長Tさん、上司Oさん、私)でHさんの部屋を訪ねました。

Tさんから、上司Oさんと私の仕事のことについて説明が始まりました。最初は、ニコニコ笑顔で話を聞いていたHさんの表情が、Tさんが発したある言葉をきっかけに険しくなりました。それは「この工程表はOさんと大西君が一生懸命に作ったものです」という一言でした。

Hさん「T君、仕事はね、誰がやったなんてことは重要じゃないだ。そんなことを言うとみんな自分が認められたいとか、褒められたいとか、そういうことばかり考えるようになっちゃうんだよ。二度と、誰がやったかなんてことは言わないでくれ!」

Tさんは「分かりました。申し訳ありませんでした」と謝り、我々3人はHさんの部屋を出ました。Tさんは上司Oさんと私に「せっかく良い仕事をしてくれたのにこんなことを言われてしまって申し訳ないです」と言ってくださいました。Oさんも私もその場では「問題ないです」と言いましたが、自席に戻ってもHさんの言葉に納得できず、私に至っては理想としてたHさんのイメージが根底から覆されたのでむしゃくしゃしていました。そして、仕事を早々に切り上げて、Oさんと憂さ晴らしで遅くまで飲みました。

翌朝、やや二日酔い気味で出社した私は午前中前日のこともあり仕事に身が入りませんでした。そして、昼食をはさんで少しエンジンがかかってきたかなという頃に内線電話でHさんから「部屋に来て欲しい」と連絡がありました。上司Oさんと私は、昨日の勢いで再び叱られるのではないかと恐る恐るHさんの部屋を訪ねました。するとHさんは立ち上がって、Oさんと私に昨日のことを詫びたのでした。

Hさん「昨日はT君の手前厳しいことを言ってしまい申し訳ない。Oさんと大西君は良い仕事をしてくれました。僕はそれを認めています。ありがとう。そこで、お二人が作った工程表を事業部共通のものにしたいのですが良いですか。」

Oさんと私は「頑張ったことが報われた」と感じてとてもうれしくなりました。同時に、Hさんの、従業員の気持ちへの配慮に再び感服しました。さらに深く、Hさんに付いて行こうと思ったのはこの瞬間でした。

その後、私は同社を退職して再就職先の会社でシンガポール勤務を経て再びその会社に再就職することになったことは以前のブログで書きましたが、最終面接でシンガポールから東京に来た時、面接官は社長になられたばかりのHさんでした。2年ぶりの再会でした。

Hさん「大西君、久しぶり。いろいろあったと思うけどやっぱりうちの会社がいいかい?」

私「はい、この間、いろいろな経験をして、いろいろなことを考えましたが〇〇〇がいいです。」

Hさん「分かった、では頑張ってね!」

最終面接はこれだけでした。

そして、本社勤務が始まり、シンガポール、台湾への出張を繰り返す仕事をする中で、翌年の春、管理部門を管掌するために台湾現地法人に赴任することになりました。出発前に再びHさんに呼ばれました。

Hさん「台湾の状況(代理店とのいざこざ)はよく知っていると思うけど、大西君が我々の事業にとってベストな判断を、社長になったつもりでやって欲しい。困った時には直接、取締役Nさん、Tさんにエスカレーションしてもいいよ。」

振り返るとHさんにかけて頂いたこの言葉があったからこそ3年間やれたと思います。

Hさんは、私の台湾赴任後も度々声をかけて下さり二人でお話する機会を設けて頂きました。ある日、台湾に出張で来られたHさんは、夕方私に電話をしてこられました。お客さんとの会食が終わったらオフィスに行くので話がしたい、という内容でした。そして、20時頃になってひょっこり一人でオフィスに来られて二人で飲みに行きました。Hさんがその時おっしゃっていたのは、台湾の状況について、部長クラスから上がってくる情報と現場の実態との間にギャップがあるような気がしていて、直接すべての状況に通じている私から話しを聞きたかった、という内容でした。私の前任者と代理店間で生じたぎくしゃくは、私が赴任した後も続いていました、ちょうどその時Hさんが気にされていたことは図星だったのです。

私は正直に見たこと、聞いたこと、そして感じていることを話しました。Hさんは、いつものように私の話しを熱心に聞いてくださり、その一言一言にうなずき、理解を示してくださいました。Hさんが帰国されるやいなや、本社の部長クラスが何人か台湾にやってきまして、ヒアリングしたいと言われました。私はHさんにしたのとまったく同じ話しをしました。その後、組織の見直しと、ポストの新設と任命が行われて急速に問題が終息していきました。

Hさんはこの時以外にも、出向社員全員と会食の場を設けて下さり一人一人から話しを聞いたり、激励されたりしました。また、台湾現地法人と代理店の合同の会議に出席され、最前列に座り、数時間の間じっと発表に集中して熱心に質問をされていました。社長として社員との距離感を感じさせないように努力されていたと思うのですが、これは装ってできるものではなく、きっと心の底から従業員を大切に思っていて、事業責任者としての社長の役割を果たすという強い使命感を以て臨まれていたのだと思います。

Hさんは何故、野武士のような2代目社長の後を継ぐことになったのでしょうか。のちの新聞社の取材では、次のように述べておられます。

46歳で社長に就任しました。当時、東証1部上場企業で40代なかばの社長なんていませんでした。僕はそのとき常務だったのですが、発表の数カ月前に「(次の)社長にするから」といわれたんです。僕としてはそういう目で見てくれるのはうれしかったけれど、戸惑いも大きかった。自分が大切にしている先輩が相当いるし、お客さんの幹部も年上の人ばかりです。ほとんど無理、という思いで「ちょっと考えさせてください」といった。その後も2、3回話をしましたが、まだためらっていました。そうするうちに創業者や社長から、大迫力で決断を迫られた。「だらしない」と。自分たちは20代でこの会社をつくり、入社してくれた人たちも自分より年上ばかりだ、それでも優れた人と働かなければと、その一心でやってきたんだ、君にもそれができるはずではないのか、とこういうわけです。「若さは重要なんだ」ともいわれました。この業界は大きく変化していくので、自分たちも変わりながら変化に挑戦できるエネルギーがこの会社には必要なんだ、と説得されました。最終的には、「ぜひやらせてください」と心を決めたんです。(日経電子版より抜粋)

