カテゴリー別アーカイブ: ①哲学

新入社員研修に自尊心教育が必要な訳

 新入社員研修プログラムアトランティックプロジェクトの目的の一つは、”企業人としての心構えを学ぶ”と言うことです。企業人として活躍していくために必要な心構えには、様々なものがありますが、弊社では、”自信と誇り”が特に重要であると考えています。

 『何とかなる』『大丈夫』と考えることができるからこそ、粘り強さ、前向きな姿勢、高い志、チャレンジ精神を生み出すことができるのだろうと考えているからです。

 ただ、この自信と誇りは、とても勘違いされやすいものでもあります。よく、「新入社員には自信と誇りなんていらないよ」などと言われることがありますが、これは、傲慢さや自惚れと混同されているからこその誤解であり、私どもにとっては、この自信と誇りは、不要のものどころか、最近の若年層の問題となっている早期離職や成長格差、メンタルヘルスなどのあらゆる経営問題を解決するカギとなる重要テーマであると考えております。

 自信と傲慢さは、明らかに違うものです。日本では、「自信のある人、自尊心の高い人」と言う言葉は、ほめ言葉と言うよりは、陰のある言葉として認識されているようで、自信や自尊心は、持つべきではないというニュアンスがあるように感じます。しかし、英語では、この2つは、はっきりと違うものと認識されています。

 自尊心はSelf-esteem、傲慢さやうぬぼれはPrideであり、両者は、まったく違うもので、Prideには影がありますが、self-esteemは、持つべき美徳であると認識されていているのです。

 うぬぼれや傲慢さは、決して自信からは生まれません。むしろ、自信の欠如から生まれます。傲慢な人は、『自分の本質は、いやなやつで、ダメ人間だ』と思い込んでおり、そんな本当の姿がばれてしまったら、誰からも相手にされるわけがないと思い込んでいるので、本当の自分の姿が絶対にばれないように強がりで煙幕を張っているだけであり、その根底にある心情は、自信ではなく劣等感です。

 本当に自尊心を持っている人は、決して自惚れないし傲慢にもなりません。腰が低く、友人が多く、謙虚です。しかし、だからと言って決して卑屈ではない。堂々たる紳士淑女であって、誇り高き存在なのです。

 真の自信に裏付けられている人は、ぶれません。生きる機軸がしっかりしているので、目先の損得で振り回されたり、人によってコロコロ態度を変えたりしません。だから、周囲からは、分かりやすく信頼できる人と感じられます。

 また、真の自信に裏付けられている人は、簡単にあきらめません。困難にぶつかり窮地に陥っていても、未来の可能性を信じているうえに、使命感があるので簡単にはあきらめることなんかできないのです。だから、周囲からは、頼りがいのある存在と思われるので、リーダーとして活躍することが多いと言えましょう。

 様々な考え方の一つに過ぎませんが、私どもは、人が力強く輝いて活躍していくために必要な要素として、最も大切なものが、そのような意味での自信と誇りであると考えております。

 新入社員がたくましく成長していく基盤となる重要なメンタリティもしかりであり、私どもは、健全な自信と誇りを育むことによって、若者の様々な問題(=早期離職問題、成長格差問題、メンタルヘルス問題)を根本から解決していくことができると考えています。

 そのような考え方をもとに、アトランティックプロジェクトでは、折に触れてそうした考え方やメッセージを提供しています。本プログラムを通して、新入社員が自らの力でたくましく輝くキャリアへの第一歩を踏み出す後押しをしていきたいと願っております。

われとなんじ

私どものラボラトリーメソッドの哲学的な骨格のひとつとなっている実存哲学者マルティン・ブーバーの考え方をご紹介します。ブーバーの主著は、「我と汝」という名著です。その中で、高邁な”関係性”の哲学を展開しており、今回は、その考え方の一部をご紹介したいと思います。

本書の中で、ブーバーは、世界は人間のとる態度によって2つとなるとしています。
ひとつは「われ-なんじ」の世界であり、もうひとつは「われ-それ」の世界です。

「われ-なんじ」の関係は、われとなんじが、個別な存在と言うよりは、本質的に同じ存在として認識しあえる関係であり、われがなんじと全人格的に関わり、関係性に生きる実存の世界です。
一方、「われ-それ」の関係とは、われとそれが異なった対象と認識する関係であり、われがそれを利用し、われに取り込もうとする分離と対立に生きる現象の世界となります。
その際、「われ-なんじ」のわれと、「われ-それ」のわれとでは、まったく異なった<われ>となります。

「われ-それ」の<われ>は、個的存在としてあらわれ、他を利用し経験する主観として自己を意識します。
一方「われ-なんじ」の<われ>は、人格的存在としてあらわれ、真実の関係を生きる主体として自己を意識することになります。

