カテゴリー別アーカイブ: ⑧事例

襟川陽一氏のドラマ

 襟川陽一氏は、1950年10月生まれの栃木県出身です。実家は、栃木県足利市で染料の問屋を営んでいました。大学卒業後、襟川氏は、大阪の染料販売会社に就職し、将来経営を継ぐ者として、修行に励んだのでした。

 しかし、4年半にわたる大阪での修行を終えて実家の家業を継ぐべく、帰省したところ、襟川の入社3ヵ月後に廃業へと追い込まれてしまったのでした。
 染料業界は、構造不況業種であり、しかも競争が激しく、父親の奮闘むなしく、会社をたたまざるを得なくなってしまったのです。襟川が父親に呼び戻されたのは、その残務整理のためでした。

 一通りの手続きを終え、襟川は、新たな一歩を踏み出すべく、会社を設立することになります。しかし、その会社は、何と、廃業した会社と同じ染料を販売する会社だったのです。襟川としては、見通しや勝算があったわけではありませんが、父親の弔い合戦をしたかったのでした。
 創業後、襟川は、一生懸命になって営業活動を展開し、様々な研究をして経営にエネルギーをつぎ込んでいったけれども、如何せん、構造不況業種だけあって、なかなか思い通りにはいきません。そのうちに、家族の生活費に事欠くようになり、また、取引先の倒産、手形の回収不能、貸し倒れなどが起こり、事態はどんどん悪くなっていきました。

 奥さんの遺産相続資産を処分しながら運転資金を調達し、何とか経営を維持しながら苦闘している間、その苦しみの中で、様々な経営書、哲学書を読むようになり、そんな中から、現状の問題が明確に浮き彫りになってきたのでした。その問題とは、存在意義ということ、現在の染料の仕事には、もはや現代においては価値は少なく、もっと存在意義のある仕事に鞍替えしなければならないと言うことだったのです。
 しかしながら、そんなに都合よく簡単に存在意義のある儲かる仕事に商売換えできるはずがありません。襟川は、悶々としながら苦しい経営を続けていったのです。

 2年後、将来への希望を持てず、目標も無く、生きる張り合いも無い中で、30歳の誕生日を迎えた襟川は、奥さんから、誕生日のプレゼントにシャープ製のパソコンをプレゼントされます。
 襟川は、パソコンにとっても興味を持っており、かねてからのどから手が出るほどほしかったのでした。深刻に落ち込んでいる襟川を心配した奥さんが、へそくりをはたいて買ってくれたのでした。

 その後、襟川は、うまく行かない会社経営の欝憤をはらすかのように、パソコンに没頭していくことになります。もともと大好きなパソコンでしたので、上達は速く、まもなく独学で、会社の在庫管理や販売管理のプログラムを作ってしまいました。それだけに飽き足らない襟川は、台頭し始めたゲームを作ろうと思い立ったのです。
本来であれば、会社経営を立て直すために工夫したり、対策を真剣に考えていかなければならなかったのですが、ある意味で現実逃避ともいえる、1銭の得にもならないゲーム作成に熱中するようになってしまったのです。

 本業がままならない中、ゲーム作成に取り組み始めて1年後、襟川は、「川中島の合戦」と「投資ゲーム」を作り上げることになります。川中島の合戦は、歴史が好きな自分自身のために、投資ゲームは、幼いころに父親の遺産を相続した奥さんのために作ったものでした。

 しかし、せっかく作ったゲームでもあり、家族だけで楽しむだけではなく、食費のたしにでもならないだろうかと思い、雑誌『マイコン』に、5万円で小さな広告を出したところ、お客さんから大きな反響があり、手紙や電話が殺到し、郵便局から山盛の現金書留が配達されるようになりました。

 何と、そのつもりもなく作り上げたゲームが、予想外の大きなヒットをもたらしたのです。本業で苦労に苦労を重ねながらも結果が出なかった時代が続いていた襟川にとって、このヒットと忙しさは、何よりの喜び、生きがいとなりました。