野武士のような2代目社長Iさんが会長に退かれた後、私はIさんと台湾事業の件でランチミーティングをすることがあり、その際、Iさんは次のようにおっしゃっていました。

Iさん「大西君は社長になりたいか?もしそんなことを考えていたら止めた方がいいよ。社長なんてやるもんじゃない。何かを決めたらみんな文句を言う。うまくいったらみんなのおかげ。しかも、失敗したら社長の責任だ。でも、誰かが社長をやらなければならない。そんな仕事は誰でも務まるものじゃないんだ。僕がH君を次の社長に指名したのはね、H君が 〇〇 だからなんだ。」

私には書くことがはばかられましたので 〇〇 にしました。Iさんがおっしゃりたかったのは、小さいことを気にして、くよくよしたりするような人では社長は務まらない、ということをおっしゃりたかったのだと思います。

Hさんとの想い出は他にもたくさんありますが、とても書き切れないので一旦筆を置こうと思います。短い時間でしたがHさんのような素晴らしい経営者の下で仕事をさせて頂いたことは、私の終生の誇りです。

911米国同時多発テロ

2001年の春に約3年間の台湾現地法人での出向勤務を終えて東京の本社に帰任し人事部に配属されました。確か、取締役のどなたからだったか「台湾で役割を果たしたら、帰任する時は好きな仕事をさせてあげるよ」と言われて送り出されたので、帰任が決まった時、営業部門や営業推進の仕事をしたいと申告したのですが、よりによって最もやりたくない人事になってしまいました。人事を避けたかった理由はいろいろあったのですが、一番大きな理由は、

「私には人事のような守りの仕事は向いていない」

と思っていたからで、今でもそう思っています。

当時の私は、よほど人事に戻りたくなかったのでしょう。募集を始めたばかりの大学院(早稲田大学アジア太平洋研究科)に願書と研究計画書を提出しまして、これが「失敗の研究」という旧日本陸軍の失敗を分析した本の共同執筆者の一人で教授の寺本先生という方の目に留まり入学を許可されました。そこで、人事部長に1年間の休職を認めて欲しいと申し出たのですが、進学理由での休職は認められないと却下されてしまいました。そして、管理部門を管掌されていた常務取締役Tさんに台湾から呼び出され差しで飲みまして「つべこべ言わず俺の言うとおりにしろ」と強引に押し切られ、人事に戻ることになってしまいました。台湾での私の仕事を一番認めて下さったのはTさんだったことを知っていましたし、なにせ一度退職した私を再就職させてくれた恩がある会社です。結局は社命に従って人事に戻ることにしました。その夜、Tさんは非常に酔われてご自宅までタクシーでお見送りしたことを覚えています。

帰任した私は海外人事の担当になり、新しく発足する中国現地法人の人事制度を考えたり、上海で採用活動をしたり、日本からの出向者の生活インフラの整備などをしたり、それなりに台湾での経験が活かせているのかな、などと思っていました。しかし、どこか振り切れない物足りなさを感じていました。もっと人がやったことがない新しいことをしてみたいという、焦りにも似た感覚を常に持っていたと思います。

ただ、人事のメンバーとは仕事を離れても楽しい時間を共有しました。部長代理Nさん、課長Sさん、同期のH君はいつも一緒で、仕事が終わると本社がある赤坂の街に繰り出して、毎晩のように飲みながら仕事の話し、遊びのこと等いろんな話をしました。

最初に連れて行ってもらったのがTOT(トット)というショットバーでした。マスターは当時60歳前後だったと思うのですが、その名を聞けば誰でも知っている電機メーカーの社長秘書のご経験者で、そのためビジネスのことに詳しく、また温厚な方だったので私のちっぽけな悩み事にも嫌な顔一つせず耳を傾けてくださいました。最初は人事のメンバーと一緒に行っていたのですがやがて一人で行くようになり、常連の方々とも仲良くなりました。ある方は広告業界の重鎮、有名な「タンスにゴン」というキャッチコピーを考えた人で、よく冗談で笑わせて頂きました。また、演奏会や演劇などの興行会社の社長さんがいて、その方の親友が、私の大先輩で東京フィルのクラリネット奏者だったことからとてもかわいがって頂きました。マスターは明け方にお店を閉めて私と二人だけで朝まで別の店で飲んだりして、本当に楽しい思い出です。

そして、あの2001年9月11日になりました。その日は月曜日で20時頃に仕事が終わりいつものように人事のメンバーで飲みに行こうということになり、どこかで軽く食べてショットバーTOTで飲み始めました。お店は雑居ビルの2階で、店内には当時まだ珍しかった大画面のプロジェクションTVがあり普段はサッカーや野球を映していました。お酒も進んで22時頃だったでしょうか、同期のH君の携帯が鳴りました。奥さんからの電話でした。「貿易センタービルに飛行機が突っ込んで大変なことになってるよ」という内容でした。それを聞いて私たちは、「羽田空港の離陸か着陸に失敗した飛行機が浜松町の貿易センタービルに突っ込んだのかな」などと言いながらマスターにプロジェクションTVでNHKにチャンネルを変えて欲しいとお願いしました。

次の瞬間映し出された映像をみて言葉を失いました。マンハッタンのワールドトレードセンター・ノースタワーから真っ黒な煙がもうもうと立ち上っている光景が映し出され、アナウンサーが旅客機の衝突を繰り返し報じていました。あまりの衝撃的な映像に、これは現実なのか夢なのか、にわかには信じられず、私たちとマスターの目はテレビにくぎ付けとなり言葉を失いました。そして、課長Sさんが一言「これはテロだ」とつぶやきました。彼はテキサス州にあるアメリカの現地法人に2年程出向勤務して前年に帰任していて、アメリカの事情に通じていたのです。しかし、仮にテロだとしても、どうやってこんな大胆なことが出来たのかにわかには信じられなかったので、Sさんを除く私たちは依然事故だと考えていました。そして、じっと画面を見続けていた私たちの目に、今度はサウスタワーに激突する旅客機の映像が飛び込んできました。そして、私たちは確信しました。「これはテロだ」と。