ブーバーによると、「われ-なんじ」の関係こそが、リアリティの世界であり、『人間や人類が「われ-それ」の個的存在に支配されればされるほど、われは、一層非現実の深みに落ちていく。現代のような(「われ-それ」の)時代には、人間や人類の中にあるわれは、再び呼び起こされるまで、地下に隠れ、いわば、無価値な存在となってしまう。』としています。ブーバーによると、現代文明の危機は、「われ-それ」の途方もない支配の結果によるものとなります。
「われ-なんじ」の全人格的な関係性を通して、「われ-それ」を癒し、自然を取り戻し、人格的存在となり、人間の全きを回復させていくことこそ大切と言えるのでしょう。

ブーバーの視点は、きわめて現代社会の問題点の本質をついているように思えます。行き詰っている現代のさまざまな問題を解きほぐしていくためのヒントや大切な指針となるのではないでしょうか。

受け入れるということ ⑤(最終回)

 近づきたい、だけど、近づきすぎると痛い。

 ヤマアラシのジレンマ。

 自分以外の他者とどうかかわればいいのか?

 とかく人間関係は、ままならないもの、意のままにはならない。

 平和と調和が大切と思う一方、度が外れたマナー違反や悪意には、猛烈な怒りと戦いで反応してしまう。

 困った隣人には、それほど寛容ではいられない。

 いったい人間関係をどうすればいいのか?

 人は、ややもすると、他人の考えや感情、態度や行動を、そうあるべきではないと評価したり、変えようとしたり、コントロールしようとしたり、努力するけれども、それらの試みは、たいていの場合成功はしない。

 あめとムチで、不安と恐怖に付け込んで相手の態度を変えることはできるかもしれないけれども、そうしようとする原因となる相手の心の在り方を変えることなどできない。

 有意義な変化は、決して外部からの圧力では起こらない。

 有意義な変化は、いつも必ず内面から起るのだ。

 私にとっては、理不尽で不条理な相手の態度や言動であっても、それは気の遠くなるようなプロセスを経て起こってきた結果であり、その原因は人知をはるかに超えている。

 小賢しい操作が通用するものではないのだ。

 できることは、ただ受け入れること。拒絶することでも、従うことでも、好きになることでもなく、ただ気づき、ありのままに受け止め、理解することだ。

 相手の不快な言動は、背景には、相手が感じている身体の痛み、いらいら、悲しみ、不快感、恐怖がある。しかし、それらの苦しみは、私も体験しており、十分にその痛みを理解できる。実は、相手が感じている苦しさは、私が体感している苦しさと同じものなのだ。

 相手が表現するものには、必ず原因があり、その原因は、私も体験的に理解できている。そうしようと思えば、相手を理解できるのだ。

 相手の痛み、悲しみ、いかり、不安、恐怖を、ありのままに見つめてみよう。

 拒絶するのではなく、自分にもあるものだと共感的に理解してみよう。

 驚くことに、関心を持たれ、受け入れられたものは、容易に姿を変えていく。

 恐怖は信頼に、怒りは友情に、悲しみはやさしさに。

 たとえ自分にとって都合が悪く不快で認知したくないものだからと言って、それから背を向けた瞬間に、それは野犬の様に牙をむいて追いかけてくる。そしてますます強くなり、ますます手に負えなくなってくるのだ。

 相手の今ここ、ありのままの痛みと喜びを、生まれ、傷つき、喜び、学び、年を取り、死にゆくそのすべてを見つめ、受け止めて、理解してみよう。

 相手の長所も欠点も、価値あるものとみなして、しっかりと見つめ、受け止め、理解してみた瞬間、分離感が癒され、和解が起こり、疑いから信頼へと、痛みから平和へと、関係性の変容という奇跡が起こる。

 大切なことは、自分にしろ他人にしろ、裁くことでも、罰することでも、操作することでもない。

 ただ受け入れること。真に愛することが大切なのだ。

受け入れるということ ④

 自分の中で起こっているさまざまなことがら、思考、感情、呼吸、消化、血液循環、緊張、反応、・・・。

 それらは、化学反応と同じように、素材と条件が整えば、必ず起こる。

 意思の力で止めようとしても止められないし、変えようとしても変えられない。

 あなたにとっては、理不尽に思えるような、あるべき姿ではないと思えるような反応であっても、それは気の遠くなるようなプロセスを経て起こってきた結果であり、その原因は人知をはるかに超えている。

 小賢しさが通用するものではないのだ。

 できることは、ただ受け入れること。拒絶することでも、従うことでも、好きになることでもなく、ただ気づき、ありのままに受け止め、理解することだ。

 自分にとってかかわりたくない事柄であっても、縁あって自分に起こっていること、しっかりと気付き、受け止め、そして十分に体験してみよう。

 それがどんなに不快な恐怖であっても、立ち直れないような深い悲しみであっても、逃げるのではなく、向き合ってみよう。それらは、起こるべくして起こったこと、価値あることなんだという思いで、よく体験してみよう。