 早速、染料の販売会社からゲームソフトメーカーへの転進を図り、徹夜で作り上げた新作が『信長の野望』であり、記録的な大ヒット商品となりました。

 このシミュレーションゲームのヒットをきっかけに、染料販売会社光栄は、ゲームメーカー光栄へと大きな飛躍を遂げ、全国に名をとどろかせることになりました。
光栄は、その後、「青き狼と白き牡鹿」「三国志」「三国無双」など大ヒット商品を次々と発表し、いまや代表的なゲームメーカーとして活躍しています。

 勝利の女神は意外なところで微笑むものです。しかし、これも、悪戦苦闘時代にあっても決してあきらめずに、絶望の中でも経営を続けていったこと、その苦しみの中で、経営について、人生について、深く考え、探求していったこと、そして、普通では体験できないような苦労を体験したことが見事に糧になって、成功につながっているのだろうと思いました。

 数限りない敗北のあとにこそ勝利の女神がやってくること、意味のない苦労などないということ、意味のない出会いなどないということ、チャンスは意外なところにあるということ、やっぱり好きなことにこそビックチャンスが潜んでいることなど、襟川さんの事例は大切なことを教えてくれているような気がしました。(旧ブログより転載)

    参照文献 「どん底から這い上がった男たち」すばる舎出版 鈴田孝史著

マズローの欲求理論⑥ B動機の経営事例

<B動機による経営の事例>

【リストラなしの年輪経営「伊那食品工業」】

伊那食品工業は、長野県伊那市の寒天メーカーであり、半世紀にわたって増収増益を遂げている。

その原動力となったのは、会社を導いた現会長の塚越寛氏による経営管理である。創業当初伊那食品工業は、半年で大赤字を出し、非常に危険な状況に陥っていた。塚越氏は、親会社から危機を乗り越えるために社長代行として経営に参画した。

 会社を強くするためには何が必要か?何が会社の存続を保証してくれるのか?経営者として塚越氏はずっと考え、出てきた結果が、「社員のやる気を引き出すこと」であった。機械は、どんなに頑張っても能力以上の仕事はしないが、人は本気になれば、3倍の仕事をする上に、工夫をこらして新しい未来を開くと考えたのだ。

 それでは、社員のやる気を引き出すためには何が必要か?塚越氏は、「これはおれの会社だ」と思ってもらえる会社作りをすることだと確信した。とはいえ、単に成果型の賃金にするだとか株式の持ち合いをするという制度的で利害に働きかけるものではない。もっと本音に働きかける方法が必要だ。かといって、冠婚葬祭、飲み会など積極的に開いていこうとすることはしない。負担が大きいからだ。

 塚越氏は、会社を自分の家族だと思ってもらうためにしたことは、情報公開だった。隠し事をすることなく、会社の現状の様々な問題を正直に分かち合ったのだ。信頼は、演出をしたり演技をしたり技巧をこらして作るものではない。正直なコミュニケーションを通してお互いの誤解や疑念、恐怖や不安を解消できれば自然に起こる感情である。そして、確かに信頼関係は難しいが、本当に実現できたらすべてが変わるのだ。

 また、塚越氏は、本当の意味で社員を大切にしようとした。だから、脅して焚きつけて働かそうとなんか夢にも思わない。逆に、安心して喜んで働いていける環境をつくろうとするのだ。だから、伊那食品工業はリストラはないし、今後もするつもりはない。また、人事制度は、純粋な年功序列である。やる気になってもらうための演出は特別するわけではないが、社員の不安や恐怖を引き受けて、社員を本気で守るのだ。社員を大切にするという経営の言葉は、淡い期待とともに、幾度も幾度も失望を呼んできた言葉でもある。しかし、本当にそれを貫いて信頼を勝ち取った会社は偉大である。そして偉大な成長を遂げるのだ。

 現在伊那食品工業は、国内マーケットシェアーが80%を達成。世界においても15%である。半世紀にわたって着実に増収増益を遂げる軌跡を持成し遂げている。そんな伊那食品の実績を見て、トヨタグループ、帝人など名だたる大企業が同社に学びに来ている。まさに、伊那食品は、新しい理想を切り開く未来企業なのだ。(続く)

 