一気に酔いが覚めた私たちはショットバーを出て、急いでオフィスに戻りました。そして、会議室で対応を打ち合わせました。ラジオからはペンタゴンに別の旅客機が激突したこと。行方不明の一機がホワイトハウスに向かっているようだ等々、次々と情報が入ってきました。

テロは継続して企てられているかもしれない。それは米国本土かもしれないし、日本を含む同盟国のどこかかもしれない。とにかく、全社員に対して、当面旅客機での移動を中止させるべき、との結論になりました。部長代理Nさんは人事部長と取締役に本件を報告。課長Sさんは出張者の情報を関係部署から入手してリストアップしました。そして、全員で手分けして、世界中に展開している海外勤務者、出張者にメールを送信し、飛行機の搭乗を控えている社員には直接電話連絡をしてキャンセルを指示しました。確か連絡を取るべき対象者は100名前後いたのではないかと思います。

17階にある私たちのオフィスからは、国会議事堂、アメリカ大使館が眼下に見渡せました。そこに、続々とパトカーが集まり、建物を取り囲み始めました。永田町一帯は、パトカーのテールランプで真っ赤に埋め尽くされていったことを覚えています。

全ての連絡を終えたのは明け方になっていました。夜が明け始めバルコニーで煙草を一服した時、不気味なほど静まり返った東京のひんやりした空気を今でもはっきり覚えています。やがて8時になり社員が続々と出勤してきました。私たちは一睡もしていませんでしたが、何かあれば速やかに対応する必要があるため自席で待機していました。

11時頃になって役員会議室に集められました。そこには、社長以下取締役全員と営業部門、管理部門の部長が集められていました。私たちはオブザーバーとして同席を命じられたのです。そして、テレビ会議が始まりました。私はてっきり米国現地法人と対応を協議すると思ったのですが、接続先はイスラエルでした。

その年に、当時世界最大だった半導体メーカーとの取引が決まり、数台の装置がこのメーカーのイスラエル工場に納入されました。工場はハイファという港町にあり、装置の設置、稼働のために日本から10名程のエンジニアが派遣されていました。その日もいつも通りお客さんの工場で作業をすることになっていました。

イスラエル側の責任者Eさんに対して発した社長Hさんの次の一言でテレビ会議が始まりました。

Hさん「今回のテロの報復としてアメリカはすぐに戦争が始めるだろう。一方、イスラエルは敵対するアラブ諸国から攻撃されることは十分に予想できる。イスラエルの皆さんのことは心配だし出来る事は全てしたいが、その前に、まずは日本から出張させている10名を速やかに帰国させたいので対応をお願いしたい。」

Eさん「それは待って欲しい。お客さんも私達も安全面では万全の態勢で臨んでいる。いま日本人エンジニアを引き上げるということはせっかく獲得したお客さんとの取引を放棄することになる。それでも良いのですか。」

Hさん「我々は従業員の安全を第一に考えている。日本に帰して欲しい。」

Eさん「なんとか作業を継続できる方法が無いか再考願いたい。」

そんなようなやりとりが10分程続いたのではないかと思います。取締役や営業部長の中には、お客さんとの取引継続は重要で、そのためにエンジニアのイスラエル滞在はやむを得ないと考えている人がいたと思います。しかし、誰もそのことを口にしませんでした。普段は穏やかな社長Hさんの声がだんだん大きくなり決心が堅いことが会議室にいた全員に伝わったからです。

社長Hさんは決定的な一言を仰いました。

Hさん「ビジネスは何度でも取り返せる。しかし、従業員に何かあったら命は取り戻せない。これは経営者として絶対にしてはいけない判断だ。」

Eさん「・・・」

Hさん「イスラエルの人は知らないかもしれないが、私達日本人はアメリカという国を良く知っている。太平洋戦争で、日本人は真珠湾の戦艦数隻と軍事施設を攻撃した。一方アメリカは、その報復として日本のほぼすべての都市を焼け野原にし、原子爆弾を2個投下した。真珠湾攻撃の報復が原子爆弾2個だ。そして今回、本当に怒ったアメリカは何をするか分からない。報復は徹底的に、執拗に、何度も繰り返し行われるだろう。もう待ったなしなんだ。今のうちに出張者は帰国させる。選択肢はない。」

そして、Eさんは、しぶしぶ「分かりました。今日中にフライトを手配して、明日日本に帰国させます。」と返事をして会議は終わりました。会議室にいた私たちは黙って、会議室を出ていく社長Hさんの後姿を見送りました。その世界最大の半導体メーカーとの取引は何年もかかって実現した当社の念願でした。この時、社長Hさん判断でそれが流れてしまいました。では、その判断は正しかったのでしょうか。それは、その後の当社の歴史が証明しています。

2001年当時5,000億円ほどだった売上高は1.3兆円(2019年度)に。5,000円ほどだった株価も現在は30,000円水準です。日経平均株価を決定する主要銘柄として、経済人ならばもはや知らない人はいない会社になりました。世界中の半導体メーカーと取引きがあり、その中にはあの時の世界最大の半導体メーカーも含まれています。会社を大きく育てたHさんはその後会長に。最後は社長と会長を兼務。2016年に退任され、昨年、叙勲を受けられました。テレビで久しぶりにお元気そうなお姿を拝見し、Hさんとの懐かしい思い出に浸りました。

次回は、大変尊敬するHさんに初めてお目にかかった時の思い出から書き始めたいと思います。

921台湾集集大地震

1999年9月21日、深夜の台湾に大きな地震が発生しました。

921大地震(きゅうにいちおおじしん)は、台湾時間の1999年9月21日1時47分18秒(日本時間2時47分18秒)に、台湾中部の南投県集集鎮付近を震源として発生したモーメントマグニチュード(Mw)7.6(USGS、台湾中央気象局はMs7.3)の地震。921大地震のほか、台湾大地震、集集大地震、台湾中部大地震、921集集大地震、台湾大震災、集集大震災、台湾中部大震災などと呼ばれ、台湾では20世紀で一番大きな地震であった。(Wikipediaより抜粋)