 驚くことに、関心を持たれ、受け入れられたものは、容易に姿を変えていく。

 恐怖は注意深さに、怒りは改善への行動に、悲しみは思いやりに。

 たとえ自分にとって都合が悪く不快で認知したくないものだからと言って、それから背を向けた瞬間に、それは野犬の様に牙をむいて追いかけてくる。そしてますます強くなり、ますます手に負えなくなってくるのだ。

 快も不快も差別することなく、価値あるものとみなしてしっかりと気付き、受け止め、体験してみた瞬間、分離感が癒され、和解が起こり、容易に手放すことができるようになる。

 大切なことは、自分を裁くことでも、罰することでも、操作することでもない。

 ただ受け入れること。真に愛することが大切なのだ。

受け入れるということ ③

 受け入れる力を人生に活かすためにはどのようにすればよいのか?

 まずは、自分自身を受け入れること。

 私は、自分自身について、どの程度分かっているだろうか?

 私には、さまざま私がいる。

 私がわかっている私、私が気付けていない私。

 私が好きな私、私が嫌いな私。

 私がコントロールできる快適な私、私がコントロールできないやっかいな私。

 私がそうなりたいと思っている理想の私、そうなりたくないと思っている絶望の私。

 私が人に見せたいと思う素敵な私、人に見せたくないと思っているおぞましい私。

 さまざまな私をリードしようとする私、従う私、意のままにならない私。

 さまざまな方法で内面をリードしようとする私、独裁者の私、弱腰の私、暴君の私、陰謀家の私、評論家の私、検事の私、裁判官の私、信念の私、熟考の私、短慮の私、・・・。

 私の混沌とした内面を支配し、そうなりたい私、そう見せたい私になるために、私は、さまざまな努力をしている。

 私を裁くこと…こんな私はダメ人間だ、こんな私は罪びとだ、こんな私は死んだほうが良い、・・・。

 私のままならない面を脅し怒ること…何やってもダメなバカ者なんだな、このままだとのたれ死にだぞ、そんなだとみんなから嫌われて非難されるぞ、未来は不安と恐怖が待ってるぞ、・・・。

 私の嫌いな側面を攻撃すること…なんてダメなやつ、死んじまえ馬鹿野郎、お前なんか生まれてこないほうが良かった、・・・。

 私を矯正すること…そんなことは考えちゃだめだ、そんな感情は起こっちゃだめだ、そんな態度はだめだ、そんなことしちゃだめだ、・・・。

 私の支配権をめぐって戦うこと…そんな生き方じゃだめだ、もっと考えないと、もっと感性を大事にしないと、もっと直感を信じないと、もっと行動しないと、人に迷惑をかけるべきではない、人に迷惑をかけてもしかたがない、人を傷つけるべきではない、人を傷つけても仕方がない、自分が反省すべきだ、人を責めるべきだ、あっちがいい、こっちがいい、・・・。

 私をリードするために、私は、効果があるかどうかは別として、さまざまな努力をしている。

 ただ、していないことは、私を受け入れることだ。

 私は、いまここで、どんなあり方なのかということ、そんなシンプルなことを受け止めて理解していない。

 実は、私にまつわる多くの問題は、そこに起因しているのだ。

受け入れるということ ②

 受け入れることは、分離感をいやすということ。

 あなたがいったん受け入れることを始めたら、あなたと世界の間で存在していた幻想の壁、断絶、分離の緊張が和らぎ、癒され、内と外が共鳴し始めることに気づくだろう。

 不安や恐怖は、分離感の申し子。分離感が弱まれば、不安や恐怖も鎮まる。受け入れることは、不安と恐怖の根本をいやすのだ。

 受け入れることを通して、あなたは、より自由になり、より自分らしく輝くようになる。

 あなたが変われば、周りも変わる。あなたの輝きを受けて、あなたがかかわる人たちが、次第に、微妙に、根本的に変わってくることを次第にあなたは気づくだろう。

 受け入れることは、愛するということ。愛するということは、まさに、太陽の力。自分も他人もより自分らしく自由で輝かしく力強いあり方へと優しく変容を促すのだ。

受け入れるということ ①

 受け入れるということ、それは、拒絶することとは違う。

 拒絶することは、受け入れないことであり、受け入れることではない。

 受け入れること、それは、同意することとは違う。

 同意することは、他者の言うことを正しいと自分が思うことであり、受け入れることは、他者がそれが正しいと主張していることを理解することである。同意していなくとも受け入れることはできる。