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マズローの欲求理論④「D動機の経営」

マズローの欲求理論⑤「B動機の経営」

マズローの欲求理論⑥「B動機の経営事例」

マズローの欲求理論⑦「D動機の生き方」

マズローの欲求理論⑧「B動機の生き方」

マズローの欲求理論⑨「B動機の時代がやってくる」

涙の理由

 トヨタの代表、豊田章男氏の涙に共感しましたね。

 一連の騒動を受けて、米公聴会に出席しなければならなくなってしまったこと、事情が事情だけに仕方がないのですが、心境的にはとても厳しいものがあったと思います。

 そんな公聴会の後で、トヨタアメリカの系列販売店やケンタッキー工場の従業員が集まった集会に参加して挨拶をする際、参加者の予想外の思いやりの拍手と勇気づけられる言葉を受けて、「公聴会で私は一人ではなかった。あなた方や世界中の同僚がともにいてくれた」という挨拶をする際に、感極まって涙が出てしまったわけですが、私は、その涙にぐっとくるものがありました。苦しい時にはお互いに助け合うという古き良き企業の風土、忘れていたけれども企業経営にとってとても大切な思いやりや温かい人間性を垣間見た思いがしたのです。

 帰国後、章男氏は、涙の理由についてこう語ったそうです。

 「自分が守ろうと思っていたが、実は守られていたのは自分だったと実感したがゆえに図らずも涙が出てしまいました。」

 社員を守ろうとして気丈にも孤独な戦いを敢行しようとしたけれども、実は守られていたのは自分だったことを実感したとのこと。それを実感された時は、とても深い感動を覚えられたんだろうと思います。

 なんだかんだ言ってもトヨタは日本を代表する会社です。私はトヨタのプリウスに乗っていますが、言われているような不具合は全く感じませんね。何となく、あまりの成功に、嫉妬、言いがかりをつけられている感もあります。

 いちユーザーとして、ぜひ今回の出来事にめげることなく、頑張ってほしいと思いました。

 そして、豊田章男氏もおっしゃっていましたが、「車を愛し、地球環境に貢献する会社」という理想が実現されて、それこそ新しい人間性の時代をリードする素晴らしい誇り高い会社となられることを祈ります。

空飛ぶタイヤ

連続ドラマ「空飛ぶタイヤ」を見ました。レンタルビデオ店で、3本まとめて借りてみました。

三菱自動車の起こしたリコール隠しをモデルとしたドラマであり、トラックの脱輪による死亡事故を発端として、当初は犯人扱いされた運送会社の社長が、さまざまな逆風下の中で事件に立ち向かい、しだいに事実を明らかにしていくにつれて、自動車メーカーの隠し事とうそとでっち上げを暴き、自らの潔白を証明すると同時に自動車メーカの経営者の逮捕に至る一連のドラマを描いています。

私自身も、サラリーマン経験があり、こうした理不尽かつ不条理な世界の中で苦労した体験もあるので、このドラマは、とても入り込んで感動しました。

主人公は、当初犯人扱いされていた運送会社の社長であり、脱輪したタイヤによって起きた死亡事故が整備不良によるものだったと疑われて、警察から家宅捜索を受け、亡くなった被害者の遺族からなじられ、民事訴訟を起こされます。事故を知った顧客から次々と仕事を干されて、経営が行き詰る中、1億5千万円の訴訟を起こされてしまうのです。事件をきっかけに社長の子供も学校で陰湿ないじめにあい、奥さんも地域社会の中で肩身の狭い思いをすることになります。なんという逆境でしょうか。私が同じ立場になったらと思うとぞっとすしますね。しかし、社長は、絶望する気持ちを奮い立たせて、社員の主張を信じて整備不良が原因ではなかったと主張し、本当の原因を探しに行動を起こしていくのです。

結論は、自動車メーカーが、本来ならばリコールすべき自動車メーカーの過失を隠し、それを運送会社の整備不良のせいにしようと、様々な策略を練ってついていたうそを暴く展開になるのですが、何しろ相手が巨大な力を持つ企業であり、弱小中小企業のしかも倒産を目前に控えた会社社長が立ち向かうのは並大抵ではありません。度重なる挫折と逆風に幾度も絶望しそうになるのですが、そのたびに従業員や家族、友人から勇気づけられ、支援を受けて、一丸となって企業の巨悪に立ち向かっていくことになるのです。