私は、前年(1998年)春から半導体関連メーカーの台湾の現地法人に出向し管理部門を主管していました。その日は、なかなか眠りにつけずテレビを見ていたところ突然停電になりました。私の部屋はマンションの7階で、充電式の非常灯が設置されており、停電発生と同時にそれが点灯し、部屋の中はぼんやりとした黄色がかった色に照らされました。そのちょうど1ヵ月前に台湾全土で大停電がありましたので、真っ先に思ったのは「また停電か」という程度でした。後から分かったのですが、1ヵ月前の停電は、9月21日の地震に関連して活断層が動いて送電システムに不具合が生じたことが原因だったようです。

ぼんやりと黄色く照らされた部屋の中はかろうじて見渡せる程度で薄暗く、エアコンもダウンしたので「今夜は寝苦しくなるなあ」などと呑気に構えていました。すると、遠くの方から低く、うなるような「ゴー」という音が近づいてきました。最初はジェット機の音かと思ったのですが、それが徐々に大きくなってきて「これは何か変だぞ」とソファーから立ち上がろうとした瞬間、マンション全体が左右に大きく揺さぶられ始めました。小刻みな振動ではなく、水平に「ざっざっざっざ」と、ものすごい力で押されては引っ張られ振り回される感じで、振幅幅は1メールくらいあったのではないかと思うくらい揺れました。部屋の壁にはビシッと音を立ててひびが入り、私はなすすべもなく座ったまま揺さぶられ続けました。それまでに経験したことのない揺れに、心拍数が上がり、呼吸が激しくなりました。「あー、もう終わりだ。マンションが倒壊してしまう!」と思ったところ、徐々に揺れが収まっていきました。「命拾いした」と放心状態になりました。

放心状態の時間は、実際にはほんの一瞬だったと思うのですがとても長く感じられました。そして、突然はっと我に返りました。当社には、台湾人従業員46名、日本人出向者25名、装置の立ち上げ作業で日本から台湾に来ている出張者が常時150名から200名もいて、みんなのことが急に心配になりました。「私が彼らの安否確認をしなければならない」と、Tシャツと短パンのまま部屋を飛び出し、自転車に飛び乗って10分ほどのところにあるオフィスへ突進しました。

町全体は地震の揺れの影響で一斉に砂やほこりが舞い上がりぼんやりと霧がかかっているようでした。数メートル先もはっきり見えない視界不良の中会社に到着し、自転車を乗り捨てて階段を駆け上がり、2階にある非常灯に照らされた薄暗いオフィスに入りました。一呼吸ついて私が考えたのは、こんな大きな地震が起きたのだから日本でも報道されるに違いない。本社も、私の両親も心配するはず。そこで、まずは本社人事Hさんの携帯に電話し、就寝中のHさんを起こして次の説明をしました。

私「いま台湾で大きな地震が発生しました。停電中ですが町の様子を見たところ建物の倒壊はなくオフィスにも被害はありません。これから従業員と出張者の安全確認を始めます。出社されたらご連絡ください。」

続いて、両親に電話をして私の無事を伝えました。

再び、オフィスを出て1階に駆け下りて自転車に飛び乗りました。向かう先は150名以上の出張者がばらばらに滞在している4つのホテルでした。

当時の台湾では火災が多く、1997年にも顧客の半導体工場で大火災が発生し丸焼けになってしまい、保険会社との交渉で装置の状況確認の為に鎮火後の工場に入りました。また、飲食店、ホテル等、頻繁に火災が発生して、うろ覚えですが、当時の台湾の人口当たりの火災発生率は日本の25倍に達していたと思います。ホテルに到着した私は、火災の発生源として想定されたレストランの厨房の状況をホテルの従業員に確認し、出張者には部屋から出るように促してロビーに集めて次の指示をしました。

私「台湾では火事が多い。ホテルでは厨房からの出火がほとんどなので、安全が確認できるまでロビーで待機すること。もし、不安ならばオフィスに来れば私が対応する。」

出張者とホテルの安全を確認してオフィスに戻った私は、日本人出向者に電話をかけ続けました。当初回線は混雑していて話しが出来ないことがほとんどでしたが、だんだん通じるようになってきて数名を除き安全確認が出来ました。そうこうしている内に独身寮に住んでいる台湾人従業員がオフィスに出てきてラジオをつけて地震の情報収集を始めました。震源地は80キロ先で、紹興酒工場が爆発炎上したとか、マンションが複数倒壊して多くの人が下敷きになっている等、非常に大きな被害が出ていることが徐々に明らかになってきました。

オフィスを台湾人従業員に任せて、再び自転車に飛び乗って安全確認できなかった日本人出向者の社宅を訪ねました。揺れで部屋中がめちゃくちゃになっている等の話しはありましたが全員無事でした。

オフィスに戻ったころには白々と夜が明け始めていました。私はホワイトボードに地震発生から現時点までの安全確認の状況を記入し一旦帰宅して身支度をし、状況報告をするため社長がいる半導体工業団地内のオフィスへタクシーで向かいました。

当社の総経理(社長)Aさんは、営業と装置の保守サービスを委託している代理店の董事長(オーナー)でもありました。Aさんの台湾の半導体業界における影響力に依存していた当社の経営陣は、メーカーである当社が、顧客満足を高めるために現地法人を設立した後も、ビジネスパートナーとして代理店との良好な関係性を保つことを重要視しました。私の前任者である日本からの出向者の総経理が、現地法人として代理店に頼らず単独で台湾市場を押さえることを目論み暴走し、経営から本社に帰任させられました。その後任者である私の役割は、社長から「代理店との良好な関係性保つこと」そして「自分が社長になったつもりで仕事をすること」と諭され台湾に送り出されたのでした。そして、董事長であるAさんが当社の現地法人の総経理を兼務されることになり、私はAさんの部下となりました。

私は毎日、代理店のオフィスビルの最上階にある董事長室を訪ね、Aさんに決裁伺いと現地法人の状況の説明をしました。Aさんは、私が訪ねていくと、決裁は手短に済ませて、台湾のビジネスについて、台湾人について、いろいろなことを教えてくださいました。その中でも特に記憶に残っているのが9月21日朝に見たAさんの姿でした。