 したがって、受け入れることと従うことは違う。

 受け入れたからといって、従う必要はまったくない。また、従うことは受け入れたことの証明ともならない。受け入れなくとも従うことはできるからだ。

 受け入れることは、好きになることとも違う。

 好き嫌いは実はたいした問題ではない。食べ物の好みが時とともに変わるように、好き嫌いは移ろいゆくもの、本質的なものではない。乗り越えられるのだ。

 受け入れるとは、相手のありのままを受け止めて、ありのままを理解すること。

 受け入れるとは、相手を裁いたり、操作したり、変えようとすることではない。そのままの相手を、そのままに理解しようとすることである。

 受け入れることは、途方もない大きな力を持っている。

 それは、北風ではなく太陽の力。

 暴力ではなく、優しさの力。

 改善の力ではなく、革命の力なのだ。

B動機とD動機

D動機とB動機という概念は、人間性心理学の巨大な哲人A.マズローによるものです。
 今日は、弊社の基盤となっている考え方のひとつである”マズローの動機付け”に関する弊社なりの認識をご紹介したいと思います。
 マズローによると、人が行動を起こす動機は、大きくD動機とB動機に分類できるとされています。
 D動機とは、欠乏動機と訳され、「自分には、何かが足りない」と認識している人が「足りない何かを満たさなければならない」と思い、自分以外の何かを求めてそれを得ようとする欲求を言います。それは、恐怖や不安に基づく動機でもあり、「そうしないと怖いからする」といった焚き付けられるような渇望ともいえましょう。
 一方、B動機とは、Be(存在、実存)から来る動機であり、自分自身の内面にある価値を表現していきたいと願う、自己実現の欲求であるとされています。B動機は、欠乏動機を追い求めることではなく、むしろそこから脱して自由となった人に訪れる欲求であり、「本当にそうしたいからする」といったシンプルで自然な欲求であり、健全なチャレンジ精神の根源ともなるので、その人の本来の潜在的な可能性とも言える動機ともいえます。

 マズローは、従来の経営管理は、人のD動機に働きかけて、人をうまくコントロールしようとする権威主義的なものが多く、その方法は、次第に機能しなくなるだろうと予測し、これからのマネジメントは、人の本来の力や可能性を引き出すB動機に働きかけるものであるべきであり、そのようなマネジメントこそが、人の本来のすばらしい創造力を引き出すのだと述べています。

 マズローは、
『人はだれでも、より高次の価値を体現したいという生まれながらの欲求を持っている。ちょうど亜鉛やマグネシウムを摂取するという生理的な欲求が、生まれながらに備わっているのと同じように。このことは、より高次の欲求や動機付けが生物学的起源を持つことを明確に示している。あらゆる人間は、美、真実、正義といった最高の諸価値を求める本能的欲求をもつのである。この考えが理解できれば「何が創造性を育むのか」が問題ではないことが理解できよう。真に重要な問題とは、「誰もが創造的とは限らないのはなぜか?」ということなのだ。』
『…何世紀もの間、人間性は軽んじられてきた。』
 として、人間本来の力を阻害するD動機による支配を明快に批判しています。
 
 そして、『人間が成長するにしたがって、権威主義的経営管理はいっそう深刻な問題を引き起こすようになる。成長した人間は、権威主義的状況の下で実力を発揮することはできず、そうした状況を嫌悪するようになるのだ。』として、個人の成長が、組織や社会のあり方を変えていくであろうことを示唆しています。『…恵まれた状況を経験した人間は、劣悪な状況には満足しなくなる。…人間が成長し、精神の健康度を増すにつれて、競争を勝ち抜く手段として進歩的な経営管理がいっそう求められるようになり、権威主義的経営管理を続ける企業はますます不利な状況に追い込まれる。』と予言し、このことは、学校や宗教団体でもまったく同じことが起こるだろうと言及しているのです。

 マズローが予言した状況は、まさに現代が抱えている問題のエッセンスといえましょう。
 毎日のように起こる企業の犯罪、問題行動は、やはり、前時代的な恐怖による支配、管理が行われている企業体質に多く発生しており、逆に、コミュニケーションや人間性を大切にしている進化したマネジメントを実践する会社は、ますます成長軌道に乗ってきております。
 また、マズローは、『厳格な権威主義的経営管理スタイルから参加型の経営管理スタイルへと移行し、権威による厳格な規制が取り除かれた直後は、無秩序状態が生じ、鬱積していた敵意や破壊性などが噴出してくる。』とも言及しており、進化に伴う痛みについても示唆していますが、今まさに起こっているさまざまな悲劇は、まさに変わろうとしている社会の生みの苦しみなのかもしれません。そう考えると、時代のダイナミズム、大きなうねりを感じます。また、戦争や多くの悲しみの先にあるものは、絶望ではなく、新しい社会の可能性なのかもしれません。