私は、三菱自動車のリコール隠しの詳細については正直良く分からないので、この物語のどの程度のリアリティがあるのかが分かりませんが、確かに、事件当初は、運送会社の整備不良が原因だと報道されていたことは事実であり、それが原因で運送会社は、経営が危機にさらされたことも事実のようです。

私自身が、当時の間違えていた報道を鵜呑みにしてしまい、しばらくは、悪い奴は運送会社なのだと思い込んでいましたから。ドラマとはいえ、こうして改めて丁寧に振り返ってみると、報道を信じて人を悪者に思い込んでしまうことはとても怖いことだと改めて感じましたね。

不器用で真っ正直で、情熱的ではあるがやさしく、あまり難しい策略を考えられないけれども直球勝負で真正面から問題解決を図ろうとする運送会社社長に私はとっても共感してしまい、他人とは思えない気持ちになり、ドラマを見ながら、「そんなこと正直言っちゃだめだよ!」「負けるな!」「そうだそうだやっちまえ!」など、お酒を飲みながら、妻と2人で声をあげて応援してしまいました。

最後に、真実が明らかになり、企業の巨悪が暴かれて、身の潔白が証明された時には、とてもすっきりした気持ちになりました。

これは明らかに三菱自動車の当時の悪を暴いたドラマであり、テレビで放送するには様々な問題があったと思いますが、そんなドラマを作成し放送したWOWOWの見識と勇気に拍手を送りたいと思いました。これからも、こうした権力に擦り寄らずに真実を伝えようとするドラマや番組がどんどん増えていけばいいのにと思った次第です。

空飛ぶタイヤ、すごいドラマです。お勧めです!


新しい時代の問題解決方法

 2009年 11月21日NHKの追跡!A to Zにおいて、「 なぜ増える?”ゴミ屋敷”トラブル」と題して、ごみ屋敷の問題を取り上げていましたが、その中のごみ問題に対する問題解決の方法としてユニークな事例が報道されていましたので、こちらで紹介します。

 事例は、豊中市のソーシャルワーカー勝部麗子の試みであり、勝部さんは、今まで50件以上のごみ屋敷問題を解決してきたとのことです。

 勝部さんによると、ごみ屋敷問題は、単に問題を起こしている人を説得してごみをかたずけるだけでは本質的な問題解決にはならないと考え、ごみ問題を起こしている人の元気と社会的な絆の回復を伴う必要があると活動を展開されています。

 番組の最中に紹介された問題解決の方針は、以下の2つがあります。

1.人任せの苦情は受け付けない

2.節度あるおせっかい

 

 私が特に感心したのは、1の人任せの苦情は受け付けないという方針です。この方針の背景には、「問題は、問題を起こしている本人だけにあるのではなく、地域全体の問題でもある。」という考え方があるとのことで、「問題を解決するためには、本人に変わってもらうだけではなく、地域全体が変わる必要がある。」という方向性を持っているとのことです。

 私たちは、ややもすると、問題が起これば、その問題を自分とは切り離し、分析し、取り除いたり交換したりして解決を図ろうとしますが、勝部さんの方針は、そうではなく、問題が起これば、自分もその問題の一部であり、自分も含めて解決に向けて変わっていく必要があると考えるのです。

 人と人との関係性が薄まってしまった現代社会では、他人に対して基本的に温かい関心を持つことは少なくなりましたね。ましてや、「隣がごみ屋敷」のような境遇に置かれたら、その迷惑は計りしれませんので、どうしても問題を起こしている人を「困りもの」「敵」「加害者」「悪」として裁き、非難攻撃する立場になってしまいます。その心境はよくわかりますし、私もそうするだろうと思いますが、ごみ屋敷問題を起こす人たちの心理状態に共通してあるものは「寂しさ」であり、近所の敵意や攻撃は、こうした寂しさを助長してますます問題を深みにはめてしまうという悪循環につながってしまいます。

 勝部さんは、問題を起こしている人を非難したり叱ったりするのではなく、味方になって応援したいという意向を言い続け、信頼関係をはぐくむというアプローチをとります。 そして、ごみ捨てに合意してもらったとしても、一気に解決するのではなく、一部屋一部屋期間をおいてゆっくりと解決していくそうです。そのプロセスの中で、絆をはぐくみ、問題を起こしている人の社会復帰を促し、元気の回復を応援していくのです。