その日、董事長室に到着した私はAさんがいらっしゃらないことに気付きました。秘書が戻ってきてAさんに状況報告に来たと伝えると、隣の会議室にいると教えてくれました。会議室のドアをノックし、入室しようとドアを開けたところ、奥の中央にはAさんが陣取り、その両側に代理店の幹部、そして営業、技術のリーダークラスがずらっと居並んで緊張した空気が流れていました。というのも、地震による顧客工場の被害は想定よりも大きく、その一刻も早い復旧は、これは決して誇張ではなく、当時、半導体産業に大きく依存していた台湾経済の落ち込みを最小限に食い止めることが出来るか否かがかかっていました。

Aさんは会議室奥の壁面にある大きなホワイトボードに向かい、顧客名と連絡先、納入装置の製造番号を丁寧に書き出していました。そして、書き終わるたびに担当者に対して、各装置の被害状況の確認と報告を指示し、次々に送り出していきました。そして、最後に幹部に対して、初動の陣頭指揮は自分が行うこと。そして、方向性が固まったら対策本部は営業責任者のJさんを任命し、以後、全ての情報はJさんに集約して報告するように命じました。やがて、代理店側におけるAさんのすべての指示が終わったところを見計らって、私からAさんに、従業員と出張者の安全確認がとれたことを報告しました。Aさんは私の対応をねぎらい、今後は顧客工場の原状復帰に向けて日本からの応援が必要になるので、その連絡窓口をやるように指示されました。Aさんと向きあうと、どんな仕事でもできるのではないかと思わせてしまう不思議な魅力のある方でした。特に、あの時のAさんの姿はリーダーとして非常に頼りになる、この人についていけば絶対に大丈夫だと思わせるオーラが出ていました。私にとっての理想のリーダー像はこの時固まりました。

Aさんから指示を受け、オフィスに戻ろうとしたときに、深夜、私から電話をしておいた本社人事Hさんから電話がありました。私から、全員の安否確認が出来たこととAさんから受けた指示の内容について説明しました。Hさんも私をねぎらい、困ったことがあればいつでも連絡して欲しいと言ってくださいました。

それからしばらくしてHさんの部下Sさんから電話が入り「報告は現地からするもの」と言われたのに続いて、Sさんの口から出た次の言葉に私は耳を疑いました。

Sさん「今後は15分毎に状況を報告すること」

当地では混乱の中、懸命に活動しているのに「15分毎に報告せよ」などとよく言えるなと。私は憤りつつ「状況が変化し報告すべきことができたら報告します」と伝え電話を切りました。その後もひっきりなしに日本側の様々な部門から台湾の状況について問い合わせの電話が入り、その内の大部分は興味本位のものでしたので私は辟易しました。そこで、本社人事Hさんに再度依頼しました。

私「ただでさえ混乱しているのに、興味本位の電話の対応で忙殺されるのは避けたい。日本側で窓口を決め、重要なことのみ連絡するように社内で周知して欲しい。」

Hさんは私の意図を理解してすぐに対応してくれました。

その後、電力の供給が安定するまで数カ月かかったと記憶しています。台湾経済のけん引力である半導体工業団地には優先的に電力が供給され、市街地はいくつかのブロックに分けて半日毎に入れ替えで計画停電がありました。暑い夜をしのぐのは大変でしたがみんなで協力して何とか乗り切りました。日本で同じことをしたら大クレームが発生しそうなものですが、その時見た台湾人の姿は停電をむしろ楽しんでいました。多くの家の軒先に家族、友人が集まり、楽しそうにバーベキューパーティーをしていた光景が忘れられません。

余談ですが、本社からはその後一方的な要求が続きました。顧客工場の復旧応援に出張者を派遣するにあたって、急に台湾の安全性に敏感になったのでしょう。現地法人として予約を勧めているホテルの耐震性と防災基準を満たしていることを証明するように要求されたのです。さもないと出張者を出すことが出来ない、などとどこかの部門が騒いでいると推測できました。そこで私からは、我々がリストアップしたホテルは、消防から許可を得ていることは確認済で、一方、耐震性をどの程度備えているかは建築物の検査が出来ないので客観的な証明をすることは難しいと返答しました。しかし、なかなか納得してもらえず辟易しました。そこで、次のようにやり返しました。

私「台湾人従業員も日本に出張することが多いが、宿泊先として本社が予約を勧めているホテルの耐震性について確認ができていない。客観的なデータを出してもらえないと大切な台湾人従業員を日本に送り出せない。」

本社の担当者は、私に要求していたことの対応の難しさを実感したのでしょう。それ以降は要求して来ませんでした。

距離が離れている本社では、現場で起きていることに実感がわかず当事者意識になれないことは理解できます。しかし、現地は常に想定外のことが起きるので困っていることがほとんどです。本社がその声を受け止めて共感する姿勢さえあれば、信頼関係を築くのはそれほど難しいことではありません。そして、信頼関係さえあれば、当事者として勇気をもって問題の中に飛び込むことさえできます。台湾の地震は、私に「働く人々にとっての信頼関係とは、良い仕事をするために絶対に外すことのできない基本的条件である」ことを強烈に植え付けたのでした。

次回は、もう一つの有事、2001年9月11日に発生した米国同時多発テロに際して、私が最も尊敬する経営者が見せた行動について書きたいと思います。

人事として知っておきたい信仰のはなし

私は両親から、外では「宗教」と「政治」の話しはするなと教えられましたが、皆さんはどうでしょうか。両親の教えに背くことになりますが、とても大事な話ですので、今回は私が人事の仕事を通じて知った「信仰」に関する知識と、そこから得られる知恵について書きたいと思います。

長年人事の仕事をした人が、定年退職間際に真剣に仏教を学び退職して僧侶になったという話しを聞いたことがあります。仕事柄、従業員と向きあい、深くかかわる中で、人について、人生について深く知りたいという気持ちが強くなったからだと、その方はおっしゃっていたように記憶しています。歳を重ねる毎に信仰の大切さに気付くのは人として自然なことなのかもしれませんが、多くの従業員に接して、喜びや悲しみ、怒りや苦しみを間近に見届ける人事経験者が、若干人よりも早くその思いを抱くのは珍しくないと思います。

