月別アーカイブ: 2016年12月

今年一年ありがとうございました

弊社も今日で仕事納めです。

昨日から友人が遊びに来てくれていて、楽しい忘年会を開きました。今年一年の締めくくりとして、とても素敵な時間を過ごすことができました。Oさんありがとうございます!

今年は、会社としても個人としてもいろんなことがありましたね。

うれしかったことも、ピンチだったことも、ともに初めてで規模の大きいことが多くて、戸惑うこともありましたよ。でも、なんとかこうして平和に年を越せることは、とてもありがたい事だと思っております。

それもご縁をいただき、応援くださっている多くのお客様、友人たち、家族、ご指導くださっている方々のおかげです。

この場を借りてお礼を申し上げます。本当に今年一年、ありがとうございました。

来年も、きっといいことがありますように。

どうぞよいお年をお迎えください。

自己犠牲ではなく自己選択として生きる

私は、「自分を犠牲にして他人を助けることは、美しいことだ」と教えられてきました。ですから、子供の頃は、忠実にそうあろうと思い、いろいろと努力したものです。しかし、そうした努力は、たいていの場合実を結ぶことはできませんでした。自分のためではなく人のために何かをしようと思っても、それは、自己犠牲どころか、必ず自分のためになることにつながっていたからです。

純粋に他人のためだけにやっているのだと思い込んでも、どこかしら自分の得になる要因が必ずありましたね。かっこいいヒーローになったような気がして自己陶酔ができましたし、人からほめられてうれしかったし、人から「大変だったね」と同情されたし、何しろ人から注目を集めることができて得意気な気持ちになるなど、私にとっては犠牲の悲しみを体験したと言うよりはひそかな喜びを感じておりました。

私は、「自らを省みずに人のためにやったのだ」と言った時、決してそんなかっこいいことではなく、きっと名誉であるとか名声のような秘めた欲求と引き換えに行っていたような気がして、「自己犠牲の精神」にはたどり着けていないような、むしろ「尊い自己犠牲の心」を傷つけているような罪悪感を感じていたように思います。

しかし、そうした純粋な自己犠牲の精神と言うものは、本当に存在するのでしょうか?また存在したとしても、それは尊いのでしょうか?

いろんな考え方があるのでしょうが、私は、そのあたりは、非常に微妙なところであるような気がしています。だって、自分を犠牲にしたら自分の両親が悲しむじゃないですか。悲しむ人や苦しむ人を生み出す行為は決して尊い最善の行為とは言えませんよね。犠牲と言う言葉には、どこかしら悲しみやネガティブな要素が入っているのだと思います。暗いし陰気くさいし、太陽のような圧倒的な明るさが無い。何かもっとハッピーエンドな問題解決方法があるかもしれないのに、そんな探求をあきらめて、「それ以外の選択肢がなかったんだよ」なんて巧妙な言い訳をしながらどこかで自分を正当化できそうな悲劇を選んでしまった弱さや暗さがあるような気がします。

そもそも、犠牲の上で助けられた人は、うれしいのでしょうか?私だったら、あまりうれしくはないですね。私の性格にもよるのでしょうが、むしろ、「他人を犠牲にして自分が助かるなんて自分はダメなやつだ」「自分は助けた人を犠牲にしてしまった加害者だ」と感じてしまい、それを合理化するために「余計な事をしてくれるな」「他人のことではなく自分のことをまず大事にしてくれよ」「自分も救えないやつに救ってもらいたいなんて思わないよ」なんて思いがやってきてしまいます。少々罰当たりかもしれませんが。

結局のところ、自己犠牲は、自分を犠牲にするので自分を幸福にすることもできませんし、助けた人を犠牲の搾取者と言う加害者にしてしまい、心を罪悪感の呪いでしばりつけて支配してしまうことにつながり、助けた人たちの心にも不幸の影を落としてしまうのです。

ですから、自己犠牲は、決して美徳ではありません。

私は、大切なことは、自己犠牲ではなく自己選択なのだと思います。
自己選択とは、自分で意識的に自分が大切にしているものを選ぶということです。そして、それはあくまでも自分のため、自分の価値のために自分が選んだ行為であり、それは自尊心を持った意志であって犠牲ではありません。ですから、その恩恵にあずかる人も、罪悪感を感じる必要がないのです。
例えば、「あなたが働く」ということに関して、自己犠牲の視点からそれを表現すると、「苦労を引き替えに家族のために働く」となり、自分も苦労の被害者となりますし、家族も苦労を搾取する加害者にしてしまいまうでしょう。

しかし、それを自己選択の表現に変えると、「家族が幸せに生きることが私にとっての喜びなので、その喜びのために、苦労しないで楽に生きることよりも苦労をいとわずに働く事を選ぶ」という意志となり、自分も自分の(喜びの)ために働くので被害者ではなく、家族も他人の苦しい労働を搾取しているわけではないので、一切の罪悪感を感じる必要はなくなるでしょう。結果的に、あなたは喜びを実現できて幸せであり、家族は心からあなたの強さを誇りに思えるだろうし、感謝の思いが自然にわいてくることでしょう。

たとえ「自分の命を引き換えにしてでも人を助ける」と言う行為であっても、それを自己犠牲の視点から見るのではなく、自己選択の立場で見たいのです。
もしそれが自己犠牲によるものだとしたら、犠牲になった人も不本意で不幸だったであろうし、助けられ残された人たちも、決して無条件の安堵と歓びを享受することはできません。人に犠牲を強いた加害者としての罪悪感に一生を通して縛られ、心に影を落とすことになってしまうことでしょう。

もしそれが自己選択であったならば、亡くなった方は、自分のため、自分の信念のために生きたという満足を得て、自分の肉体の命よりも大切なものを選んだ強さを誇りに思うことができただろうし、残された助けられた人たちは、自分自身を“犠牲を踏み台にした加害者”としてではなく“命がけで愛された者”として自分たちを肯定的にみることができるのです。結果的に、深い心からの尊敬と愛をもって亡くなった方に感謝することにつながるでしょう。

心の基調が、自己犠牲であることと自己選択であることは、そうした大きな違いを生み出すことになると言えるのです。