 本当に意識の高い愛のある問題解決方法だと私は思います。なかなか出来ることではありません。その活動に本当に頭が下がります。

 こうした活動を通して解決できたごみ屋敷は、それ以降は、ごみ屋敷化することはないとのことです。厄介な問題、時には、自分に火の粉が降りかかる困った隣人を、敵視して排除しようとするのではなく、自分も含めた全体として問題をとらえ、ともに成長を計る。厄介者を悪として裁き、正義の立場から戦うのではなく、ともに問題解決を計る仲間としてとらえ、高い意識と愛を持って解決に当たる。まさに21世紀的な問題解決の方法なのだろうと思います。私自身とても勉強をさせていただいたなぁと思いました。できるかどうかは別として、そのような方向性がきっとより建設的で効果的な方法なのだろうという理解のもとで、一つの大切な目標としたいと思います。

梅野さんの事例

 梅野さんは、高校卒業後、日産のディラーに就職するものの、3か月で退社。温泉旅館に転職したが、仕事の厳しさで半年で退職する。

 その後、福岡・滋賀・京都・大阪で料理の修業をし、かに料理専門店を創業。珍しさもあって、顧客に受け、経営的に大成功する。

 しかし、その成功を受けて、かに専門店以外に様々な業態でレストランを出店するものの、すべて失敗。料理人との確執など、さまざまなトラブルもあって、深刻なピンチに陥る。

 何とか窮地を脱出しようと、霊媒師や超能力者に頼るが、すべてうまくいかず、自ら禅寺に修行に行く。修行中、自分と向き合う中で、ふと見かけた言葉「人に感謝、物に感謝」が胸に飛び込んできた。今までは、悪いことがあれば人のせいにして、人を見れば人を利用しようとばかりしていた自分に気づき、それではいけないと生き方を反省した。利用する生き方から感謝する生き方へ、人生の基軸をシフトしようとしたのだ。

 その後、謙虚に人気店を回るなど勉強を進め、新たに健康志向の和食レストラン「梅の花」を創業する。

 梅の花は、感謝の気持ちを大切に、親切なおもてなしやお客さんを裏切らない高い品質を提供することで成長し、豆腐や湯葉のレストランとして、現在では売上高285億円を誇る一大レストランチェーンと変貌を遂げたのである。

大切なのは家族が信じあうこと

神奈川県の大学1年、仁科枝里子さん(24)は小学4年の終わりから21歳までの11年間、学校には全く行けなかったし、行かなかった。・・・・アルバイトなどしましたが、ほとんどの月日を家に引きこもるといった生活を送っていました。・・・・そんな仁科さんを支えたのは家族だった。父も母も投稿や進路について一切口を出さずに見守り続けたという。後になって、父が「枝里子は思い立ったら必ず動く子。心配しなくていい」と母に話していたと聞いた。・・・20歳を過ぎたとき、「学びたい」という気持ちが強まった。仁科さんは2歳年下の妹の勧めもあり、定時制高校に通うことを決意した。・・・・仁科さんが不登校を経験している子供やその親に伝えたいのは、<子供がいつか必ず動きだせるその時まで家族が信じあい、ともに不登校と付き合っていくのが大切>ということだ。<立ち止まったところが不登校という形であっただけ。力を蓄えるための準備期間が不登校と呼ばれてしまったりもするのだと感じています>

                        2009年11月4日(水) 朝日新聞朝刊

 

 今朝の朝日新聞朝刊からの抜粋記事です。とっても感動したので、ご紹介しました。記事中の仁科さんは、実名で投稿されているそうです。11年にもわたる不登校と引きこもりを克服したのは、家族の信頼関係だったという貴重な経験を公表してくれた仁科さんに感謝です。大切なのは、非難や脅しや操作や強制ではなく、やはり愛と信頼関係なのだろうと私は感じ入りました。

 子供が不登校になると、親は、社会から外れてしまうのではないか、未来の可能性が全く閉ざされてしまうのではないか、このままずっと引きこもるのではないか、などという不安と恐怖にさいなまれてしまい、余裕を持って子供の成長を見守ろうと思っても、なかなか気持ちが付いていかないのが現実だと思いますが、その点仁科さんのご両親は、立派だと思います。

 「枝里子は思い立ったら必ず動く子。心配しなくていい。」11年にもわたる引きこもりの中で、こんなに力強い信念と愛情に満ちた言葉はなかな言えないのではないでしょうか。

 素敵な体験をシェアーしてくれた仁科さんご一家に、ますますの幸せがありますように!