私は今、特定の信仰は持っていませんが、昔から関心がありました。高校生の時、吹奏楽部の部長として部活を束ねることができないと悩み、友人のお母さんに紹介してもらった浄土宗のお寺の住職から「思い通りいかない時でも心安らかに、楽しく生きる」ことを教えていただいたことから始まります。それから人生の節目節目で住職の教えを乞うて来たのですが、前のブログにも書いた通り、再就職した会社の社命で東日本大震災の被災地へ赴くことになり、その直前に住職を訪ねました。

住職「人は誰でも持っているものがある。なんだと思いますか。」

私「・・・」

住職「まごころです。しかし、まごころを使える人、つまり、心づかいが出来る人がいる反面、できない人もいます。大西君は被災地で、苦しんでいる人たちに向き合うという厳しい場面に直面することになると思いますが、常に、まごころからの心づかいをすれば大丈夫ですよ。」

2011年は4月から年末まで神奈川と被災地を往復し、住職の教えに従って被災した従業員お一人お一人のために出来ることを最優先に、まごころで接しました。そのような中、日々被災地で目にしたのは、懸命に行方不明者を捜索する自衛隊員の姿や、小学校の校庭が仮埋葬所として掘り起こされ、次々と運び込まれる棺桶と埋葬の光景でした。私は次第に信仰について考えることが多くなっていきました。

話しがさかのぼりますが、私は大学で社会学を専攻しまして、卒業論文の指導教官はN教授(当時は助教授)という方でした。N教授は、NHKスペシャル「未解決事件」に出演し、オウム真理教の特集の中で、麻原が信者を洗脳した仕掛けを、麻原から信者たちへの説法(録音)を使って解説しておられました。N教授がおっしゃるには、麻原が信者に求めた答えは「教団にとって邪魔な人間は全てポア(殺す)すべきだ」だった、と。にもかかわらず、その通りに答えた信者を敢えて無視し、あたかも別の答えがあるように信者たちに思いこませ、不安にさせることで麻原の存在を絶対化する巧みなテクニックを駆使していたようだ、とのことでした。世間を震撼させたオウム真理教は、信者の信仰を悪用した極端な事例です。

一方、私たちの身近にも、麻原と似たようなテクニックを使って従業員を操る経営者がいます。また、その影には指南役の存在があることを知っています。事業の目標を達成するために、経営者が、従業員を思いの通りにコントロールする術を身につけたい、との気持ちを抱くことは理解できます。しかし、オウム真理教の事例が証明するように、コントロールされる側の従業員の身になってみるとどうでしょうか。支配され続けた従業員は常に不安感にさいなまれ、次第に自分で考える力を失っていきます。やがて、心身のバランスを崩し、病気を発症することも多くなります。人を自由に操りたいという欲は人間の本能なのかもしれませんが、経営者として権力を揮える立場となった以上、自制心をもって部下たちと接して欲しいと思います。従業員の不安を利用して使役する手法の乱用は、従業員を苦しめるだけではなく、結局事業の発展にとっても望ましくない結果をもたらすと思っています。

ところで、韓国留学から大学に復学した私は、卒業論文を書き始めることになりました。そこで、指導教官であるN教授に「日本の経済成長の原動力となったものについて書きたい」と相談したところ、真っ先に読むように勧められた本が、ドイツの社会学者、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」でした。当時の私には理解するのが難しい本で、その参考図書を読んでやっと理解することが出来ました。主旨は以下の3つです。

①カトリック信徒に対してプロテスタント信徒(クリスチャン)は、神様との一対一の直接的関係を重視する。神様の存在を四六時中意識していて、自らの言行のすべてを、神様の望まれることと、その栄光の実現という目的に一致するようと努力する。

②①の結果、プロテスタント信徒は独自のエートス(本人の自覚しない性向(内面的原理))として3つの態度(生活態度、心的態度、倫理的態度)もつに至った。そして、このエートスは、偶然、資本主義の拡大原理(利潤を再投資してさらに利潤を増やす)と一致した。

③よって、プロテスタント信徒が多い国、地域は、カトリック信徒のそれよりも経済的に発展した。

16世紀のドイツは、マルティン・ルターによる宗教改革(カトリックの免罪符批判からドイツ農民戦争に発展)を起点とするプロテスタント発祥の地です。「プロテスタント」とは、農民による抵抗活動(プロテスト)が由来となっています。現在、ドイツ南部を除きプロテスタントが多いドイツはエートスが最も浸透している国と言えるのではないでしょうか。

マックス・ウェーバーは、社会学という学問の黎明期にあって、さまざまな方法論の整備にも大きな業績を残した。特に、人間の内面から人間の社会的行為を理解しようとする「理解社会学」の提唱が挙げられる。(Wikipediaより抜粋)

余談ですが、私の卒論のテーマは、「日本の経済成長の原動力となったものを見つけること」だったと書きました。そこで、プロテスタントのエートスに相当するものが日本にあるかを調べたところ、マックス・ウェーバーに影響を受けたとされる、東京大学教授だった丸山眞男が「日本政治思想史研究」という本の中で、「儒教」それも「荻生徂徠の朱子学」が資本主義の原理と一致したと述べていることを知りました。なぜ、「朱子学」が資本主義の原理と一致したかについては別の機会に勉強し直してみたいと思います。

大学を卒業して、私のプロテスタントに関する知識は、前述の教科書的学習の域を出ないまま深まることもなく、徐々に関心も薄れていきました。月日が流れ、2019年に大分の半導体関係の商社で勤務することになり、同僚の韓国人Lさんと出会い、親しくお付き合いするようになって、予期せずプロテスタントのエートスを目の当たりにすることになりました。Lさんご夫妻は、敬虔なクリスチャン(プロテスタント)だったからです。

韓国統計庁が2005年に発表したところによると韓国の宗教人口は総人口の53.1%を占め、非宗教人口は46.9%である。すなわち総人口のうち、仏教が22.8%、プロテスタントが18.3%、カトリックが10.9%、儒教0.2%となっている。(Wikipediaより抜粋)

韓国では、その歴史等何らかの条件がキリスト教の世界観と一致したことで信者が増え、さらに独特の信仰態度が形成されていったのかもしれません。ちなみに、日本のキリスト教信者数の概数は105万人で、対人口比で0.83%(東京基督教大学の日本宣教リサーチ(2018年))に過ぎず、その差は歴然です。