矢野さんの事例(道は開ける)

 矢野氏は、中央大学の夜間部を卒業後、妻の家業のフグ養殖会社を継ぐが、2年半で倒産。数千万円の借金を残して、夜逃げをした。

 生活のために百科事典の訪問販売の職に就くが、飛び込み営業が全く出来ずに、数カ月で退職する。

 その後、ちり紙交換、ボーリング場など、職につくものの安定せず、転職を繰り返す。9回目の転職でビニール雑貨の雑貨商となる。

 要するにバッタ屋であり、倒産した会社や倒産しそうな会社から捨て値で仕入れた商品を、移動で販売する仕事であり、固定客もつかず、かろうじて食いつなげるだけの経営を続けていた。

 そんなある日、顧客から「安物買いの銭失い」と言われ、カッと来て、やけくそになって、採算度外視で良いものを全品100円均一で閉店セールと称して販売した。

 すると、驚くほどお客さんが集まり、大反響となり、売り上げも増大した。それに比例して仕入れ先も拡大し、商品アイテム数も増えていき、店舗も大きくなっていった。

 現在、矢野氏の雑貨商は、ダイソーとなり、年商二千億を超える一大小売りチェーン店へと変貌を遂げたのである。

 

                          (参照 「逆転バカ社長」石風社)

スーダンで医療活動する元大使館医務官

 今朝(2009年10月26日)の朝日新聞朝刊で、川原尚行さん(44)とおっしゃる医師の記事が掲載されていましたので、ご紹介します。

 川原さんは、もと外務省の職員であり、アフリカ北東部スーダンに、日本大使館医務官として赴任していました。しかし、スーダンでは、マラリアやコレラで多くの子供が亡くなっており、10人に一人が5歳まで生きられない状況だったのです。川原さんは、そんな現状を目の当たりにして、医師としていたたまれない思いだったとのことです。しかし、大使館の医務官としては、現地の人たちを診察することは許されないので、なんと、外務省を退職し、現地の医師免許を取得して医療活動を始めたのです。現地では、お金を得ることもできずに、1700万円だった所得が無収入になったとのことです。

 名誉も権威も安定した職も所得も投げうって、困っている人たちのために従事する。世俗の価値観に染まった立場から考えると、途方もない人生の意思決定です。いまどき、こんなに熱い人がいるのかと、驚いたと同時に同じ日本人として誇らしい気持ちにもなりました。

 川原さんは、NPO法人「ロシナンテス」を設立し、活動資金を寄付で賄っているとのことです。私も少しでも役に立てればとわずかではありますが、寄付をするつもりです。

 「混乱が続く国で子供たちの夢を持ってほしい。子供に必要なのは、笑顔で遊ぶこと」を志を語る川原さん。その志が実現されることを心から応援したいと思いました。

大志を抱く(澤田さんの事例)

 澤田秀雄氏という20代の青年がいた。

 福岡の古くうす暗く狭いマンションの一室でヒデインターナショナルという格安航空チケットを販売する会社を経営していた。

 澤田氏は、GパンとTシャツでおおよそ社長らしからぬ恰好をしており、事務所は、貧乏そうな雰囲気であるが、言うことだけは大きかった。

 「将来は、旅行業界で日本一の会社になって、ホテルも航空会社もやるよ。海外にも支店をつくるし、移動は自家用ジェット機だ。」

 現実と言うことのあまりの格差に、この人は大ぼら吹きだ、誇大妄想病か詐欺師だと思った。しかし、何度会ってもいつも同じことを熱っぽく語った。

                                   (参照:逆転バカ社長 石風社) 

 

 このヒデインターナショナルは、この5年後(1990年)株式会社エイチ・アイ・エスと社名を変更し、1996年にスカイマークエアラインズを設立し、2004年に東証で一部上場し、2006年ついにJTBを抜いて国内旅行業界で一位となる。

 ありえなかった澤田氏の夢は、20年後にはすべて実現したのである。