私とLさんご夫妻の関係は、私が人事としてLさんの採用と受入れを担当したことから始まりました。Lさんは流暢な日本語を使われるのですが、奥様は来日当初、日本語を解せなかったことから、私たち三人の会話は自然と韓国語中心となりました。あと、Lさんご夫妻は中国で生活経験があり中国語が出来ますので、私の妻(台湾人)が会話に加わる時は自然に中国語になります。

さて、私がLさんご夫妻の大分での生活立ち上げのお手伝いや相談に乗るうちに、自然と三人一緒に過ごす時間が長くなっていきました。そして私は、Lさんご夫妻の姿を拝見して、クリスチャンとして大切にしている神様との関係や祈り、他者に向けられる感謝やあわれみといった感情を伺い、また質素倹約な暮らしぶりと身の回りで起きることをありのままに受け入れてベストを尽くすという態度に、次第に感銘を受けるようになっていきました。

今、Lさんは会社を退職し、ご夫妻で大分市内のプロテスタント教会で暮らしています。後で知ったことですが、Lさんはかつて大企業の猛烈サラリーマンで、ある時奥様の勧めで教会に通い信者となり、神学校で牧師の免許を取得後、会社を退職されたそうです。今は、教会の主任牧師O先生と一緒に、協力牧師として信仰に満ち溢れた充実した生活を楽しんでおられます。

そんなLさんと私は、毎週土曜日の午前中にZOOMミーティングをして、一週間の出来事や関心事をシェアし、さらにLさんには私の疑問に答えて頂いています。私からLさんへの質問はもっぱら「今を生きる私たちが聖書から学べること」でして、Lさんは、その一つ一つに対して丁寧に説明をしてくださっています。週一回、牧師さんから直接話しを聞けるというのはなんと贅沢なことでしょう。

私が、Lさんから教えて頂いたことの中で特に深く心に刻まれたのは、

「神様の御心にかなうことをする=神様に喜んでもらうことをする」

という言葉です。

例えば、困っている人に対してあわれみの感情をもち手を差し伸べるのは、その人から感謝されることが目的ではなく、それが、神様が求めている行為であり神様に喜んでもらうことが目的なのだと。そして、神様に喜んでもらえる行いは、全て聖書に書かれていますよ、と教えて頂きました。私は今、Lさんに勧められて毎日聖書を読み進めているのですが、私なりに「神様に喜んでもらう行いとは何か」について理解が深まって来たように感じています。

ひとつはっきりしていることは「自身の非力を受け入れる」こと。そして、大いなるものの存在を信じて、その下でひたすら「恩恵を授けてもらえるような行いをする」ことです。

私が理解した「信仰が持つ力」とは、直面する全ての物事を自分の力だけで解決しなければならないという囚われ、つまり「自己責任論」から自身を解放してくれる鍵です。そして、コロナウイルスの感染拡大や、気候・地殻変動による自然災害の発生など、混とんとして先が見えない時代を生きる私たちにとって、益々重要になってくるのではないかと予想しています。

従業員ファーストの本当の意味

神奈川県の電子部品メーカーのベトナム工場で人事総務を主管しました。それまで何回か海外勤務をしたので大抵のことには驚かない耐性は備えているつもりでしたが、ベトナムで経験したことはそれまでの海外勤務経験を一度に上書きするくらい強烈な体験でした。すべての体験を一度に書くことは難しく、また、ストレートに表現することが難しい微妙な内容が多く含まれますので、これから何回かに分けて工夫して書いていきたいと思います。今回は、その中でも数少ない、嬉しかった出来事について書きたいと思います。

前々回のブログで、これまで私は、尊敬する経営者の方々、また、お客様から「ありのままの自分」を受け入れて頂いた、心底嬉しい経験を2回したことがあると書きました。その1回がベトナムでの勤務中の出来事でした。電子部品メーカーのベトナム現地法人の人事総務を主管することになり、2013年の6月に首都ハノイの郊外にある工場に赴任することになりました。前任者から引き継いだのは、50名ほどいた日本からの出向者の対応がメインで、特に、食事の件は重要でした。というのは、この工場では、日本人出向者向けの食堂で日本食が提供されていて、日本人出向者からみると、人事総務は食事メニューの希望を聞き、まずいとか、量が少ないといったクレームに対応する人と認識されていたのではないかと思うからです。さらに、日本人出向者は、ベトナム語ができない人たちがほとんどで、会社の一歩外に出るとコミュニケーションが取れない赤ちゃん同然でしたので、その移動に際しては、平日、休日問わず人事総務が車を手配してあげる必要がありました。ベトナムでは日本のように計画通りに進まないことが当たり前であるにもかかわらず、時間通りに車が来なければ即、私の携帯にクレームの電話が入りました。空港への出迎え、見送りが深夜、早朝になることもあり、都度、私が対応していましたので、着任当初は気が休まる余裕が全くありませんでした。そのような中でも、私には、人事総務としてなすべきことは、現地採用するベトナム人社員の対応であり、ひそかに日本人出向者に関わる業務は必要最小限にする、という目標をもっていました。部下を束ね、協力会社に厳しく指導をし、それでも改善されない場合は契約を打ち切る等、多少強引なこともしましたが、その成果はすぐに表れ、突発的トラブルは減り仕事は安定していきました。

私は、着任当初より、前任者から引き継いだ既定路線である、「人事総務の役割=日本人出向者へのおもてなし」というみんなの認知を変える必要があると考えていました。その背景として、当時、某韓国企業からスマホやタブレットに使用する電子部品の注文を受注しまして、生産能力を高めるために現地採用のベトナム人従業員を増員し、2,000名に迫るまで一気に拡大させる必要性が生じており、人事総務はその実現に大きな責任を負っていたからです。従業員が増えれば、当然予想しない新しい問題が次々に発生するはずです。それらを速やかに解決する対応力も備えておく必要があるため、ある程度先(半年~1年程度)を見越して、人事総務機能のレベルアップと標準化を同時に実施するという難しい状況になると予想していました。そこで、人事サイクル(採用~配置・労務~人材育成~評価~処遇)の各段階における課題を抽出し、同時に、それらを網羅的に取り組むマップをつくって、そのマップに従って、自分の頭の中で日々、詰め将棋のように駒を進める作業を積み重ねていきました。そのような思考と行動をしていることは日本側の本社も、ましてや日々顔を合わせる日本人出向者は全く気付かなかったと思います。彼らに見せる私の顔は、相変わらず彼らの考える「日本人出向者をおもてなしする人」でしたから。しかし、そんな私の仕事が突然スポットライトを浴び、認められる出来事が意外なかたちで訪れました。

前述の通り、ベトナム工場のメイン顧客は某韓国企業で、同社のスマホとタブレット向け電子部品の供給が主たる事業でしたが、チャイナリスクを避けたい企業が次々とベトナムに進出する中で、それまで取引のなかったお客さんからの引き合いも増えていきました。特に、自動車向け電子部品は有望で、自動車電装系メーカーからの引き合いが増え、彼らが取引条件とする基準を当社が満たしているか否かを判定する「工場監査」を受ける機会が増えていきました。工場監査は通常2つの視点で行われます。1日目は、当社が認定を受けているISO(国際品質基準)通りに、工場の全工程の作業標準書が整備されているかのチェックが行われます。2日目は、整備された作業標準書通り実際に現場で作業が行われているか、お客さんが製造ライン等を歩きながら実地でチェックします。そして、3日目は、質疑応答と総括が行われて、計2.5日ほどで行われるのが一般的です。日系の名だたる大企業数社からは、ほぼ同じような方法で監査を受けました。毎回、製造、技術視点での監査でしたので、私のような人事の人間が監査の席に呼び出されることは皆無でした。製造や品質保証部門の管理者(日本人出向者)は人事総務の仕事は、監査で来社されるお客さんの昼食を提供してくれていればよい、くらいに考えていたと思います。

ちょうど同時期に、私たちの会社がドイツの同業メーカーと技術提携することになりました。このドイツの会社は、技術力と品質に定評がある自動車向け電子部品の専業メーカーで、彼らの製品は、名だたるドイツの高級車に搭載されていました。そして、ベトナムの工場内に、私たちと技術提携先のドイツの会社と合弁で自動車向け電子部品製造の合弁会社を立ち上げることになり、ドイツからお一人出向者を受け入れました。この方と私はとても気が合いまして、彼の眼を通して私たち日本人が陥りがちな考え方や仕事の癖を気付かせて頂きました。

ドイツの会社との合弁会社の設立により、ドイツを代表する国際的な某電装メーカーから引き合いがあり、監査を受けることになりました。私はいつもの監査の時と同じように、お客様の宿泊先のホテルから当社までの車の手配をしたり、極力口に合うような食事のメニューを考え、時間通りに温かい食事が提供できるように監督したり、会議室で提供するコーヒーやお菓子を手配し、出来る限り監査がスムーズに、円満に進むように裏方に徹していました。

監査2日目が終わり、3日目の朝、私が出勤し自席に着くやいなや、品質保証部の責任者が慌てて私のところにやってきて、「お客さんが監査の締めくくりに人事責任者のプレゼンと質疑応答を求めている。対応を準備して欲しい」と言われました。その人も、なぜお客さんが会議に、それもクロージングで人事と話しをしたがっているのかさっぱり分からない様子でした。私は、取り急ぎプレゼン資料を用意して午後一の会議に出席しました。名刺交換をして分かったのですが、お客さんは3人で、ドイツ本社の品質保証部門の取締役、調達部門のディレクター、アジアパシフィック本部(シンガポール)の責任者でした。

私は、まずベトナムの労働市場の現状(有効求人倍率、失業率、賃金上昇率等)について説明し、経済成長率と照らして今後の見通しについて説明をしました。続いて、当社の採用人数と採用方法、離職人数と離職率、離職引き留め策、労働組合活動と日常的な労使コミュニケーションの方法、また、労務問題発生時の対応方法について説明しました。さらに採用後の研修と配属先決定方法、管理者の育成と課題、人事考課と昇給昇格の連動、人件費コントロールの方法、人事制度全般の課題感について一気に説明しました。最後に、近い将来起こり得る労務管理上のリスクについて正直に説明してプレゼンを締めくくりました。

お客さんからは、私の説明内容一つ一つについて熱心に質問を受けまして、さらに丁寧に回答していくにつれて、最初は厳しかったお客さんの表情も次第に和らぎ、場がなごやかな雰囲気に包まれました。そして、クロージングの発言として、品質保証部門の取締役の方からだったと思うのですが、「大西さんのプレゼンは素晴らしかったし、私たちの質問に対する回答も的確でとても安心しました。大西さんがこの工場で人事をされている限り安心です」と言っていただきました。その場には、当社の社員が10名ほど同席していました。英語ができない人が多かった、という理由もあると思うのですが、それ以上に、人事のことについて、聞いたことも考えたこともなかった人ばかりだったからでしょう。また、私が、日本人出向者のおもてなしをしているだけと考えていたのでしょう。なぜお客さんが喜んでいるのかさっぱり分からず終始ぽかんとしていた様子が忘れられません。

私は、当たり前のことをしたまでで、そこまで認めて頂けると思っていなかったのでとても嬉しかった半面少し拍子抜けしたのですが、ふとお客さんに聞いてみたいことが思い浮かびました。

私「これまで日本のお客さんから幾度となく監査を受けてきましたが、人事にプレゼンを求められたのは初めてです。どうして、監査の締めくくりが人事だったのですか?」

お客さん「人事が最も重要だからに決まっているじゃないですか。製造や品質の標準書を確認して現場の見学をしても、それは過去の取り組みの結果を確認するだけで監査として不十分だからです。この会社と取引をしても良いかは、将来にわたって、高い品質の製品を安定的に供給してもらえる、という確認ができないと判断できません。そして、将来を決めるのは、設備や仕組みではなく、従業員の存在、仕事ぶりだけなんです。だから、その従業員のことを最もよく知る人事の責任者に話しをしてもらうのですよ。」

私は、お恥ずかしながら、このお客さんの話しを聞くまで、人事が何のために存在するのかを明確に説明することが出来なかったと思います。本当に目からうろこが落ちた瞬間でした。そして、この日以降、ドイツの提携先企業からベトナムに来ていたドイツ人出向者Eさんと私の関係がぐっと近くなりました。彼を通じて気付かせてもらった様々なことは次回のブログで書きたいと思います。